一羽の鳥が、風の休憩所と呼ばれる場所で、くつろいでいました。
風の休憩所とは、風たちがたくさん集まる場所でして、そこでは一切風が吹いていませんでした。
そこには気持ちの良い雲が浮かんでいて、鳥は、その上に寝転んで、ゆったり、時を過ごしていたのです。
鳥は初めてここにやって来たのですが、あまりにも気持ちが良いので、これから何度もやって来たいな、とぼんやり考えていました。
そのとき、西の方からやって来た風が言いました。「いやはや、この間のあれは大変だったね」と。あれとは何なのか、鳥はすごく聞きたくて仕方がなかったのですが、とりあえずは我慢して聞いていました。風たちが集まるこの休憩所で、自分は場違いな存在だと感じていたからです。そこで鳥は、じっと口をつぐんで、続きが話されるのを待っていました。
「たしかに、大変だったよ」と東の方から来た風が言いました。「本当に。今までにないくらい」
「まあでも、生き延びたってわけね?」と北の方から来た風が、冷ややかに言いました。「全部駄目になったってわけじゃないんでしょ? 違うの?」
「まあね」と西の方から来た風は言いました。「全部が全部駄目になったってわけじゃない。でもいくつかは、駄目になっちまった。見ているのが辛かったよ。でもさ・・・」
「でもさ」と南の方から来た風が、暖かい声で引き継ぎました。「それって仕方のないことだったんだ。受け入れるしかないことだったんだよ。今さら言うことでもないがね」
「あ!」とそこで、最初にしゃべった、西の方からやって来た風が言いました。「鳥がここにいるぜ! まさか。簡単にこんなところに来られるわけがないんだけどなあ・・・」
「しかも雲の上に浮かんでいるね」と南。「飛んでいるわけじゃない。休んでいるんだ。青い翼の鳥だ。大きくはないが、美しい。生きているというのは素晴らしいことなんだなあ。なんと言ったってね」
「ごめんなさい。盗み聞きをするつもりはなかったんです」と鳥は言いました。「風に乗って飛んでいたら、突然ここに紛れ込んで・・・。それで試しに雲に乗ってみたんです。そしたらぷかぷかと浮いていて、とても気持ちが良かったから・・・」
「もちろん大丈夫よ」と冷たいけれど、愛想が悪いわけでもない口調で北の風が言いました。「別にここは風だけの場所ってわけじゃないんだから。そんな法律があるわけでもないし」
「そうそう」とにっこりと微笑んでいるような口調で――もちろん透明で、顔は見えませんでしたが――南の風が言いました。「そんな法律があるわけじゃないんだ。鳥にだって法律はないだろ? そんなものを必要とするのは人間だけさ」
「憐れな人間たち」とぼそっと東の風が言いました。「俺は彼らが嫌いってわけじゃないんだけどさ・・・なんというか、見ていると、こう・・・」
「イライラしてくる?」と西の方から来た風が訊きました。
「まあね」と東の風が言います。「もうちょっとうまくやれないのかな、とかさ」
「仕方ないよ。それが人間だもの」と南の風は言います。「昔から、そうだったじゃないか。まあ人間の歴史なんて、風の歴史に比べれば短いものだが」
「鳥の歴史は?」とちょっと気になって鳥は聞きました。「鳥の歴史は長いのですか?」
「人間よりは長いよ」と南の風は言いました。「でも神話がない」
「神話?」とよく分からずに鳥は訊きました。
「歴史を伝えるためにはね」と北の風が説明してくれます。「神話が必要なの。人間たちはそれを持っている。でも鳥たちには・・・歌の集積しかない。歌。分かる? でもあなたたちはそれを忘れるの。そしてまた新たな歌を歌う。でもそれでいいんじゃないかしら? 神話なんかなくてもね・・・」
「むしろないほうが自由になれる」と西の方の風が言いました。「下手に神話を持つとね、それに縛られてしまうんだよ。鳥たちは鳥たちのままでいいのさ。風に乗ってね。ところで君はどんな風に乗ってやって来たんだい?」
「ええと、あれは・・・荒々しい風でした。獰猛、というか。街の上を飛んでいたんです。そしたら急に攫われてしまって。下ろしてください、と叫んだんですけど、いいから、大丈夫だから、付いてきなって、という感じでどんどん上に運ばれていったんです。私はほとんど羽ばたきもしませんでした。気付いたらこの近くに来ていたんです」
風たちは顔を見合わせます(というか、そのような雰囲気がそこにはありました)。「あいつだ」と東の方の風が言います。「いろんなところを飛び回っているあいつだ。それは」
「まず間違いないね」と西の方が言います。「鳥を一羽運んでくるなんて、朝飯前だろうね。あいつにとっては」
「まだ生きていたのね」と北の方。
「まあ風は決して死なないのだけれど」と南の方が言います。
「あいつって誰だったんですか?」と鳥は我慢し切れずに訊きます。「ちょっと、問題のある風だったんですか? 風紀を乱すというような・・・」
「風紀というかね」と東が説明してくれます。「ルールも何もあったもんじゃないんだ。もちろん俺たちには法律はないよ。ルールも本当はないはずなんだ。でもさ、暗黙の了解というものがある。それぞれのテリトリーというかさ。そしてこの時間帯は吹かないことにしよう、とかさ。この季節はちょっとやめておこうか、とかさ。それが大体掴めてくるんだ。風になるとね。でもやつは・・・」
