今日は素晴らしいニコマコス日和だったので、私は『ニコマコス倫理学』(岩波文庫、高田三郎訳)を読むことにした。上下、それぞれをジップロックに入れて、冷凍保存してある。なぜ冷凍保存なのか? それは鮮度を保つためである。私は本屋で買ってきたその日に、そのような処置を施した。テレビで言っていたのだ。「鮮度を保つには冷凍が一番です」と。私はそのアドバイスに従い、半年もの間、「ニコマコス日和」がやって来るのを待っていたのだ。
ある日は風が強すぎ、ある日は気温が一度だけ高かった。快晴であれば良いというわけではない。太陽の光が強すぎると、読むのに支障が出てしまう。夜は悪霊たちが跋扈しているので、LED電球の下で読むなんていうのはもってのほかだ。それはルールに違反していると、私は考えている。
正直なところもう絶好の「ニコマコス日和」なんてやって来ないのではないかと私は思い始めていた。ほどほどのニコマコス日和でいいのではないか、と悪魔が囁いている。しかしそんなことをしたら私の読書経験はきっと不十分なものになってしまうだろう。二千年以上前にアリストテレスが著したこの貴重な書物を、私は十全に理解できないに違いない。その知識は中途半端に私の中に蓄積され、やがて腐っていくのだ。そんなことは最初から分かりきったことではないか? と、いうことで、辛抱強くこの日を待ち続けていたのだ。
昨日の天気予報の時点でもしかしたら、とは思っていた。しかしあまり期待しすぎるのもいけない。ニコマコス日和というよりは「自省録日和」(マルクス・アウレリウス)かもしれないし、あるいは「カラマーゾフ日和」(フョードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー)かもしれないのだ。私はどのような場合にも対処できるように、本棚を確認しておいた。カフカもバルザックも、柳田國男もある。うん、きっと大丈夫だ。何日和になったとしても、対処できるだろう。
朝目覚めたとき、私は確信していた。そう、これこそが「ニコマコス日和」なのだ、と。気温も、光の加減も、湿度も、前日のJリーグの試合結果も完璧だった。私は完璧な朝食を取り、完璧なコヒーを淹れ、飲んだ。そして用を足し、窓際の椅子に座って、解凍された本を開いたのだ。
素晴らしい香り。そう、これこそが「ニコマコス」だ、と私は思う。ずっとこれを待っていたのだ。文字を読まずとも、気品が伝わってくるというものだ。
私は最初の一文を読もうとする。しかしそのとき突然、ドアチャイムが鳴った。私は無視しようとする。だってこれは正真正銘のニコマコス日和なのだ。誰に邪魔できる? どうして私が今相手をしなければならないのか?
しかしその人物はなかなか去ってはいかなかった。私は諦めてドアホンのところに行った。「通話」ボタンを押す。カメラには黒いスーツを着た40代くらいの男が映っていた。
「はい」と私は言う。
「――さんですか? あなたの新しい名前を届けに来ました」とその人物は言う。
「どういう……ことですか?」と私は言う。名前? 私にはちゃんと名前があるじゃないか?
「あなたの名前は期限切れなんです。正確にはさっき、午前9時にですね、切れちゃったんですよ。それ以降も古い名を名乗っていると、法律違反になっちゃいます。だから、こうやって、新しい名前を持って来たんです。開けて頂けませんかね?」
「でも私は……そんなこと頼んでませんが?」
「自動更新になっていたので。それがデフォルトなんです。だって困るでしょう? 名無しの人間になったら」
「それはそうですが……」と私は言う。あるいは開けるべきかもしれない、と私は思う。怪しい感じもするが……たぶん詐欺ではないだろう。だってどこの誰が他人の名前を届けに来て、その状況を利用して詐欺を働くというのか? それにもし金を要求されたら追っ払えばいい。私は一応訊いてみることにした。
「それは……お金がかかるのですか?」
「まさか。これは無償ですよ。だって名前を付けるのに、いったいどんなコストがかかるというんですか?」
「たしかにそうですね」と私は言う。そして玄関に行って、ドアを開けた。
背の高いひょろっとした白髪の男だった。髪の毛は短く刈っている。右目の下に大きな痣があった。鼻が高く、唇が薄い。なんとなく疲れたような雰囲気の男だった。いろんな家を回っては、名前を届けているのかもしれない。
「どうもどうも」と彼は頭を下げて言った。「これですよ、あなたの名前は……」。彼はそこで黒いバッグから何かを取り出した。白い、細長い紙のようだった。ひどく細い。彼はそれを私に渡す。
「ここに……名前が?」
「ええ、そうです」と彼は言う。「何か疑問は?」
「あの……そもそも自分で名前を付けることはできないんでしょうか?」
「できませんね」と彼は言った。「だってそんなことをしたら、みんな好き勝手な格好良い名前ばっかり選んで、秩序がなくなってしまうじゃないですか? それにですよ、それが自分に合っているという保証なんかどこにもないんです。政府はきちんと皆さんを理解していますから、最初からぴたりと合った名前を提供できるんです」
