空白の男

私は名前と顔と、記憶をも失ってしまった。いや、正確に言えばそれらのものは——少なくとも「顔」と「記憶」の一部は——きちんと存在してはいるのだが、私の本来のものではないのだ。私には本能的にそれが分かる。

ある朝起きたとき私は無名の男になっていた。文字通り名前を失っていたのである。たしかあのときは・・・海の夢を見ていたのだった。広い広い海。空は灰色で、潮の香りが漂ってくる。私は砂浜を歩いていて・・・ふと何かが打ち上げられているのを発見する。そう、そうだったはずだ。それは始め流木に見えたのだが、すぐにそうではないことが明らかになる。それは白い人骨●●だったのだ。すべての骨が揃っていた。私にはすぐにそれが分かった。頭蓋骨、あばらの骨、細かい指の骨・・・全部欠けることなく揃っている。骨は一箇所に寄せられるように置かれていたが、私にはこれが流れ着いたのか、あるいは誰かがここに運んできたのか、それともこの場所でまさに●●●死んだのか・・・そのいずれとも判断することができなかった。まあなんにせよ——と思いながら私はその光景を眺めている——とにかく●●●●この骨は今ここに存在している。大事なのはそのことじゃないか。

私はじっとその骨を眺めていた。ほかには何も登場しない、ひどく静かな夢だったことを覚えている。波の音がする。雲の陰影が、ほんの少しだけ変化している。風がそっと吹き寄せてくる・・・。そのときハッと気付いたのだが、その骨はまさに私自身●●●だったのだ。誰に教わったわけでもないのだが、本能的にその事実が身体に染み込んできたのだった。これは俺じゃないか●●●●●●●●●、と。その骨の空虚な眼窩がんかはじっとこちらを見つめているように、私には感じられる。あるいは逆だったのかもしれない、とそのとき悟る。見つめていたのはこちらではなくて、最初から骨の方だったのかもしれない、と・・・。

そう思うと身動きが取れなくなってしまった。正確に言えば「取れなくなった」のではなくて、「取る気力が失われてしまった」ということではあるのだが。そう、私は「気力を失った人間」として、そこに存在していた。というのも私の本質は、むしろ骨の方に属していたからである。私には本能的にそれが分かったのだ。

骨はしばらくの間私を見つめていたあとで、突然カタカタカタカタという音を発し始めた。そう、骨が、ひとりでに、動き始めたのである。骨は細かく震えていた。まるでリズムを刻むかのように、執拗に・・・。私はただそれを聴いている。私はただそれを聴いている

死が我々の中心にあったのだ●●●●●●●●●●●●●、とようやく私は悟る。そのあたりで目が覚めた。

起き上がると、ひどく身体が軽くなっていることに気付いた。生まれて初めて、自分は真の意味で自由なのだ、と感じた。正直なところ、内臓を全部取り出されて、一度徹底的に洗浄されて、元に戻されたみたいな気分だった。私はこれまでにないくらい私自身なのだ、と感じる。そしてまず便所に行って用を足した。

異変に気付いたのは顔を洗って、ひげを剃っているときだった。私はルーティーンに従って行動しているのだと思い込んでいた。なぜなら身体が勝手に動いたからである。自動的に肉体的記憶が私をあるポイントまで運んでいく・・・。しかし問題はそれが「あるポイントまで」で留まっていたことにある。私はふと自分の顔を見る。というか、自分の顔であるはずの●●●ものを見る。そこには30歳前後の男の顔が映り込んでいた。しかし、私ではない。絶対に私自身ではないのだ。彼はじっと私のことを見つめている。果て、こいつは誰なんだろう?

