今日も生きている(坂口恭平さんの文章を読んで)

今日も生きています。なぜかは分からないけれど、今日も生きています。考えてみれば、「なぜ」に対する明確な答えがなくとも、人は案外生きていけるものなのかもしれませんね。ズルズルと、ダラダラと・・・。僕はそういう心的状態が割と好きです。これは性格的なものかもしれませんが。

さて、31歳になって、作家志望で、なかなか結果が出ない、というのはストレスフルな状況ではありますが、しかし書き続けることだけはできます。書き続けること●●●●●●●。うん。

最近坂口恭平きょうへいさんの記事を読んで(noteで読めます)、本当に自由に好きなことをやってらっしゃるなあ、と思いました。そしてダイレクトに影響を受けた。彼の仕事の特徴は「お金のこととか、他人との比較とか、そういう余計なことはいいから自分の好きなことをやろうぜ」というところに尽きるのではないかと思う。たしかに僕自身も自分の好きなことをやろうとは思ってはいるものの、ふと余計なことを考えてしまったりするだ。こんなこと書いていいんだろうか、とか、誰がこれを読むのか、とか。まあお金のこともそうです。これは金になるのか、とか・・・。

でもそういったことはひとまず置いておいて、自分の意識を自由にするために、まさに自分のためだけに書いてみたいと思います。考えてみれば思考というものはいつも動いているものであって、文章にする、という行為はそれを再確認する——あるいは身体に再確認させる●●●——プロセスなのかな、と思わないこともありません。僕らは知らぬ間に固まってしまう。あれもしなければならない、これもしなければならない。何が善で何が悪なのか。今の自分の行為は本当に「正しい」のだろうか・・・。

僕らはせっかく生まれてきたにもかかわらず、あまりにも余計なことを考え過ぎるみたいです。そしてそのせいで一番重要な「今ここ」という瞬間を失い続けることになってしまう。これは何も他人を批判しているわけではなくて、僕自身の状態から導き出した結論です。僕らは「今ここ」から逃れ続けている。おそらくは本能的に。それはたぶんその中に「かなりおっかないもの」が含まれているからなのではないかと感じます。おっかないもの●●●●●●●。本来意識が見るべきではないと感じるもの・・・。

正直僕自身にも「それ」の正体をズバリと言語的に表現することはできそうにありません。というかもしできたとしても、たぶん一番大事な要素は抜け落ちてしまうのではないでしょうか。人々は概論を読んでああそうか、と思う。自分は何かを理解したと勘違いしてしまうのです。それこそが論理性の怖さです。しかしそんなことを思っている間にも本物の死を含んだ時間はどんどん過ぎ去っていきます。そして残念ながら、その時間の内部にしか我々の真に生きるスペースは存在していないのです。

僕はなんとかその「今ここからの逃避状態」から抜け出したいのだと思う。たぶん高校生くらいのときから(内心では)似たようなことを考えていたふしがあります。反抗する勇気はないけれど、ちょっとみんなから離れた地点からものごとを眺めている、というような・・・。

もちろん「カッコつけ」であったことはたしかなのですが、おそらくはそれだけでは説明できない「独立心」のようなものも絡んでいたのではないかと思います。独立心●●●。うん。自分の思考能力を誰かに預けず、まさに自分一人の力でものごとを判断すること。もっともそれは言うほど簡単なことではないのですが・・・。

結局大事なのは勇気というか、フィジカルな胆力なのではないか、と感じることも多々あります。頭の良さとか、論理的思考能力とか・・・その辺のことはさほどの問題ではないのではないか? まだ見ぬ景色を見たい。自分の頭で考えてみたい。今のままでは窮屈だから、なんとか一歩を踏み出したい・・・。そこで発揮されるのは目の前に広がる「空白」に飛び込んでいく勇気のような気が、僕にはしているのです。

いうまでもなくこんなことは概論です。僕は実際に、今ここに流れている時間と向き合わねばならない。それがおそらくは「生きる」ということの、最も重要なポイントだからです。でもだからといってあんまり力を込めても・・・よろしくないような、気がする。まあ好きなことをやりながら、自然に自分を表出する、ということが大事なのかもしれませんが・・・。

