この間選挙があって、いささか変わった候補者を見た。
彼は腹の出ている55歳の男で、現在は無職だ、ということだった。市議会議員選挙に立候補したきっかけは・・・お金が欲しいから。とにかくお金が足りない、というのが彼の主張だった。だからまあ街頭演説にも一人で、しかもマイクも持たずに、やって来たのだと思う。彼は自転車で移動していた。ひどく錆びていて、ものすごくキーキーとうるさい自転車だった。ランニングシャツ一枚で、下はハーフパンツ(というかおそらくはパジャマ)、そしてビーチサンダルという格好だった。髪の毛は長く伸び過ぎていたし、髭も剃っていなかった。基本的には両親の年金で暮らしている、ということだった。彼の美点はおそらくは正直さだったのだと思う。僕はその演説を聞きながら、もしかしてこの人はものすごくピュアなんじゃないのか、と思ってしまったほどだ。世界広しと言えども、さすがにこれだけ正直なことを言う政治家(候補)はいないと思う。彼は当然のことながら、ほとんどのメディアからは黙殺されていた。しかし僕と、そして好奇心旺盛な夏休みの小学生たちだけは別だった。彼はその日公演で演説をしていた。
「いらっしゃい! いらっしゃい! 街頭演説だよ! おい、坊主! そうだ。お前だ。タダで話を聞かせてやるからさ、その水筒の中身を飲ませてくれよ。ちょっとでいいんだ。そうそう。何が入っている? ポカリスウェットだったらいいな。え? 麦茶だって? まったくケチくさいなあんたの母親は。まあいいや。それでも許してやるからさ。え? 汚いって? そんなこと言うなよ。三日に一回は歯を磨くんだからさ。分かった。口は付けないから。そうそう・・・」
彼は小学生の男の子から無理矢理水筒を取り上げ、堂々と口を付けて飲んだ。小学生たちは唖然としていたが、すぐにこのおじさんがとても面白い——というかイカれている——ということを悟ったらしく、クスクスと笑い始めた。僕は少し離れた地点から眺めていた。そのほかに見ていたのは・・・二匹のカラスだけだ。大人たちはまったく気にも留めない。
「オーケー。まあ美味い麦茶だった。キンキンに冷えていたしな。俺が当選したらお前の成績上げてやるよ。教師に圧力をかけてさ。ハッハ。市議会議員には何でもできるんだぜ? 本当に。国会議員みたいに忙しくないしな。会議中も寝てればいいってもんだ。ハッハ。そんで? 何を聞きたいんだ? お前ら?」
「選挙に立候補されるということで、基本姿勢とか、公約とかそういったものを・・・」と僕は仕方なく「聴衆代表」という形で質問した。
彼は面倒臭そうに答えた。「基本姿勢? ああそうだな。うん。まあ正直であることだ。それでいいだろ? それが俺の基本姿勢さ。面倒臭いことは嫌い。何かを隠すのも嫌いときている。なあ世の中の政治家たちを見てみなよ? みんな綺麗事ばっかり言っている。税金を減らすと言いながら、社会福祉をもっと手厚く、とか言っている。そんなのは不可能だよ。不可能。俺はできないことはできないと最初から言うし、まあできることをちょっとずつやることくらいしかできないからな。正直なところ。それが俺の基本方針。んで?」
「公約」と僕は言った。
「公約? 面倒臭いなあんたも。公約なんか言ったってさ、どうせ実現できないっつうの。公約はさ・・・そう〈公約の30パーセントは、なんとか実現できるように努力します〉っていうことかな。ハッハ。それ以外のことは約束できないね。あのさ、俺は思うんだけどさ、市民たちも期待し過ぎなんだよね。どうせ誰が議員になったところで、お前たちの人生の質に変わりはねえっつうの。分かる? その辺のおじさんとかおばさんとかさ、あいつらの人生なんてもう詰んでいるんだよ。どうしてかって言うとだね、自分で自分のことを諦めちまっているからさ。そんでその事実から目を逸らすために、社会のことばかり見るようになるのさ。いいから自分のことやれって。医療費? そんなのはさ、自分で健康のこと考えて運動すりゃいいんだ。俺みたいに長生きしなくてもいいっていう奴は別だけどな。俺は不健康でいいと思っている。そんでさ、死ぬまでこの世を楽しむんだよ。ハッハ。それって最高じゃないか?」
