『啓示 1』の続き
彼はそこで突然話をやめ、何か飲みものはいらないか、と訊いてきた。僕はそんなことよりも早く話の続きが聞きたかったのだが、それでも確かに喉が渇いていた。なんでもいい、と僕は言った。
彼は冷蔵庫からよく冷えた麦茶を取り出し、それを二つのグラスに注いだ。氷をいくつか入れ――それは静かな部屋にカラカラという音を立てた――お盆に載せて僕のいるテーブルに運んできた。彼はそれを一口飲むと――僕は一気に全部飲み干した――また話を続けた。
「それでだ」と彼は言った。「君たちはまっさかさまにビルの下に落ちていった。いかに君といえど――その世界で唯一生きている人間としての君といえど――さすがに重力には逆らえないみたいだった。でも君は何一つ恐れず、堂々と真下に落ちていった。そこには何の後悔も、迷いもなかった。一方彼は目をつぶったまま、強く君の手を握っていた。それだけが彼の心の支えだったんだ。でも今彼は死のうとしていた。歩く死体が、本当に死のうとしていたんだ。どんどん地面は近づいてきた。目をつぶっていても気配でそれが分かった。もう本当にだめか、と思ったそのとき、どこかから猫の鳴き声が聞こえてきた。
彼ははっとして目を開けた。すると視線の先に、さっき落ちていった猫が飛んでいるのが見えた。そいつは今四本の足を広げ(ついでに尻尾も伸ばし)、全身に風を受けてまるでグライダーのように空を飛んでいた。そいつは言った。
「君。目をつぶっていちゃあもったいないよ。世界はこんなに美しいのに」
でも彼の目には、ただいつも通りの死んだ街が見えるだけだった。
「それはね」と猫は彼の心を読んだように言った。「君の目が死んでいるからだ。君の目が死んでいるからこそ、死んだものしか見えないんだ」
猫はそう言うと、やって来た風に乗って急に高度を増した。そこで青年もめいっぱい両手両足を広げて、風を全身に受けた。
すると一気に高度が増した。君と青年は、手を繋いだまま高い空に飛び上がっていったんだ。
それはとても気持ちの良い感覚だった。青年は、まるで生まれ変わったような気分を味わっていた。見ると、すぐ近くにまたさっきの猫がいた。
「なあ」と彼――おそらくオスだと思われるのだが――は言った。「知ってるか? 三毛猫のオスが生まれる確率はおよそ三万分の一だそうだ。それで俺は結構ちやほやされて育った。自分が特別な存在なんだと思ったこともあった。でもね」と彼は言って青年を見た。「はっきり言って、特別じゃない奴なんてどこにもいないのさ。そのことに気付いていないだけでね」
彼らは死んだ街を通り越し、今海の上に出ていた。たくさんのカモメが、彼らのすぐ脇を通り過ぎていった。
「僕らはどこに向かっているんでしょう」と青年は訊いた。
「君は今日の午後9時30分に死ぬんだろう」と猫は言った。「それなら時間のないところに行かなければならない」
「時間のないところ?」
「彼が知っているさ」と言って猫は君の方を見た。
君は分かっている、という風に猫に向けて頷くと、青年を連れてさらに高く飛び上がった。君らは大気圏を抜けて、やがて宇宙に出た。そして俺はそこで初めて気が付いたんだが、そこから見える太陽は黒くなり、今にも死にそうだった。そこで君がようやく口を開いた。
「太陽は今日の午後9時29分に死ぬ。そう決まっているんだ。それはもう、誰にも止められないことだ。それはもう50億年くらい前から決まっていたことなんだ」
「じゃあ僕らはどうすればいいんです?」と主人公の青年は訊いた。
「どうしようもないさ」と君は言った。「でも一つだけ、生き残る可能性のある方法がある」
「どうやるんです?」と彼は訊いた。