私はかれこれ30分ほども彼と睨めっこを続けていたと思う。でも何も解決しなかった。何も思い出せなかった。一人の男が今ここに存在している、という事実が認識できただけのことである。その「一人の男」は何か別の行動を取りたいと欲していた。私にはそれが感じ取れた。だから寝室に移動することにした。ごく普通の寝室。ベッドが置かれ、隅の方に木目調のチェストが置かれている。あとは姿見。壁には奇妙な額縁がくぶちが掛かっている。いや、額縁そのものは木製のごく普通のものなのだが、その中身が変なのだ。そこには何もなかった。要するに空白だ。後ろにある白い壁だけが、四角く縁取られている。これは・・・何を意味しているんだろう、と私は思う。これから何かを入れるつもりだったのか、それとも・・・。

結局何も分からなかったため、とりあえずは奥のカーテンを開けてみることにする。緑色の、何の変哲もない、がらのないカーテン。その先にはベランダが続いていた。明るい日光が飛び込んでくる。どうやらここは三階であるようだった。ベランダの隅にはからのプランターが置かれていた。またからだ、と、私は思う。額縁と一緒だ。空白・・・。

しばらく外を眺めていた。朝の空気は澄んでいて、吸い込むと生命の匂いが肺に満ちるのが感じられた。住宅街の一画らしく、近くの道路の交通量は多くなかった。せいぜい数台ほどだろうか。一人の老人が、ウィンドブレーカーを着て、犬の散歩をしていた。黒い毛の中型犬だった。その犬は私の記憶の奥の何かを刺激していた。名付けることのできない、しかし確実に存在する何かだった。問題は、と私は思う。あまりにも中枢に近いせいで、私には理解することができない、ということだ。それが動かす領域は存在する。その震えを漠然と感じ取ることはできる。しかし「それ」そのものについては、私には視認することができない。そのもぞもぞとした気持ち悪さを、終始感じ続けることになった。

その犬と飼い主が左に曲がって路地に入るのを見届けたあと、私は部屋に戻った。孤独な、何の変哲もない、部屋。息を大きく吸い込んでみたが、特に気分は良くならなかった。ただ単に空気が肺を膨らませただけだ。

さて、と私は思う。何かをしなければならない。でもいったい何を? 私は自分の名前すら知らないのだ。そんな人間に何ができる? というかそもそもここはどこなんだろう? 私は日本語をしゃべっている。少なくとも自分では「日本語」だと思っている言語、という意味だが。だとすると、おそらくここは日本なのだろう。なんとなく雰囲気からも——その「雰囲気」は私の中の例のもぞもぞ●●●●と密接に結びついていたのだが——その仮定に間違いはないように感じられる。しかし都市名となると・・・さっぱり浮かんでこない。「東京、大阪、名古屋」と私は実際に口に出して言ってみる。でもどれもしっくりこないのだ。あるいはもっと小さな街なのかもしれないと思って「仙台、さいたま、千葉、川崎・・・浜松、新潟」と言ってみる。でもやはり違う気がする。横浜? 横浜は小さな街ではなかったはずだ。たしか。「京都、神戸、岡山、広島、福岡、熊本・・・」と続けてみたが、全部外れだった。私の本能がそう告げていたのだ。

私はその後も別の名前を続け・・・結局はこう結論付けるに至った。ここは名前のない街なのだ、と。私がアイデンティティを失ったように、この街もまたアイデンティティを失ってしまったのではないか、と。そう思うとこの違和感の説明が付くような気がしたのだ。名前のない街・・・いや、違うな、とすぐに思い直す。ここは「空白の街」だ。内部に空白を湛えた街なのだ。私には今本能的にそれが分かった。

私はダイニングキッチンに移動した。いくら空白の男といえども、さすがに何か少しくらいは「個性」につながる手掛かりがあるのではないかと思ったからだ。しかしそこにあったのもまた交換可能なものでしかなかった。マスプロダクトされた商品たち。四角いテーブル。キャスターの付いたイス。そしてテレビ・・・。テレビ? と私は思う。あるいはテレビを点けてみれば、何かしらの情報は得られるかもしれない。この空白の街で、人々はどんな番組を観ているのだろう・・・。

リモコンを取り上げ、電源ボタンを押す。しかしまったく反応しない・・・。壊れているのかな、とも思ったが、そこで本体の方の主電源が切れていることに気付いた。気を取り直してそちらに向かい、脇の方にあった赤い小さなボタンを押した。少し間が空いて、何かが映し出された。私はイスに戻り、じっとそれを見つめている・・・。

