カバ山さん

 カバやまさんは僕の会社の上司で、いつも笑っている。あまりにも大きく口を開けて笑うので、あごが外れてしまうんじゃないかと心配になるほどだ。でも少なくとも僕の知る限りにおいては、彼の顎は外れたことがない。二、三分、ガハハハハと豪華に笑ったあと、すぐに真顔に戻り、真剣に仕事をこなす。その「緊張」・「リラックス」モードの切り替えについては、僕はいつも尊敬の念を抱き続けてきた。

 カバ山さんはかなり大柄で、会社中の誰よりも大きい。きっとスーツだって特注なのだと思う。髪の毛は全然なくて、肌はピンクと灰色の中間あたりの色をしている。だから始め、僕は彼の顔を見たときに彼は本当のカバなんじゃないかと思った。でも誰もそのことを話題に出さないし、もしそうだったとしても、彼の仕事能力は明らかに平均よりも上だったから、会社としてはどちらでも構わなかったのかもしれない。たしかにそうだな、としばらく経ってから僕も思うようになった。彼はどんなに忙しいときでも、嫌な顔ひとつせずに僕の質問に答えてくれたし、後輩たちも彼のことをしたっていた。意地の悪い上司に嫌味を言われているようなときは、さっとさりげなく現れて(どうしてあの巨体であんなに素早く移動できるのか謎なのだが)、何か場がなごむようなことを言ってくれた。そうするとその意地悪な上司もちょっと言い過ぎたかな、と思い直し、お説教はそこで終わるのだった。

 カバ山さんはどうやら独身らしく、いつもスーパーで半額の弁当を大量に買って帰るのだと言っていた。寂しいが、まあいろいろと事情があってね、と彼は言った。

「休日は何をしてらっしゃるんですか?」と僕は訊ねた。

「ほら、水泳とか、日向ひなたぼっことか」と彼は言った。

「へえ」と僕は言った。「僕には趣味というものがないんですよ」

「それはいかんね」と彼は言った。「音楽は聴かないのかね?」

「音楽は……」と僕は言った。「以前は聴いたんですが、最近は忙しくて」

「よし、じゃあ、今日私と一緒に、良い音楽を流すバーに行こう。明日は休みだったね?」

「ええ」と僕は言った。「でもいいんですか?」

「いいさいいさ」と彼はにっこりと笑いながら言った(四本の鋭いきばが覗いた)。「大丈夫。私が払うからさ。ハッハッハ。こう見えて結構溜め込んでいるんでね」

 仕事が終わり、僕はカバ山さんの大きなお尻を追いかけるような形で街を歩いた。人々は一瞬だけ彼の顔をチラリと見るのだが、あとは興味を失ったように歩き去ってしまう。うん。カバだろうと人間だろうと、別に大して変わりはないよな、と僕は思う。みんな一生懸命今を生きている。仕事もしなくちゃならないし、家事もこなさなくちゃならない。会いたくない人間と会う必要だって出てくる。いったいどれくらいの人々が人生をポジティブに生きているんだろうな、と僕はふと思う。

 しばらく歩いた後、彼はある小さな通りの端の方にある店に僕を連れていってくれた。狭い店で、僕らはカウンター席に腰を下ろした。カバ山さんが座ると、店全体が縮んで見えた。でも彼はリラックスしているみたいだった。彼の周囲の空気でそれが分かるのだ。それを吸い込むと、僕もまた同じようにリラックスしてしまう。不思議な人間――カバ――だな、と僕は思う。

 古い英語のブルーズが流れていた。僕には曲名は分からないが、彼がいちいち教えてくれた。「これはライトニング・ホプキンズだ。ほら、こっちは……」

 酒を飲むと彼はどんどん饒舌になっていった。バーテンダーの男とは仲が良いらしく、何やら音楽の話をしていた。僕も酒を飲んだ。ウィスキーだ。もっとも僕は酒に弱いため、すぐに赤くなってしまう。

 知らぬ間に仕事や人生の悩みを話していた。彼はその大きな耳で、僕の話を全部●●受け入れてくれた。基本的に肯定も否定もしなかった。うんうん、そうか。なるほど。へえ……といった感じだ。