「それはね」と君は言った。「太陽が死ぬ1分前に君自身が死ぬことだ。正確にいえば、生まれる前の君に戻るんだよ。そしてその状態で太陽の死をやり過ごす。先に死んでしまえば、太陽が爆発したところで――というのも太陽は最後に爆発することになっているから。そのとき宇宙も一緒に死ぬ――もう一度死ぬことはない。かつて誰かが言ったが、死者の特権はもう二度と死なないことにある。
そして君はその生まれる前の状態で、太陽と宇宙の死をやり過ごす。宇宙が死ぬと、そこに一瞬空白が生じる。君はその空白の中に生まれ変わればいい。そこで君が新たな宇宙になるんだ」
でもそんなことは、あまりに現実離れしていると彼には思えた。「本当にそんなことができるんですか?」と彼は訊いた。
「どうだろう」と君は言った。「でもほかに方法がないんだよ。君以外の人間はすでに死んでしまっている。君だってほとんど死にかけてはいたんだが、それでも完全に死んでいたわけではなかった。だからこそ今こうしてここにいられるんだよ。でもとにかく、さっき言ったやり方のほか、僕は方法を知らない」
「動物たちはどうなるんです?」
「彼らはもう十分生きたさ」と君は言った。「それに彼らは、運命を受け入れるのには慣れている」
「『生まれる前の姿』って一体何なんです?」と彼は訊いた。
「それはまあ」と君は言った。「一種の受精卵みたいなもんだ。でもそのままの受精卵、というわけでもない。まあ似たようなものだけど、いわば意識の受精卵だ。君はそこで原初の混沌に戻る」
「どうやってそんなことをやるんです?」
「これから月に行く」と君は言った。「そこでウサギさんに薬を調合してもらう」
そして君らは月へと飛んでいく。実は月もまた死んでいたんだが、そのことは別に青年を驚かせなかった。だってよく考えてみれば、月なんてただの岩の塊で、生まれたときから死んでいたようなものだからな。月にはウサギと、さっき大気圏で別れた猫がいた。そこには小さな小屋のようなものがあって、どうやらそこがウサギの家であるようだった。彼らは外に置かれたデッキチェアに座り、そこで一杯やっていた。
「おお、来たか」と猫が言った。「一杯どうかね」。そして彼は青年にビールのジョッキを差し出した。
「いや、今のところは大丈夫です」と彼は言った。
君はウサギに言った。「ここにいるのが前に言っておいた彼です。彼のために薬を調合してもらえませんか?」
「〈逆戻りの薬〉」だな」とウサギは言った。彼は待っていろ、と言って後ろに引っ込んだ。と思うとすぐまた戻って来て、青年の鼻毛を一本引き抜いた。「薬に必要なんだよ」と彼は言った。
君らと猫は外で待っていたんだが、そこから見える地球もまた死にかけているように見えた。青年は言った。
「僕はいいとして、あなたたちはどうするんです? だって太陽が爆発したら、みんな死んでしまうんでしょう」
「俺たちはいいんだ」と猫は言った。「君は君自身のことを考えていればよろしい」。そしてまたビールを飲んだ。
そこでウサギが戻ってきた。彼は片手に小さな瓶を持っていた。コルクで栓がしてあって、中には黒い液体が入っている。
「いいか」と彼は言った。「これを今日の午後9時27分に飲むんだ。それ以上早くても、遅くてもいけない。そうすれば君は1分後には受精卵に戻っているだろう。さらにその1分後に太陽が爆発する。その衝撃で宇宙そのものもまた死ぬわけだ。君は、そのあと世界に生まれた空白の中で、また分裂を始めればよろしい」
「でも」と彼は言った。「受精卵が太陽の爆発に耐えられるのでしょうか? それは宇宙を殺すほどのエネルギーを持っているのでしょう」
するとそこで君が言った。「それは大丈夫です。僕が君を守ります」
「あなたが?」