「わざとそれを外すっていうかさ」と西の風が言いました。「いちいち裏をかこうとするんだよね。きっと幼少期に何かあったんだよ。虐待されたとか」
「まあそれは冗談だけど」と北風が言いました。「風にはトラウマとかないからね。ただ吹いていればいいの。自由にね」
「その自由が自由過ぎるんだよな」と西。「あれはもうちょっとどうにかした方が・・・」
そのときそのあいつがやって来ました。休憩所では休む、という暗黙のルールを無視して、ここでもビュンビュン飛び回っています。鳥が乗っている雲もグラグラ揺れました。ところどころ穴も空いています。落ちてしまうかもしれない、と一瞬鳥は思いました。でもすぐに、自分には翼があるじゃないか、と思い出します。自分のそんな混乱した状態に、ふふふと笑ってしまいました。
「おい! 鳥! 何を笑っていやがる?」とあいつは言いました。「さては俺の悪口を言っていたな?」
「違います」と鳥は慌てて言いました。「今この雲に穴が空いたので、ふと、落ちてしまうかもしれない、と思ったのです。自分に翼があることも忘れて」
「なんだそんなことか」とあいつは言いました。「俺なんかしょっちゅうだけどな。自分が風であることも忘れる。どこにいるのかも忘れる。ただビュンビュン飛び回っているんだ。ハッハ。その方が楽しいからな。なんだお前ら?」とそこで周囲にいる風たちに気付いたみたいでした。「人間みたいにまったりしちゃってさ。地球は回っているんだぜ? 風が移動しないでどうするんだよ? いろんなものがおかしくなっちゃうぜ?」
「もうおかしくなっているのさ」とそこで哀しそうに西の風が言いました。「この間のあれを見たかい? 仕方ないこととは言え・・・」
「あれって何だよ?」とあいつは言いました。「隠してないで言えよ」
「あれに関してはだね」と東の風が言いました。「言葉で説明することはできないんだ。心で感じ取るしかできないんだよ。君にそれができるかい?」
「できるって」とあいつは言いました。
「それなら経験させてあげてもいいわ」と北の風が言いました。そしてグルグル回り始めました。「みんなも再現に協力して」
「はいはい」と南の風が言いました。そして北の風に加わりました。
「オーケー」と西の風。
「やりますよ。まったく・・・」と東の風。
鳥はただ側で見ているつもりだったのですが――「再現」っていったいどういうことなんだろう?――途中であいつが手を伸ばして(というか手のような何かを伸ばして)、鳥を内部に引っ張り込みました。そこで鳥はあいつと一緒に、「あれ」の再現を目撃することになったのです。
「あれはたしかにひどいな」と再現が終わったあとにあいつはポツリと呟きました。「あのあとで、まだ生き延びているやつがいるってだけでも奇跡みたいに思えるね」
「私は・・・」と鳥は何かを言おうとしましたが、言葉の代わりに涙が出てきました。ポロポロと、それはとめどなく、溢れ出てきたのです。
「何も説明しなくていいんだよ」と南の風が暖かく言いました。「言葉は必要ない。言葉は別のもののためにとっておいたらいいのさ。ただあれを受け入れればね」
「さて、そろそろ行くとしよう」と西の風が言いました。「人間たちが動きを欲しているから」
「鳥たちもね」と東の風が言いました。「俺にはその声が聞こえる気がする」
「北の木々も風を欲している」と北風。「風が吹かないと、この世の中っていろいろとおかしくなっちゃうのよね」
「しゃあないな。俺たちも行こうか」とあいつは鳥に言いました。「元いた場所に連れていってやるからさ」
「私は・・・」
「いいからいいから。飛び方、忘れていないよな?」
「ええ、でも・・・」
鳥は元いた街の上空に帰ってきました。でも見える景色がほんのちょっとだけ違っているように感じられました。いろんなものが・・・ほんの少しだけ愛おしく感じられるようになっていたのです。これは・・・駄目にならなかった部分なのだ、と鳥は思っています。たくさんの人間たちが歩いていました。あるいは車に乗って、どこかへと移動して行きました。鳥は一人の青年の姿を見つけます。猛暑の中、橋の欄干にもたれかかり、じっと川の流れを見つめています。彼が死を考えていることを、鳥は本能的に感じ取りました。鳥は彼の頭上を飛び回り、必死に歌を歌い始めました。忘れていた神話を思い出したみたいだ、とそれは考えていました。青年は自分の下にあるものばかり見て、全然その歌に気付きません。そのとき強い風が吹きました。おそらくはあいつだったのでしょう。青年は下から吹き上がってきた風に耐え切れず、上を見ました。そこにはもちろん例の鳥がいました。眩しいな、と彼は思います。鳥がいる。歌を歌っている。こいつは何のために生きているのだろう?
全部が駄目になったわけじゃない、と鳥は思いました。そして青年の頭に止まります。青年はそれを払い除けようともしませんでした。三秒間、彼らは同じ空間を共有していました。その後、鳥はあいつに乗って、また高いところへと運ばれていきました。青年はまた川を見ます。すると・・・その流れはちょっとだけ違ったように見えました。彼は歩き始めます。どこに、かは本人にも分かってはいなかったのですが。