 酒の勢いもあってか、僕は今まで誰にも言わなかったようなことまで話した。この人ならきっと驚いたり逃げたりせずに、その気持ちを理解してくれるのではないかと思ったからだ。

「ふうん。なるほど。ほほう●●●。君は自分が生きているという状態そのものに疑問を感じているんだな?」

「恥ずかしながら」と僕は言った。

「恥ずかしくなんかないさ」と彼は言った。そしてウィスキーを飲み干した。「ヒック。うん。良いウィスキーだな。これは……。それで、そうそう。その疑問のことだったね。実は私は三歳くらいのときからその疑問を持ち続けてきた。そして何を隠そう今この瞬間まで●●●●●●●持ち続けているんだよ。分かるかい?」

「ということはつまり……カバ山さんも同じことを考えている? たとえば仕事中も?」

「まあそうだね。みんなには見せないように努力しているけれど」

「じゃああんなふうに豪快に笑っているときも、本当は生きている理由が分からない、と感じているわけですか?」

「ある意味ではね。ヒック。こりゃ失礼」

「でもそんなふうには見えなかったな」

「いいかい?」と彼は優しい、さとすような口調で言った。「この世の中はね、一種のゲームなんだ。会社なんか特にそうさ。みんな演技をしている。そこに積極的に入り込んでしまえば、まあ〈疲れ〉は少なくて済む。君みたいに疑問を感じて馴染めずにいると……こう、肩がむずむず●●●●してくるだろ?」

「ええ、たしかに」と僕は言った。

「君は始めからそうだったよ。うまく演技ができないのさ。そういう人間は苦労する。でもね、それでもいいじゃないか? 会社でうまく行ったって、効率よく金を稼げるようになるだけさ。そんなことに熱心になるのは、ちょっとカバカバ●●●●しいと思わないか?」

「カバカバしい」と僕は言った。

「そう、実にカバカバしいよ。大したことじゃない。いいかい? 大事なのはその疑問を、ちゃんと、自分の中心のあたりに持ち続けることさ。そうしないといろんなことがおかしくなってしまうからね」

「おかしく、というのはどういうことですか?」と僕は言った。

「そうだな」と彼は言って、一度目を閉じた。その大きな耳がピクリと動いた。僕の知らない誰かが、人生の悲哀について歌っていた(おそらくは)。そのような気配があった。「それはまるで……目をつぶって荒野を歩き回っているようなものさ。どこかに宝が埋まっている。でもそれじゃあ、いつまで経っても見つからない。分かるかい?」

「ええ」と実はよく分からないままで僕は言った。

「みんなね、本当につまらないことに時間とエネルギーを使っている」と彼は続けた。「ちょっと離れたところから見ているとね、本当にカバカバしくなってくるんだよ。いいかい? 彼らは……そうだな、ちょっとたとえが悪かったかもしれない。そう、ものすごく広い大地があってだね、そこに低い柵があるんだ。四角く区切っている。それはただの柵で、跳び越えられるんだが、それはできないと生まれたときから教え込まれている。そうするとどうなる? みんなその中だけで生きていこうとするのさ。外にはいろんな可能性があるのにね。私はその外からいろんな人々を見てきたよ。みんな目は良いんだ。頭も良い。でもその柵の中のものしか●●見ていない。私はそんなのはカバカバしいと思った。もっと大事なことがあるはずだってね」

「カバ山さんにとっての〈大事なこと〉って何なんですか?」と僕は訊いた。

「それは……説明するのが難しいな」と彼は難しそうな顔をして言った。「言葉で説明しようとすると逃げ出してしまう。正直に言えばだね、それは柵の外に出てみないと分からない種類のことなんだよ」

「どうして人は……狭い柵の中で生きようとするんでしょう?」

「それはその方が安心するからだよ。一時的にはね」と彼は言った。「世界があまりに広すぎると、方向を見失ってしまうからね。でもそれで良いんだ。それが正しい状態なんだよ。私たちはみんな迷える子羊なんだ。というか、迷える子カバ●●●というかね」

「でも迷ったら……何をしたらいいのか分からなくなってしまいますよね?」

「そうだね」と彼は言った。「その通りだ」

「それは……良いことなんでしょうか?」

「もちろん良いことじゃないよ。でも仕方のないことだ」と彼は言った。「ねえ、君に大事なことを教えるよ。これは誰にも言っちゃいけない。分かったかい?」

「分かりました」と僕はちょっと緊張して言った。

「実は私はカバなんだ。人間じゃなくね」

「それは……」と僕は努めて驚いた顔をよそおって言った。そんなこととっくに知っていたのに!