「ええ」と君は言った。「僕が身を挺して守ります。僕にだってそれくらいのエネルギーは残されている」
「でもそうしたらあなたは死んでしまうでしょう」と青年は言った。でも君は猫と同じことを言っただけだった。
「僕はいいんです。あなたはあなたのことを考えていればよろしい」
君らはそこで月を発つと――猫はもう少しそこでビールを飲むと言った――青年の自宅へと帰った。時刻は午後の6時くらいになっていた。
「最後に何がしたい?」と君は彼に訊いた。
でも彼には何か特別なことを思いつくことができなかった。別に無欲だ、というわけでもなかったんだが、彼の頭に浮かぶのは、どれもつまらないことのように思えた。そこで結局、彼は近くのデパートで一番高いコーヒー豆を買ってきて、それをミネラルウォーターで淹れて飲むことにした。それが彼の思い付ける最高の贅沢だったんだ」
そこで彼はまた話を急にやめると、ちょっと待っててくれ、と言って台所でガリガリとコーヒー豆を挽き始めた。やがてこちらにまで良い香りが漂ってきた。そしてさらにお湯を沸かす時間がかかり、数分後、二杯のコーヒーを持って戻ってきた。
「これが一番高いコーヒーだ」と彼は言った。
僕らは黙ったままそのコーヒーを飲んだ。確かに高いだけあって、とてもおいしかった。おそらくブルーマウンテンだろう。
「それで」と彼は話を続けた。「君ら二人は午後9時27分までそうやって一緒に時間を過ごしたあと、彼は28分にあのウサギからもらった薬を飲み、29分に太陽が爆発して、30分に生まれ変わった。そしてそのとき気付いたんだ。この青年とは俺のことだったんだと」
僕はしばらく唖然として口も利けなかった。これまでの奇想天外な展開とは裏腹に、最後の一番重要な部分があっという間に終わってしまった。それに、物語の青年は自分ではない、と最初に言っていたではないか。そのことを指摘すると、彼はこう言った。
「だから言っただろう。最初の部分では俺はそのことに気付かなかった。でも一番最後に、彼が生まれ変わったところで気付いたんだ。ああ、これは俺のことだったんだ、と」
「でも君は会社で働いたことなんかないだろう」と僕は指摘した。彼は大学を中退してからというもの、ずっと裕福な親の仕送りで生活していた。
「まあな」と彼は言った。「でも細かいところはいいんだ。何もガチガチのリアリズムだけが真実ってわけじゃない」
僕はそこで黙り込んだ。これがつまり彼の受け取った「啓示」だったというわけだ。確かに一つの物語ではあったが、どちらかというとずいぶん稚拙なもののように感じられた。特に後半部分が、だ。どうして猫がしゃべったり、空を飛んだり、それに月にウサギがいたりするのだ? でもそのとき僕は、テーブルの上にあるものを発見した。それは小さな小瓶に入った黒い液体だった。
「これはもしかして・・・」と僕は言った。
「ああ、これ?」と彼は言った。「これはただの風邪薬だよ。ずっと前にもらって、飲み忘れていたのを引っ張り出してきたんだ。近頃風邪気味だったからさ」。そう言うと彼は、その小瓶を宙に放り投げてはキャッチする、という動作を繰り返し始めた。瓶は天井すれすれの高さにまで上がり、落ちてきた。また上がり、落ちてきた。それを見ていると、僕はなんだか落ち着かない気持ちになった。それで5回目くらいのところで、宙に浮いた小瓶を、自分の手でキャッチした。
「とにかくそれが君の『啓示』だったんだな」と僕はその小瓶を握り締めながら言った。
「そうだ」と彼は言った。「それを全部見終わったあとに、俺は確信したんだ。これは今日実際に起こることだと。つまり今日の午後9時28分に俺は死に、29分に宇宙が死ぬのだと」