「そういえば」と私はまた彼の痣を見ながら言う。「名刺をもらっていませんが」
「いや、失礼しました。こういう者です」と彼は言って、胸ポケットから名刺入れを取り出した。そこから一枚抜き出す。私はそれを受け取る。
「名前省」と私は言った。「そんな省、ありましたっけね?」
「ええ、もちろん、ありますとも。GHQが戦後に作らせたんです。まあマイナーな省ですからね、一般には知られていませんが……。それに実のところ給料も安いんです。官僚の間ではね、一番役に立たない奴が飛ばされるところだともっぱらの噂です。でも私はここで良いんですよ。性に合っている、というかね。さほど出世欲もないですしね」
「なるほど」と私は言った。そしてその細い紙に印刷してある名前を読み取ろうとする。「田……いや、山……いや、違うな。カタカナのロかな。どうも違うような気がする……。どうしてこんなに小さいんですかね?」
「いや、昨今経費削減と言われていましてね、コピー用紙一枚だって無駄にはできないんですよ。だからできるだけ多くの人の名前をそこに印刷して、こう、一つ一つ、手作業でカッターで切る、というわけでして。まあ実に面倒くさいんですが、私は実はそれが好きでしてね。特にハイドンの弦楽四重奏曲を聴きながらやると格別でして」
「ハイドンがお好きなのですか?」
「ええ、まあ好きというか、まあ、たまにね」
「話が合いそうですね」
「いやはや」
「実は最近老眼が進んでいましてね、これを代わりに読んでもらう、というわけにはいかないんですかね?」
「それはいけません。いけないと法律に明記されています。名前法ですね。その12条です。『何人も新しい名前を他人に読んでもらってはいけない。一番最初は自分自身の力で読まなければならない』とこう、明記されているんですよ」
「なんだか面倒くさい法律だなあ」
「ええ、しかしまあ法律は法律ですからなあ」
「そうだ。たとえばスマホで写真を撮って、拡大するというのは?」
「それも駄目です。43条ですかな。たしか。『機械等を用いて名前を見やすくする行為は死刑、または50年以上の懲役とする』ってね」
「そんなに重い罪なんですか?」
「まあ、名前って重要ですからね」
「それで……いや、あなたもきっとお忙しいんでしょう。なんとか家に帰って読んでみますよ。それでいいでしょう?」
「いや、駄目なんですな。それが」と彼は哀しそうに首を振りながら言う。「実は名前法67条に、『新しい名前を受け取った者は、その場で係員にはっきりした声で自分の名前を名乗らなければならない。それができない場合、〈名無し〉として住民基本台帳に記載する。名無しとなった者は、納税の義務は負うものの、どのような行政サービスも受けることはできない。過去の名前が記載された免許証、保険証、マイナンバーカードは没収される。戦争になった際には、名無したちは真っ先に徴兵され、最前線に送られる。たとえ死んだとしても葬儀は行われない』とあります」
「ずいぶんひどい法律だな」と私は言う。「今まで全然知らなかった」
「そりゃあまあ、いろいろとほかに考えるべきことがありますからね。人は。ほら、ちょうど今日はニコマコス日和だし」
「え? あなたも?」と私は言った。「それが分かるのですね?」
「ええ、分かりますとも」と彼は言ってニヤリと笑った。「一年間、冷凍させていました。ついさっき、この仕事の直前にですね、読み終わったところです。いやあ、実にニコマコスでしたなあ。身体に染み渡るというか」
「実は私はまだ一ページ目なんです。いや、一文目、というか。そこを読んでいる途中にあなたがやって来た、というわけでして」
「それはそれは。お気の毒に」
「でも名前を発音できないと、あなたは帰ってくれないんでしょう?」
「ええ、帰ってもいいんですが、そのときはあなたは『名無し』になります。徴兵されるのは嫌でしょう?」
「私はもう45です。兵隊なんて……」
「じゃあ頑張って読んでください。最初の文字は何ですか?」
「なんだろうな……。さっきは『ロ』に見えたが……なんだか変わっているような……。きっと気のせいだと思うが……。今度は『川』に見えてきた。いや、『州』かな……。これは……もしかしたら動いていませんか? そういう、特殊な文字なんじゃ……」
「グダグダ言っていないで早く読みなさい」と彼は言う。急に口調が変わっている。目付きが鋭く、暗くなっている。私はビクッとして彼の目を見た。「いいですか? 時間は有限だ。ニコマコス日和も長くは続かない。天気は変わるんです。風向きもね。あなた自身も変わっている。よく目を凝らして。ほら」
「今、なんとか……」と言いながら、私はその名前を読み取ろうとする。でもやはり動いているようにしか見えない。今度は「足」になった。今度は「走」になった。そのあとで「近」になる。私は……何になったんだろう?