「あなたは・・・ほとんどまともな職に就いていないみたいですが、それでも議員が務まると?」
「もちろん」と自信満々に彼は言った。「だってさ、議員たちを見てみなよ? あいつら何をやっているんだ? やっている振りをしているだけさ。それくらいなら俺にもできるね。ニコニコしてさ、握手なんかしてさ・・・。大丈夫だってやればできる。俺はまあ、人生で三ヶ月くらいしか働いたことないけどさ、それでも三ヶ月だぜ? 結構頑張ったと思わないか?」
「何をやったんですか?」
「動物園で働いた」と彼は嫌そうに言った。「若い頃な。切符係とか、裏方とか。掃除とか。まあ色々さ。ゴリラとは仲良くなったが、人間とは仲良くなれなかった。ハッハ。ある日ゴリラの餌を食っているところを見つかって解雇だ。まったくね。俺だってホモ・サピエンスだぞ。遺伝的にはあいつらとあまり変わらないんだ。まったく・・・」
「ここには子供たちもいますが、彼らに何か伝えたいことは?」
「子供たち?」と彼は言って、かなりきつい目付きで彼らを睨んだ。子供たちは本能的に少し後ずさりした。でも離れてはいかない。このオヤジが何か面白いことを言うぞ、というのを本能的に察知しているのだ。「いいか? お前ら? この社会にな、希望なんてない。それは俺が断言する。ハッハ。いいか? 先生の言うことなんか聞くなよ? 親の言うこともだ。あいつらは君たちを機械にしようとしているんだからな。はいはいということを聞く、都合のいいロボットだ。言うなれば。そんでさ、お前らの純粋さを食い物にしようとしている。そのせいでたくさんの若者たちが病んでいるっているのにさ。いいか? この社会に正当性なんかない。たまたま存在したに過ぎないんだ。分かるかい? ない方がいいんだけど、仕方ないからあるって感じだ。それで、だ。君たちは自分の好きなように生きなくちゃならない。お前らだって生まれてこなければこんなこと考えないで済んだんだけどさ、親同士があんまり退屈して、ほかにすることもなかったもんだから、ポンポンと子供が生まれて・・・。まあいいや、それはさ。とにかく生まれてきちまったんだから、楽しんだ方がいいじゃないか? 分かるかい? あいつらの言いなりになっているとだね、本当に一生つまんねえつまんねえって言って人生終えることになるぜ。だから今日俺と約束してほしい。何を? 何をってそりゃ、正直になることじゃねえか。いいか、お前ら?」。彼はそこで子供たちに近付いたのだが、彼らは一目散に逃げ出してしまった。みんな笑ってはいたが。あとには我々二人だけが残された。
「まったく、子供ってやつは」と彼は言った。
「でもあなたくらい正直な政治家が、多少はいてもいいような気がしますね」と僕は言った。それは僕の本心だった。
「だろ? 俺もそう思ったんだよ。まあいつもはメジャーリーグ観てさ、ゲームやってさ、ビール飲んで、そんで一日が終わるんだけどな。ああ、今日も夕暮れだってな」
「あなたにも実は夢みたいなものがあったんじゃないですか?」と僕は訊く。「子供の頃には」
「夢か・・・」と彼は言って遠い目をした。でもすぐにふらついて、はっと我に返った。「まったく、慣れないことをするとすぐにフラフラしてきやがる。歳を取ったせいだよ。いやはや。でもさ、夢は・・・どっかに置き忘れてきちまったみたいだ。議員になれたらそれを思い出すのかな」