それは始め普通のニュースのように見えた。アナウンサーがいて、ニュースの一覧が六行、画面の右端に並んでいる。大型トラックと軽乗用車が正面衝突していた。二人死亡。一人重症。地方議会の議員が汚職の疑いで逮捕されていた。あとは海外のニュース。アメリカでの銃乱射事件。アフリカからヨーロッパへと命辛々からがら密航する難民たち。「難民」以外の人々も、もしかしたら混ざっているかもしれない・・・。以上。次。明日の天気・・・。

私は何か、うまく言語化できない違和感を抱きながらこの映像を観続けていた。何がおかしいんだろう、と思う。こんなのはごく普通のニュースに過ぎないじゃないか・・・。

そのときそれが音であったことに気付く。音? 音・・・。30代後半と思われる、細身のアナウンサーの張りのある声。いささか単調ではあるが、今まで何度も聞いてきた声だ。少なくとも私のどこかにある「記憶の倉庫」には、似たような声がおそらくは30種類以上はストックしてあった。研修がこのような無個性な声を作るのか、それとも無個性な人間が研修を好むのか・・・。いずれにせよその「倉庫」の中には私個人を特定するような個別的な記憶は一切含まれていなかったのだが。

、と私は思う。おそらくは一番の問題は、その彼の声があまりにもプロフェッショナルでよどみがなかったことにあるのだと思う。普通の血のかよった人間ならば、さすがにもっと影のようなものがにじみ出てくるはずだと思われるからだ。ゆがみがない、とでも言えばいいのだろうか。もちろんかつて私が聞いていた声も、こんな風に矯正された、いささか「正常さ」が鼻につく、プロフェッショナルな声だった。それはたしかだ。しかしその奥に、おびえた——あるいは自由を忌避きひする——なまの人間性が透けて見えたこともまたたしかだったはずなのだ。しかしこの男に関しては・・・それすらも見えない。そんなわけはない●●●●●●●●、と思いながら私は彼の顔を見ている。さすがにこんな状況で、一人の人間が生きていけるわけがないのだ。必ずどこかにエラーが生じてくるはずだ。なぜなら生き続ける「意味」というものがなくなってしまうからだ・・・。

奇妙な音の存在に気付いたのはそのあたりだ。キーンという甲高い耳鳴りのような音がしている。それはニュースの間ずっと続いていて、そのあとに別の番組が始まったあともまだ鳴り続けていた。次の番組はアメリカのロッキー山脈を紹介する紀行番組だった。雄大な景色。クラシック音楽がBGMとして使われている。少しして女性の声のナレーション。彼女の声もまた無個性だった。表面的にはうまく取りつくろっているのだが、聞く人が聞けばすぐに分かる。この女は生きてはいないのだ●●●●●●●●●●●●●、と。もしまだ死んでいなかったとしても——つまり肉体的には、だが——その意識は機能を停止している。あるいは金の代わりに売り渡したのかもしれない。誰に? と私は思う。テレビ局に、だろうか? それとも政府に? その辺の細かい事情までは分からないが・・・。

私はチャンネルを変えた。そこでは民放と思われる放送局がバラエティ番組を流していた。やかましい音楽と笑い声。何かのゲームをしていた。全身黒いタイツを着た男数人が、ボールがたくさん入ったプールの中で、何か小さい物を探していた。見つけた、と思ったら生きた蛇だった。男は驚いて跳び上がる。観客は笑う。ただ脇の方に座って笑顔を振り撒くだけの若い女性もいた。私はこれを観ても時間の無駄だと思ったからテレビを消した。

少なくとも民放の番組の方では生きた人間が出演していた、と私は暗くなった画面を睨みながら思う。あちらにいたのは機械ではなかった。しかし、機械ではないかこそ、不毛なことで時間を潰している。彼らの目は実際にひどく哀しげに、私には映った。そして例の甲高い音・・・。

それは実際のところテレビを消したあとも残り続けている。キーン、という音。私は暗い画面にぼんやりと反射された自分の顔を眺めながらその音を聞いている。これはテレビを点ける前までは聞こえていなかったものだ。それはたしかに思い出せる・・・。だとすると、あの番組たちを観たことによって私の中の何かが刺激された、ということなのだろうか? でもいったい何が・・・。

