違和感は知らぬ間に僕の部屋に住み着いている。いつだってそうなのだ。僕が呼んだわけでもないし、どうしても来なければならない必然性もない。しかしいつもいるのだ。そして僕の邪魔をする。
「そう、毎日ダラダラしてつまらなくないかい?」と僕は言ってみる。彼は太っていて、床に寝転んで漫画本を読んでいる。
「うん、まあ……ね」と彼は言った。
「まあねってどういうことだよ?」と僕は言う。「というかさ、また大きくなったんじゃない?」
「うん? そう……かな。言われてみれば」
「そうだよ。絶対。昨日は五センチくらいしかなかったじゃないか? でも今は、二メートルくらいある」
「気のせいだよ」
「いや、気のせいじゃない。というかさ、職場にまで付いてくるよね。さすがにストーカーというか」
「違うよ。ストーカーじゃないよ」と彼は言う。でも目は漫画本を見たままだ。彼は決して僕と目を合わせないのだ。「たまたま用があっただけさ」
「そんなわけあるもんか」と僕は言う。「君は課長の席に座って、課長のパソコンでマインスイーパをやっていたじゃないか? すぐに爆発していたし。課長がトイレから戻ってくると、どこかに消えた。僕はそれをヒヤヒヤしながら見ていたんだ。もし僕の知り合いだとバレたらどうしようってね」
「君に迷惑はかけないよ」と彼は言った。そして大きなお尻をポリポリと掻いた。「僕はただ……なんというか……」
「なんというか何なんだよ?」
「あれ? 今、日本勝っているかな? 今日サッカーの試合なんだよ」
「あ、そうだった。忘れてた」と言って僕はテレビを点ける。違和感は話を逸らすのが天才的に上手い。自分がまずい立場に置かれると、決まって「あ、そういえば」という話が始まるのだ。僕はそれに気を取られてしまい、彼のことを忘れてしまう。その日も僕と彼は一緒にサッカーの代表戦を応援した。応援の甲斐あってか――かどうかは分からないが――日本代表は快勝した。
「あのシュートは良かったね」と僕は言う。
「うん、実にね」と彼は言った。
彼を憎んでいるのかというと、そういうわけでもないような気がする。結構柔和な顔つきをしているし、僕が本気で怒るようなことはやらない。ただいつもいつも気に障る、というだけのことなのだ。
「君は脱いだ服をそのまんま放っておくんだね。へえ」
「うるさいな」
「掃除もしないし」
「忙しいんだよ」
「テレビを観るのに?」
「自分だって何もしないくせに」
「僕は別にほら、あのさ……」
「あの何なんだよ」
「あ! そういえば、今面白いドキュメンタリーをやっていてさ。ゲッベルスの特集だよ。ナチスの宣伝大臣の」
「何? それは面白そうだな……」
違和感はたぶん形を変えてずっと前から僕の人生に登場していたのだと思う。小学生の頃は女の子の形を取っていた気もする。犬のときもあったな。猫のときもあった。ハエのときも。たまたま今は三十代の男になっているだけなのだ。こいつがいなくなったらどれだけ自由になれるだろう、と僕は思う。いつも僕のベッドの下で眠っているせいで、便所に行くときに踏みそうになってしまうのだ。
「あ、失礼」と僕は彼を蹴飛ばして言う。
「うん? いいよいいよ。むにゃむにゃ」
もしかして違和感は僕に何か伝えたいことがあって居候しているのかもしれない、と思い始めたのはつい最近のことだ。これまでは彼は「いない方がいいやつ」だった。でも決していなくならなかった。彼はあるいは、僕にとって大事な「何か」を知っているのではないか?