結局坂口さんのやっていることで一番感銘を受けるのは「自分自身の状態を自分で解明しよう」という姿勢なんじゃないかと思います。彼は自分のことを「躁鬱そううつ人」だと言っていますが——実際に医師からそのような診断を受けたみたいなのですが——そのような状態から「脱する」というよりは、「躁鬱人としてどうすれば●●●●●この人生を楽しく生きられるのか」という方向に意識が向かっているように感じられます。これはもう、一つの「資質」として、どうしようもないものなんだから、治すよりは上手く受け入れる方がいいんじゃないか、というような。そしてそれはすごくポジティブで真っ当な姿勢だと僕は思う。

彼は「躁鬱大学」という記事を書いているけれど、僕にとっての「躁鬱人」とはつまり「火星人」のことです。要するに自分ではずっとそう呼んでいたということですが。火星人は出口を閉じられることに耐えられません。周囲の普通の人たちが普通に耐えられることが我慢できないのです。窮屈さというものも苦手です。みんなと同じことをさせられることも苦手・・・。

じゃあ何が得意なのかというと、それは「自由に思考を羽ばたかせること」ではないかと僕は感じています。なにしろ繊細で、傷つきやすい。でもその分固まらないでいることができます。そのような心的状態をもし、作品という形で表出できたなら、ほかの多くの人々の共感を得られるかもしれない。僕はそう考えているのです。

結局のところ重要なのは「時間」に対する姿勢なのかもしれない、と思うこともあります。「正常人」は「正常な」枠の中で時間を潰すことをそれほど苦痛だとは感じません。あるいは「自分は有益なことをやっている」とすら考えている。なぜならそれは大抵誰かと同じことだし、プラス、論理的に説明可能だからです。お金を稼ぐために仕事をする。楽しみを得るためにテレビを観る。退屈を潰すために会話をする。エトセトラ、エトセトラ・・・。

でも火星人にはそんなことしている暇は——本来は——ないはずなのです。なぜなら「自分がどう感じるのか」が一番重要だから。つまり「今この瞬間」ということですね。形が「正常」かどうかとか、他人がどう言っているかとか、そういうことは関係ありません。自分の魂がこの瞬間に●●●●●何を求めているのか。そのことに意識を向けていると、人は当然のことながら孤独になります。なぜなら何を優先しているのか、正常人には見えないからです。

僕はこんな偉そうなことを書いてはいるけれど、ついこの間まで「自分は正常人の間でもちゃんとやっていけるんだ」とか思い込んでいました。そのせいでだいぶ鬱々うつうつとした状態に入り込んでしまった・・・。自分としては形式的には「正常さ」に入り込んで——少なくとも「入り込んだ」という振りして——「中身」は残りの時間を使って、「小説を書く」という行為の中で注ぎ込もうと考えていたのですが・・・考えが甘かった。というか自分で自分のことをあまり理解していなかったのだと思います。「そもそも二兎にとを追うべきではなかったのだ」ということを悟らされたのです。はい。

僕はきっと「自分を自由にすること」だけを考えるべきだったんでしょうね。まずそれがメインの目的です。それが設定されて初めて、ほかのものごとが存在意義を持つようになります。生活とか、お金とか、他人との関係とか・・・。僕はちょっと浮気をして、体裁ていさいを良くしようとしたんですね。そしたらその報いを受けた。一気に「電池切れ」状態になってしまったのです。いやはや。まったく・・・。

31歳になってしまったけれど、まだまだなんとかなるはずだと思っています。今の落ち込みは、むしろ自分を捉え直すチャンスだと解釈しよう、と。そういえば坂口さんが精神科で「躁鬱病」と診断されたのが31歳のときらしいです。彼はその前にすでに本を出版したりしていたのですが・・・。

まあその辺の類似性はいいとして、とにかく自分のことです。本来僕には退屈しているような暇は——プラス、絶望しているような暇は——ないはずなのです。なぜなら今ここに時間が流れていて、それを今ここにいる自分自身が認識しているからです。はい。そろそろ遠慮するのをやめる頃合いなのかもしれない、と思いつつあります。実際に文章を書いて金になるのかどうかは分からないけれど・・・坂口さんの文章を読んでいると「まあお金のこともそのうちなんとかなるか」とか思えてくるから不思議なものです。彼の「躁鬱大学」と「お金の学校」をちょうど読んだり、聴いたり(音声版もある。彼の歌も入っている)しているところです。あるとき思い立ってパステル画を描き始めて、それを毎日続けて、今では熊本で701点もの作品を展示しています(「坂口恭平日記」)。その辺の実行力、継続力は本当にすごいと思う。というか好きなことだから続けられる、というか・・・。