「どうでしょうね?」と僕は言う。「そこに期待するのはちょっと都合が良い気が・・・」
そこでちょうど別の候補者の選挙カーが通り過ぎた。女性がその候補者の名前を連呼している。市民からの反応も上々のようだった。ありがとうございます。ありがとうございます。わたくし――をよろしくお願い致します。
「あの男よりもあなたの方が正直な気がしますね。たしかに」と僕は言う。
「まあな。でも正直でいるってのも結構辛いんだぜ」と彼は言った。「なにしろ仲間がいなくなるからな」
「僕もできれば自分に正直に生きたいと思っています。でも・・・」
「でも、なんだ? その先を言えよ」
「ええ、でも、ときどき自信がなくなってきてしまうんです。自分なんかを優先していいのだろうかってね。自分が演技をして――つまり自分に嘘をついて、という意味ですが――相手が喜ぶのなら、それでいいのではないか、とね」
はあ、と彼は溜息をついた。体重が5キロくらい軽くなりそうな溜息だった(相変わらず腹は出たままだったが)。「いいか? あんたは間違っている。相手がそんなことで喜んでいるんだったとしたらだね、それは相手がクソみたいな奴だってことに決まっているじゃないか? いいか? そういう奴には一発食らわせてやるか、それとも離れるのかのどちらかだ。あんたは永遠に生きるわけじゃないんだから」
「たしかにそれはそうなんですが・・・」
彼はそこで僕の肩を叩いた。ひどく親密な叩き方だった。僕は危うく心を動かされてしまうところだった。カラスが二羽、じっと我々のことを見つめていた。何かを言いたそうにしている気もするが・・・。
「君はさ、旅に出た方がいいと思うね」と彼は言った。「何の根拠もないけどさ。こんなクソみたいな街にいたってどうにもならないぜ? ただ一つたしかなのは、どこに行ったってクソみたいなもんだ、ということなんだけどさ。ハッハ。悪いな幻滅させちゃって。でもそれが俺の正直な意見だ。どこ行ったって一緒なんだよ。みんなつまんねえ人生を生きている。子供の頃はキラキラしていたのにな。でもさ、たしかに移動するべきときってものがあるんだよ。これは俺が本能的に感じ取っていることなんだがな。どうせ移動したって一緒だって知っているんだけど、その事実を身に染み込ませる必要があるっていうのかな。まあよく分かんねえや。難しいことはさ。とにかくさ、旅に出なよ。お兄さん。俺は議員になってさ、賄賂とかいっぱいもらってさ、ウホウホと楽しく暮らすから。数年後にまた会おうな。そんときはきっと君は自信に溢れているはずさ。そうすりゃちょっとは楽しくなるって」
「そうでしょうか?」
「ハッハ。知らんね。責任は自分で取ってくれよ。いいか? 君より年上の人間だからって何かを知っているわけじゃないんだ。みんなサルみたいなものなんだからな。分かったか? 他人の忠告なんか聞くな。それは奴隷根性の人間がやることだ。いいか? 絶対に俺の意見なんか参考にするなよ。だって参考にしたら俺みたいな人間になっちまうからな。ハッハ。だから君は・・・」
「僕はどうしたらいいのでしょうね?」
「ビールでも飲もうか?」
「そうしましょう」と僕は言った。そして急いでコンビニにビールを買いに行った。
今日が投票日で、彼は案の定落選した。しかし僕のほかに何人か投票した人がいたことを知って、むしろそのことに驚いた。カラスにも小学生にも選挙権はないはずなんだけどな・・・。
彼はきっとこれからも両親の年金で悠々自適に暮らしていくのだろう。彼の忠告を聞くまい、と思っているのだが、ときどき心が傾いてしまうことになる。果たして僕は旅に出るべきなのだろうか。それとも・・・。
以上、選挙レポートでした。