「あのさ」とある夜一人でバーに行ったときに彼に話しかけた(彼は当然のことのように隣の席に座って、酒を飲んでいた)。「ちょっと思ったんだけどさ、君は僕に伝えたいことがあるんじゃないかな?」
「え? 僕が?」と彼はとぼけたような顔をして言った。そしてナッツをボリボリと齧る。「うん、うまい。そういえばさ、今国際会議が開かれていて……」
「話を逸らすなよ」とまっすぐ彼の顔を見て僕は言った。「もうその手には乗らない。気付いたんだ。僕はさ、君を厄介者だと思ってきた。でもそうじゃないのかもしれない。君は僕の一部分なんだろう? だから会社のほかの人間には見えなかったんだ。君は幻想に過ぎない」
「僕は……うん、幻想じゃ、ないよ」。彼はそう言ってグラスを下に落とした。それはパリンと割れた。バーテンダーが急いで片付けに来る。「ほらね」と彼は言った。
「いや……分かったぞ! このすべてが幻想なんだ。グラスも、バーテンダーも。この音楽も。というかこの世界全部が」
彼はニヤニヤと笑っている。彼が笑うのを見たのはおそらくは初めてのことだった。「でもそうなったら君も幻想になっちゃうよ?」
「たしかに」と僕は言う。そして自分の頬をつねる。痛い。「うん、痛いな……。でもこの痛みすら幻想だとしたら?」
「キリがないね」と彼は言った。「どっちでも構わないじゃない。そんなこと」
「いや、構わなくない」と僕は言った。「僕が言いたいのは……ほら、またはぐらかしている。君のことだ。君は僕に伝えたいことがあるんだろう? それを僕が正面から聞いてやらないから、嫌がらせばかりしているんだ。靴下の片方を隠すのは君だろう? 分かっているんだよ。ちゃんと」
「そんなことしないよ。靴下といえばね、ウィリアム・ブレイクの父親は靴下商人でね……」
「なんだって? それは意外だったな……。靴下商人の息子があんな芸術家に……ってまたはぐらかそうとしているな。僕はさ、もうやめたんだよ。君から逃げることをね。いいか? 僕は君と友達になる。死ぬまで付き合っていこうと決めたんだ。完璧な人生なんてどこにも存在しない。君はどこに行っても付いてくるんだから、仲良くしていくしかないじゃないか? その手始めに、まず君の話を真剣に聞いてみたいと思ったんだよ。君は本当は誰なんだ? 本当に男なのか? この間はハエじゃなかったか?」
「僕は僕さ」と彼は目を合わせずに言った。「それ以外の何者でもないよ」
「僕はさ、ここにある不完全な現実を受けれてだね、死ぬまでの時間を、きちんと有効に使いたいと考えているんだ。心底そう思っているんだよ。だからはぐらかさないでほしい。僕を正面から見て。ほら」
「仕方ないな」と彼は言った。そしてまっすぐ僕と目を合わせた。彼の目は奇妙だった。まるで穴のようなのだ。光がない。動きもない。どんどん吸い込まれそうになってしまう。なんだ? これは?
「僕は空っぽなんだよ」と彼は言った。平板で、感情の伴っていない声だった。「生まれたときから、ずっとね」
「それは……」と僕は声を絞り出す。「それは……」
「それは……何なんだい?」
「それは哀しいことだ」と僕は言う。
「そう、それは哀しいことさ。実にね」と彼は言った。そして両手を僕の肩にかけた。ものすごく重い手だった。「僕と友達になるのは大変だよ? 口で言うほど簡単じゃない。明るい未来を全部諦めるんだ。自分に対する妄想も消し去る必要がある。分かるかい? ここは現実じゃない。君が見ていると思い込んでいる、何か別の世界さ」
「何か別の世界?」と僕は言う。
彼は頷いた。「そうだよ。僕はずっとそのことを示唆してきたのに、君はこの歳になるまで気付かなかった。まったく。愚かだね。でもここから先に進める。もし死ななければ、だけど」
「もし死ななければ」と僕は言う。「それは……」
「ほら、さっきのバーテンダーさ。彼の頭はブタになっている」
僕はそちらを見た。たしかに人間の身体にブタの頭が付いている。つぶらな瞳で、僕のことを見ている。
「その奥にいた女性の客はハエになっている」
たしかに地面に女性のドレスが落ちていて、そこから一匹のハエが飛んできている。
「ここは幻想だったということか? 本当に?」と僕は訊く。
「全部幻想さ」と彼は言った。「でも真実がないわけじゃない。君はそれを見たいかい?」
「見たい」と僕は言う。
「残りの寿命すべてを投げ捨ててでも?」
「うん。見たい。幻想の中で生き続けるのはもう嫌だ」
「じゃあ」と彼は言った。そして人差し指を僕の目と目の間のあたりに付けた。それをグッと押し付ける。徐々に指は皮膚にめり込んでいく。僕は目を閉じる。やがて皮膚に穴が開き、骨にも穴が開いた。指は根元まで入っている。しかし、痛みはない。
彼はそれを抜いた。僕の額には穴が開いている。そこを、風が、通り抜けていく。
「これが真実さ」と彼は言う。「この、風がね。透明な、風が」
「それは……」と僕は言おうとする。そのとき誰かに肩を触られてはっと我に返る。見るとそれはバーテンダーの男だった。もうブタではない。人間に戻っている。
「大丈夫ですか?」と彼は言った。「顔色が悪かったから」
「ええと……。ええ、大丈夫です。ありがとうございます」。隣の席を見たが、違和感はいなくなっていた。後ろを見る。ドレスを着た女性がいた。もうハエではない。あれは……何だったんだろう?
自分の分の勘定を払って、マンションに帰った。終電がなくなっていたので、タクシーに乗った。タクシーの運転手は、初老のがっしりとした男だった。僕が金を払って降りると、なぜか彼はエンジンを切って、自分も外に出てきた。そして一緒に階段を上る。僕はドアを開ける。彼はごく当然のことのように入ってくる。靴を脱ぐ。彼もまた靴を脱ぐ。僕はもう気付いているのだが、それは新たな違和感だった。
「ほら、靴を揃えない」と彼は言った。「廊下は埃だらけだし」
「人生は奇妙だ」と僕は言った。「理解できそうにない」
「理解する必要なんかないんですよ」と彼は言った。きちんと靴を揃えながら。「通り抜ければいいんです。それも必死にね。そうしないと貴重な時間を失ってしまいますよ。ちょっとシャワー借りますね。あ、シャンプーが切れている。まったくもう」
僕は何のために生きているのだろう、と僕は思う。