僕はお金のことについてはまったくと言っていいほど考えてこなかった人間だけれど——いや、正確には違うかもしれない。「お金欲しいな」と思いながら、ずっとバイトしかしてこなかったのだ。文学賞の賞金ということしか頭になかった。このソーシャルメディアの時代に・・・。あるいはもっとほかに方法はあるのではないか? だんだんそう思いつつある——坂口さんの「今ここにある状況を最大限に活かそうぜ」という姿勢はかなり大きな刺激を与えてくれます。お金のことは誰も教えてくれなかったから、自分の経験から学んできた、ということを彼は書いています。そして様々な面白い具体的なエピソード。本の印税の話。売上ゼロ、借金ゼロの「畑部」という会社。その支社で働く——というか畑仕事をしている——元「死にたい」人たち。「生活水準は下げろ。自分の水準は上げろ」というモットー。正直それは最近僕が考えていたことでもあります。我々は日々働いているが・・・それはいったい何のためなんだろう? 欲しいものを買うため? 今の生活を維持するため? でもそれって・・・本当の本当に●●●●●●価値あるものなのだろうか? 本当に「価値あるもの」とは・・・今ここにある「時間」なのではないか? 金を使って、ものを買って、今度はそれを補充するためにまた稼ぐ・・・というサイクルに嵌まり込んでいては我々は永遠に——というか物理的に死ぬまで、という意味ですが——自由にはなれないのではないか?

個人的にあまりにも働きたくなかったため——正確に言えば「他人の指示に従って」働きたくなかったため——ネットで自給自足をしている人たちについて検索したりしていました。人は月いくらで生きられるんだろう? 中には本当の強者ともいうべき人たちがいて(電気もガスも水道も契約しないとか。古民家で一人暮らしをするとか。小屋を建てるとか)・・・そういう人たちはなんだか目がキラキラしているように感じられます。もっともそれだけで精神の「穴」を埋められるとは僕は思ってはいないわけですが・・・。

それでもなお時間は重要です。時間とエネルギー。この歳になってひしひしとそう感じます。あるいは普通の大人は——「ちゃんとした大人」は——そんな風には考えないのかもしれない。でもいいや、とちょっと吹っ切れつつあります。別に馬鹿にされたって。もう「正常人」になることはできないのだもの。徹底的に自由を目指してやってみようじゃないか、と思いつつあります。まったく・・・。この心持ちを良い方に向けるために、やはり今ここにある●●●●●●時間を有効活用しないといけないみたいです。お金のため、というよりは自分の魂のために、ですね。そこに本当のグルーヴのようなものが生み出されたなら・・・あるいは広い共感を呼ぶこともできるかもしれない。僕の思うところ、「俺たちのこんな生活に本当はどんな意味があるんだろう」と考えている人たちは結構いるような気がするからです。僕はある意味その代表者●●●として、突っ走っていくべきなのかもしれない。落とし穴があったら飛び越えて。そのためにはスピードに乗ることが重要なのですが。とにかく。

坂口さんは歌も歌っているし、ギターも弾くし、料理もするし、畑も作っています。自分の電話番号を一般に公開して「いのっちの電話」という死にたい人たちを助ける活動もおこなっています(無償で)。本当にその行動力には驚かされます。そして大事なのは、その根底にあるのが「自分の好きなことを好きなようにやりたい」という姿勢なのだ、ということです。表面的に真似をしてもあまり意味はないかもしれないけれど——それこそ不自由になってしまうから——その姿勢には学ぶべきものがたくさんあると思う。熊本市現代美術館にはたくさんの人が訪れたみたいです。彼のパステル画には、単に写真を絵に移し替えた、というのとは違う、独自の視点(とタッチ)が含まれているように感じられます。それは完全に彼の個人的な視界が捉えた世界になっているのです。我々は孤独だ。孤独だけれど、その孤独な世界と別の孤独な世界とは・・・どこかでつながっているかもしれない。そういった感情を起こさせる絵でした(映像でしか見ていないけれど)。僕もやりたいことをやって、それでなんとか金を稼いでいきたいです。何のために? もちろん今よりも自由になるためです。いうまでもないことですが。

明日の阪神の先発は誰かニャン・・・。雨柳投手です。たぶん・・・。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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