しばらくその姿勢のまま聞き続けていた。その音は不快である、というわけではなかった。むしろ聞いていると落ち着くような、奇妙な催眠効果を持っていたのだ。私はじっとその音に耳を澄ませている。空気の震え。空気の震え。実際に存在する、音・・・。

ピンポン、というインターフォンのチャイム音が鳴る。本当に突然のことで——まあ予想するすべもないのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが——私はすごくすごく驚いてしまう。いったい誰がこの名前を持たない「空白の男」に会いに来たんだろう? 甲高い音のことなんか一時的にすっかり忘れて、私はドアモニターの方に行く。黒いキャップを目深まぶかに被った男の姿が映し出されている。受話器を取る。「はい」と私は言う。

「荷物をお届けに参りました」と男は丁寧な口調で言った。荷物? と私は思う。いったい私に何の荷物が・・・。

そのとき「宛先」に私の名前が記載されているかもしれないぞ、という考えが頭をよぎった。そうか。これはチャンスなんだ。何食わぬ顔をして出てみようじゃないか・・・。

玄関に行く。ドアをそっと開ける。男は私よりも少し背の低い、がっしりした体格をしていた。柔道か何かをやっているのかもしれない、とふと思う。でももちろんそこには私に絞め技をかけてやろう、というような敵対的な雰囲気はない。ただ単純に、荷物を届けに来た。それだけのことだ。

彼は手に段ボール箱を抱えていた。それほど大きくもないが、それほど小さくもない。一番長い辺で40センチくらいだろうか。食糧品のようにも見える。でも違うかもしれない。段ボールの表面には、何も書かれていない。ただ白い小さなシールが貼ってあるだけだ。しかし彼の手が邪魔で、そこに何が書いてあるのかは私からは見えない。

我々はおそらくは二秒間ほど、お互いの目を見つめ合って、ただ立っていた。恐ろしく引き延ばされた二秒間だった。視線の交換があり、お互いのお互いに対する値踏みがあり、警戒心があり、その緩和があり、その再緊張があり、推測があり・・・そしてまばたきがあった。お互いが同時に瞬きをしたのだ。私はその瞬間、この男は私の本質について何か知っている、という確信を抱いた。単なる「名前」や「出自」だけではない、もっと別の種類の何かだ。私を私たらしめている何かについて・・・。

そのタイミングで、また例のキーンという音が戻ってきた。急に、だ。今度は残念ながら心地良くも催眠的でもなかった。非常に攻撃的な音となって、それは増幅されていた。あるいは誰かが——誰なのかは私には皆目見当も付かないのだが——つまみ●●●を調整して私の脳を破壊しようと企てているのかもしれない。でも誰が? いったい何のために? 私一人を攻撃することがそんなにも大事なことなのだろうか? それともこの世界そのものが・・・。

私は知らぬ間に両手で耳を塞いでいた。ピタリと。どんな外音をも侵入させないために。しかしそんなことをしても当然のことながら無駄だった。その甲高い奇妙な音は、私の内部から鳴り続けていたからである。

そしてタイミングが悪いことに、その口の動きからして、ちょうど私が耳を塞いでいるときに、男は私の「名前」を発音したらしかった。「——さんですね?」と言っているように私には見えた。私は眉をしかめながら——例の甲高い音のせいだが——なんとか両手を外した。「え?」と私は言う。男がもう一度その名前を発音してくれることを期待して。でも彼は何も言ってはくれなかった。ただ荷物をこちらに向けて、白いシールのところを見せてきただけだった。そこには「受領印」という場所があって、どうやらここにサインが欲しい、ということらしかった。彼は胸ポケットからボールペンを——ひどくくたびれたボールペンに見えたが——取り出してきた。そして「はい」と言って渡した。私はそれを受け取らざるを得ない。果たして・・・何と書けばいいのだろう? 私の名前は何なんだろう?