「でももしそれが本当なら」と僕は言った。「たとえばNASAなんかがすでに情報をキャッチしているはずじゃないか。太陽が死ぬのは、五十億年前から決まっていたことなんだろう?」
「NASAはきっとすべてを掴んでいるさ」と彼は言った。「だからこそ情報を漏らさないんだ。きっと今ごろ政府の要人なんかは核シェルターの中に逃げ込んでいるんだろう。でもそんなことしても無駄だ。だって宇宙そのものが死ぬんだ。シェルターなんか簡単に融けてしまうだろう」
「どうすれば生き延びられる?」と僕は訊いた。
「さっきの話を聞いただろう」と彼は、さもそれが当然のことであるかのように言った。「一度生まれる前の姿に戻って、また生まれ変わる。それしかない」
「どうやってそれをやるんだ?」と僕は訊いた。
「それを相談するために君を呼んだんじゃないか」と彼は言った。
僕は空のカップを睨みながら考えていた。でももちろんなんにもいい考えは浮かばなかった。
「なにもかも気のせいってことはないのか?」と僕はあらためて訊いた。「君が見たのは全部ただの夢で、太陽は全然死にかけてなんかいなくって、その結果宇宙も死なないとしたら」
「その可能性はある」と彼は認めた。「でもね、はっきりいって宇宙は一度死んだ方がいいんだよ」
「死んだ方がいい?」
「そう」と彼は言った。「死んだ方がいいんだ。一度死んで生まれ変わるのが一番いいんだ」
「でもそれは君の主観的な願いだろう」と僕は言った。「それと実際に宇宙が死ぬかどうかは関係ないんじゃないのか?」
「関係あるさ」と彼は言った。「大いに関係ある」。彼はそこで口をつぐみ、じっと何かを考え込んでいたのだが、それがどのように「関係ある」のかは教えてくれなかった。
「まあなんにせよ」とやがて彼はまた口を開いた「俺は宇宙が死ぬと確信しているし、それを望んでもいる。それはもうほぼ決まっていることだ。俺が君に相談したいのは、どうやって今日の午後9時28分に生まれる前の姿に戻るか、ってことなんだ」
「そんなの分からないよ」と僕は言った。
「大丈夫」と彼は言った。「まだ時間はある」
そのとき時刻は午後3時20分だった。
我々は二人で知恵を出し合ったのだが、結局なんにもいい考えは浮かばなかった。彼は実際にビルから飛び降りることを提案したが、僕がそれを却下した。
「本当に死んでしまうぜ」と僕は言った。
「いい案だと思ったんだけどな」と彼は言った。
1時間半後、結局僕らは疲れ果てて、ただぼおっとベランダにとまったカラスを見つめていた。カラスもまたこちらを見つめていたが、彼が真実を知っているのかどうかは分からなかった。外はもう夕方で、彼にとっての――あるいは我々すべてにとっての――最後の太陽が今落ちようとしていた。
「そうだ」とそこで何かを思いついたように彼が言った。
「なんだ?」と僕は言った。
「あの話の続きを書こう」
「あの話って?」と僕はまだぼんやりした頭で訊いた。
「啓示の物語だ」と彼は言った。
彼は、さっきあまりに簡単に終わってしまった二人の男の最後の場面を、詳しく書き直す必要がある、と言った。彼は台所のテーブルに愛用のマックブックを持ってきて、ワープロソフトを開いた。そして僕を見て言った。
「さあ」
「さあなんだよ」と僕は言った。
「詳しいところを考えてくれ」
「だって君の物語だろう」
「俺たちの物語だ」と彼は言った。「そして俺には文才がない」
「僕にもないね」
「大丈夫」と彼は言って、軽く僕の背中を叩いた。「君ならできる」
そして我々は――というか実質的には僕一人が――薄暮の中、カラスに見つめられて、その「啓示の物語」を書き進めることになった。正確にいえば肉付けをした、という方が近いのだが。
(『啓示 3』に続く)