「私はカバ的な生活に飽き飽きして、人間の世界に出てきたんだ。 さっき話していた〈柵〉を乗り越えてきたんだよ。カバは自分はカバだから、こういった生活でいいんだと思っている。そんで餌を食べたり、日向ぼっこをしたり、子育てをしたり、喧嘩したりで、人生を終えていくんだ。でも私はそれは嫌だったんだ。親父と喧嘩したよ。母親ともね。でもどうしても出てきたくて、あそこを飛び出した。なんとかスーツを仕立ててもらって、パスポートを偽造して、マイナンバーカードまで作って……いやあ大変だったよ。でもなんとかできないこともない」

「それで独身だったんですね」

「そう。私がカバだと気付いたら、きっと人間の女性は驚くだろうからね。私だって恋をしないわけではないんだが……。まあしかしそんなことはどうでもいいんだ。大事なのはこちらで何をするのか、だ。実は私は仕事のない日にね、秘密の活動をおこなっている。そこで少しずつ自分の魂の空白を埋めているんだよ」

「それはつまり……」

「それについて言葉で説明することはできない」と彼は言った。「というかね、しても意味がないんだ。それは過ぎ去る時と一体化することだからだよ。分かるかい?」

「分かりません」と僕は正直に言った。「僕にはちょっと難しすぎます」

「いや、本当は難しくなんかないはずなんだよ。だって赤ん坊の頃にやっていたはずだからね」

「赤ん坊の頃に?」

「そう」と彼は言った。そして大きな鼻をピクピクと動かした。「それはその瞬間にだけ意味を持つんだ。あとから思い出すことはできるが……それはすでに記憶に過ぎない。いいかい? 君は実は透明なんだ。透明じゃない部分もあるが、透明な部分もある。私だって一緒だ。というかみんなそうだ。昆虫も、ウィルスも、キノコも、タコやイカもそうだ。みんな透明なのさ」

「僕にはまだちょっと……」

「ハッハッハ」と彼は豪快に笑った。店内の何人かがこちらをチラリと見たが、またすぐに目を逸らしてしまった。「まあ無理もないな。君はあんまり真面目に生き過ぎてきたから。たとえばこれを聞いてごらん?」。彼はそこでウォォォォォォォォォォォォォという、ものすごいうなり声を発した。身体が底の底の方から揺らされるみたいな、地獄の底から湧き上がってくるみたいな、そんな原始的な声だった。僕は僕の中の何かが――透明な何かが――プルプルと震えているのを感じ取ることができた。

「分かったかい?」と彼は柔和な目つきに戻って言った。「今のが一例だ。あれがカバ的な発声だ。人間ほど分化されていないが、その分生命の本質の近くに位置している」

「ものすごい声ですね」と僕は言った。そのとき店にいる人たちがみんな動きを止めて、ポカンと口を開けているのが見えた。バーテンダーも、客たちも、全員だ。心ここにあらず、という目つきをしている。「みんなどうしちゃったんだろう?」

「あの声に耐えられなかったのさ」とカバ山さんは言った。「あまりにも原始的だったからね。意識が緊急停止したんだよ。影響されると、統合性を失いかねないからね」

「どうして僕は意識を保っているんでしょう?」

「それは……」

「それは?」と僕は言って、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「それは君がカバ●●だからだ。正真正銘のカバだ。自分で忘れているだけなんだ」

「え? 僕が?」。僕はそこで両手で自分の顔を触った。でもこれは……人間の顔じゃないか?