不思議なことに、そのシールの上の方には「住所」も、「受取人の名前」も記載されていなかった。ただのシリアルナンバーのようなものと、四角いQRコードが印刷されているだけだ。そして例の「受領印」。私はしばらく止まっていた。頭の中の甲高い音は、まだ鳴り続けている。どこかにいる誰かは、つまみを弱めようとはせず、意地悪なことに、さらにボリュームを上げたみたいだった。キィィィィィィーン、とそれは鳴っている。キィィィィィィィーン、とそれは鳴っている。まるで年季の入った機械の、絶命寸前のうめきみたいに・・・。

人を殺すためだけに作られた機械があります、と男が言っている。その声はなぜか甲高い例の音の隙間を縫って、私の脳に直接届いてくる。彼の目は不思議なくらい光を欠いていた。平板というのでもない。深みを欠いているわけでもない。しかしそれでもなお、光を欠いている。動きを読み取れないのだ、と私は思う。彼は生きている。意識を保って——それもかなり明敏な意識だが——そこに存在している。しかし、何を考えているのか、私にはまったく理解できない。その目は一種のブラックボックスとして、そこに存在している。そして今私をじっと見つめているのだ。深い闇を湛えながら・・・。

それは遥か昔に開発されたもので、寸分の狂いなく、設計されているのです。そして正しく扱えば、人間の命を、苦痛抜きにして、奪い去ることができます。たくさんの歯車と、鋭利に研ぎ上げられた刃物。そういったものが部品として使われています。中世の職人たちが、たくさん動員されました。ヨーロッパでのことですね。ちなみに。ええ。そしてその機械は歴史上何度か使用されてきました。生きることに絶望した人間が、それを使用したのです。身分の高い人々もそこには含まれていました。その機械の特徴は、死ぬ直前に——つまり肉体的に●●●●死ぬ直前に、という意味ですが——空白地帯を作ることができる、ということにあります。それはつまり、意識において、ということですね。肉体があまりにもあっけなく死ぬため、一瞬だけ、意識は置いてけぼりを食らわせられるのです。その一瞬に無時間が生じます。ええ。無時間●●●です。分かりますか? そこにおいて空間は存在しません。肉体もすでに死んでいます。時間だって存在しません。本当の空白です。死も生もない。そんな空白を想像してみてください。あなたはすでに死んだ。でも意識はちょっとだけ生き延びている。そしてその「ちょっと」が永遠に引き延ばされるのです。あなたはそこに吸い込まれていきます。なぜなら空白とはそういったものだからです。真空がまわりにあるものを吸い込んでいくのと原理としては一緒です。そしてあなたは記憶を自由に使い、新たな世界を創造し始めます。ええ、創造●●です。新たに創り始めるのです。なぜか分かりますか? それは意識にとっては「永遠」とは耐え難いものだからです。あなたは勝手に主観世界をこしらえる。そして自分以外の存在も、想像の中で創り上げていきます。さながらあなた自身が神のように、です。そして自分が神であったことを忘れる。そう。忘れるのです。なぜなら忘れないと、意識をきちんと保つことができないからです。そしてあなたはある朝目覚める。というか目覚めたと思い込む。それがこの世界のあらましです。ねえ、そう思うと面白いと思いませんか?

面白い? と私は思いながらその話を聞いている。面白い●●●? じゃあそれは実際に起こった話ではないのだろうか? それはただのたとえ話に過ぎないのだろうか? 私は・・・。

この箱の中にその音を止める装置が入っています、と男は続けている。あなたは苦しんでいる。自分が誰なのかも分からない。この音が何を意味しているのかも分からない。私の話が本当なのかどうかも分からない・・・。それは顔を見ていれば分かります。ええ。あなたはサインをしなければなりません。申し訳ありませんが、それがこの世界のルールなので。いいですか? 正しい名前を書いてください。そうすれば私はこれをあなたに渡します。でも名前を頂けなければ・・・私はこれをあなたにあげることはできません。あなたはいずれ発狂するでしょう。誰かがあなたの脳を破壊しようとしているのだから。

ルール? と私は怒りさえ込めて、男の言葉を頭の中で反響させている。ルール? こんな状況において・・・。本当に死んでしまうかもしれない。それくらい音は苦痛となっていたのだ。本当に意識を破壊されそうなくらい・・・。私は名前を思い出そうと努める。私の名前。生来の名前。まさか生まれた瞬間から名前がなかった、ということはあるまい。私にだって母親がいたはずだ。父親も、たぶん・・・。彼らが赤ん坊に名前を付けないなんてことがあるだろうか? 私は・・・。