そのとき彼の鼻の穴から何かが出てきた。それは太いミミズのようなものだった。ボトリ、と床に落ちる。そしてクネクネと身をよじらせている。また落ちた。また……。次から次へと落ちてくる。それは不気味な光景だった。名前省の男。ハイドンが好きで、ニコマコス倫理学を早朝に読み終えている。ボトリとまた落ちる。何十匹も、何百匹も落ちてくる。私は寒気を感じる。ガタガタと全身が震えている。何かが間違っている、と思う。その男は口を開いた。すると中からたくさんの黒い蜘蛛たちが飛び出してくる。何が起きているのだろう、と私は思う。
そこでもう一度さっきの紙を見る。それは明らかに変わっている。はっきりと四つの漢字が見える。私はそれを大きな声で読んだ。きっとこの読み方で合っているはずだ。彼は何度か瞬きをして、ゴホンと咳払いをした。蜘蛛がさらに飛び出してきた。
「えっと、失礼。ちょっとお見苦しいところを。ええ、きちんと聞きましたとも。あなたの新しい名前ですね。そう、新しい証明書はすぐに届きます。そしたら古い証明書類はハサミを入れてくださいね。不正利用されないように。ああ、こんなに散らかしちゃって」。彼はそこでしゃがみ込み、ウネウネと動いているミミズを掻き集め、ポケットに詰め込んだ。蜘蛛たちはどこかに逃げてしまっていた。
「もしかしてストレスが溜まっているのでは?」と私は訊いた。
「ええ、ちょっとね」と鼻を啜りながら彼は言った。「激務というか、休む暇もないものですから」
「ちょっと上がって、コーヒーでも飲んでいきませんか? ほら、今日はなんといってもニコマコス日和ですから」
「そうですね。もしよろしければ……。あの、ハイドンは?」
「ええ、ハイドンもかけましょう。ニコマコス日和が終わらないうちに」
「それは素晴らしい。じゃあ、ちょっくら」
「どうぞどうぞ……」
というのが私のニコマコス日和のあらましである。私は『ニコマコス倫理学』(岩波文庫、高田三郎訳)を読み、彼はハイドンに耳を傾けながら、私の淹れたブルーマウンテンブレンドを飲んでいた。時間は静かに流れ、文章は私の中に染み渡っていった。私はアリストテレスの(そしてその息子ニコマコスの)肩を叩いてやりたくなった。そうだ、それでいいんだ、と。
一日が終わったとき、私は生まれ変わっていた。新しい名前を持ち、新しい中身を持っていた。新しい人生が明日から始まる、と私は思う。明日は何日和なんだろう? 私は……それをきちんと生きることができるのだろうか?
でも心配しても仕方がないので、とりあえず早く寝ることにした。例の名前省の男は、お土産に私に奇妙なものを残していった。それは彼が子供の頃から持ち歩いている、奥歯の乳歯だった。「お守りなんです」と彼は言っていた。「これがあれば、悪いものはあなたの中に入ってこれません。あなたはあなた自身と共に、人生を過ごすでしょう」
私はそれを机の上に載せ、じっと観察している。あのミミズとか蜘蛛とかは「悪いもの」ではないのだろうな、と私は思う。あるいはもともと彼の中に住んでいたものだったのかもしれない。いずれにせよ早く寝なければならない。たとえ「何日和」だったとしても、寝不足の状態では、それを十全に生きられないことは分かり切っているのだから。おやすみ。みなさん。それでは。
お元気で。