「ハッハッハ」とカバ山さんは笑った。「大丈夫だよ。私は内的な●●●ことを言っているんだから」

「内的なこと?」

「そうそう。君もおカバ●●さんだなあ。本当に。君の外殻は人間だ。人間の両親から生まれた、正真正銘のホモ・サピエンスだ。しかしそれはれ物に過ぎないんだ。君は人間であり同時にカバでもある。君の内部は、だね。同時に空気でもある。震えている、空気だ」

「空気」と僕は言った。

「そうだ」と彼は言った。「音楽でもある。でも今はカバに近いかな。ハッハ。ねえ、私の真似をしてごらん。ちょっとは私の言っていることが肉体的に理解できるはずだから。ウォォォォォォォォォォォォ

「ウォォォォォォォォォォォォ」

「駄目だ。もっと腹の底から。まだ恥ずかしがっている」

ウウォォォォォォォォオオオォォォォ

「駄目だ。カバになれ! カバになるんだ! もっと口を開けて! そうだ。その調子!」

ウウウオオオォォォォウオォォウォォォォウォォォォ

「良い感じだ。そのまま狂気の扉を開けるんだ! 柵を跳び越えろ! 君はもはや人間ではない! そうだ。カバだ! 一頭の勇敢なカバだ! 尻尾を振れ! 噛みつけ! ここはアフリカの大地だ!」

 僕は椅子から飛び降り、床に四つん這いになって、うなり続けた。一瞬アフリカの風が吹いたような気がしたが、よく考えればそれは僕自身●●の内部から吹いてきた風だった。真上に太陽が見えた。アフリカの太陽だ。でもあれも僕の一部なのだろうか? 僕にはもう分からない……。

 カバ山さんが僕の背中に手を触れた。するとはっと我に返り、僕は人間に戻った。「大丈夫。その辺にしておこう。戻ってこれなくなっちゃうからさ」

「はい」と僕は服のほこりを払って言った。見るとほかの人たちも徐々に正気を取り戻しつつあるみたいだった。

「ちょっとは分かっただろ? 私の言っていることが?」

「ええ」と僕は言って頷いた。「たしかにあれは言葉では説明できそうにないですね」

「そうなんだよ。実にそうなんだ。だからさ、あんまりクヨクヨしちゃ駄目だよ。時間がもったいないからね。本質的な疑問は持ち続けていい。でもそれを具体的な行動に結びつけるんだ」

「具体的な行動。でも……」

「いいかい? 君は広い場所にいて、自由に動いていいんだ。そのことを忘れちゃいけない。いつだってやるべきことはあるよ。焦らなくていいから。声を聞くんだ。風を浴びるんだ。光を見るんだ。いいかい? その全部は君の中にある。君はそのことをずっと前から知っていたはずなんだよ。子供の頃から」

「子供の頃から」と僕は言った。だんだん目がとろんとしてきた。彼の声が僕をリラックスさせてくれているのだろう。まぶたが、だんだん落ちてきて……。

「眠りなさい。おカバ●●さん。みんな気付いていないだけなんだ。自分がただの小さなおカバさんに過ぎないということにね」

 目を覚ましたとき、すでに閉店時間になっていて、カバ山さんはいなくなっていた。僕はバーテンダーに起こされた。すでに勘定は払ってあるということだった。僕はタクシーに乗って家に帰った。


 あれからずいぶん長い歳月が経ったが――カバ山さんはあの少しあとに転職してしまった。「ヘッドハンティングされたのだ」ともっぱらの噂だったが――あの夜の記憶はずっと頭に残り続けている。くだらないことにクヨクヨしていると「そんなのはカバカバ●●●●しいことだよ」という彼の言葉がすぐによみがえってくるくらいだ。あの声、あの口、あの耳……。僕はいまだに「人間」という狭い柵の中で暮らしている。ときどきアフリカにカバ修行に行こうかなと思ったりもするのだが。

 いずれにせよ「秘密の努力」は続けている。実際に、具体的に、行動に移すこと。僕はいつもそのことを考えている。人生は短い。時間を無駄にしてしまうのはカバカバしいじゃないか? 少しずつ、少しずつ、自分を強化して……。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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