もし私が創造者だったとしたら? と私はふと思う。もし私がこの世界のすべて●●●を創ったのだとしたら? そしたら私には名前がない方が自然なのではないか? そもそも神は自分自身に名前を付けたりするだろうか? 私は・・・。

私は空白の男だ、と私は知らぬ間に言っている(ちなみにその間も例のキィィィィィーンという甲高い音は鳴り続けている。いや、増幅●●し続けている)。私には名前がない。なぜなら私が神だからだ。私が言葉を発するところに世界ができる。私の見えないところに世界は存在しない。だからあなたもまた、私の一部である。あなたは本当は生きてはいない。ただの幻想である。

じゃあ私を殺してください、と男は言う。そして荷物を下に落とす。うっかり手が滑った、とか、そういうわけではなく、わざと叩きつけるように落としたのだ。私の中に怒りが湧いてくる。非常に大きな、怒りだ。男は足でダンボールを踏みつける。それは簡単に潰れる。まるで最初から何も入ってはいなかったかのように・・・。

ハハハハハ、と彼は笑っている。こんなのは最初からからだったんです。あなたを騙すためにこんなものを持ってきたんです。え? 私の話を信じたんですか? 例の機械の話を。あんなのは嘘です。はったりです。作り話です。あなたもおかしい人だな。こんなのはジョークですよ。全部ジョークです。甲高い音も。テレビもね。あなたは頭がおかしくなっているんだ。きっと。自分のことを「神」とか言って・・・。

怒りが私を動かす。私は何も言わずに彼に近付いて、ボールペンをその目に突き刺す。左目だ。彼の目から血は出てこない。ドロリとした透明な粘液のようなものが漏れてきただけだ。彼は笑い続けている。ハハハハハ、と。ハハハハハ、と。私は右目も突き刺す。やはり血は出てこない。私は彼を床に押し倒す。そして胸の心臓があると思われるあたりにペンを突き刺す。でも手応えがない。彼はやはり笑っている。私は脇に置かれたペシャンコの段ボール箱を見る。それは空だと彼は言っていた。しかし・・・今みるみるうちに、元の形を取り戻しつつある。ひとりでに箱が動き、完璧な、最初の形に戻ったのだ。「空白」。純粋な、空白・・・。

私は元に戻った、四角い箱を持ち上げようとする。これを部屋に入れなければ、と本能的に思ったからだ。しかしまるで床に貼り付いたみたいに動かない。あれ? と私は思う。どうしてだろう? 空なら重みなんてものはないはずなのに・・・。

そのとき玄関から人の気配がした(私はすでにそこを出て、通路の上で、箱を持ち上げようとしていたのだ。奥にはさっきの配達人が倒れて、まだ笑い続けている。ハハハハハ、と)。ドアがきちんと開き、私とそっくりの人間が姿を現した。服装も、顔も、髪型も、なにもかもが一緒だ。彼は驚きの目で我々取り乱した二人を見つめている。そして箱・・・。

彼は何かを言おうとした。何か、状況を理解するために必要とされる言葉を。たとえば「いったいここで何をしているんですか?」というようなことを・・・。でも私が言わせなかった。なぜなら言葉は一度発せられてしまったなら、生命を持ち始めるからである。私はそれを避けたかった。なんとしても●●●●●●避けたかった。というのも神は一人だけで十分だからである。

私はそちらに行き、自分自身(と思われる男)の首を絞めた。これでもか●●●●●、というくらい力を込めて首を絞めた。彼は抵抗しなかった。へなへなと床に倒れ込み、あっという間に意識を失ってしまった。私は彼をそのままそこに置いて、箱の方に戻った。これが重要なのだ、と私は思っている。これをなんとか自分のものにしなければ・・・。

しかし箱はなくなっていた。男もいなくなっていた。私はあたりを見回す。前を見る。背後を見る。しかし見えるのは空白だけだった。マンションの通路も存在しない。さっき殺した自分自身も存在しない。「存在」が一切存在しない世界。光も闇も存在しない。そのとき、あれだけ執拗に続いていた例のキィィィィィーンという音が消え去っていることに気付く。私は死んだのだろうか、と私は思う。でも誰も、何も教えてはくれなかった。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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