火曜日の午後九時にドアチャイムが鳴り、急いで玄関を開けてみると、そこにいたのは緑色の男だった。
あるいは正確には「男」ではなかったのかもしれない。なにしろ野菜に性別なんてものは存在しないのだから。
「ミ、ミスターキューカンバー」と私は言った。
「やあ、ミスターヒューマン」と彼は言った。「元気にしてたかい?」
その瞬間、苦楽を共にした修業時代の光景が頭に浮かんできた。そんなこと、ここ数年の間一度もなかったことだ。あの頃は大変だった。我々は夢を追い求める若者であり、活力に満ち溢れてはいたものの、一方で非常に傷つきやすくもあった。私たち二人はいつも一緒で、お互いを励まし合っていた。「今ここでやったことが、いずれ自分の実力となって返ってくるのだ」と。
しかしアカデミーを卒業したあとは、連絡も取らなくなってしまった。お互いがお互いの道を進んでいた、ということもある。でもおそらくはそれだけではない。それは私がかつてのエッジのようなものを失ってしまったことと関係があるのだろう。
ミスターキューカンバーは、見たところ以前とほとんど変わりがなかった。数年を経てもなお、その肌は艶があったし、チクチクする刺も相変わらずだった。しかしその一方で私はどうなってしまったんだろう? 今では中小企業に勤める一介のサラリーマンだ。営業をやって、事務処理をこなす。それだけで一日が終わってしまう・・・。
「なんだか元気なさそうじゃないか」と彼は言った。
「いや、ちょっと疲れていてね」と私は言い、かつての友人を部屋の中に招待した。彼は革靴を脱ぎ(ちなみに彼は高級そうなブランド物のスーツを着ていた)、行儀よく帽子を脱ぐと、私の狭い部屋の中へと足を踏み入れた。
私はグラスに一杯水を注ぎ、彼のところへと持って行った(彼は酒は飲まない)。緑色の友人がそれを美味そうに飲むのを見ながら、私は額の奥に、ある奇妙な感覚を感じ取っていた。何かがここで疼いている、という感じ。一体なんだろう・・・。
ミスターキューカンバーは、半ばにこにこしながらそれを見ていた。彼が今日ここに来たからには、きっとそれなりの理由があるのだろう、ということは容易に想像できた。しかし私にはそれが具体的に何なのかが分からない。この数年、社会に順応して生きてきたせいだ。そのせいでかつての夢や希望を忘れ去ってしまったのだ・・・。
「そろそろ気付きましたか?」と彼は言った。
でも私には分からなかった。今私の頭に浮かんでいるのは、一人の大柄な女性、つまりミスヒポポタマスの姿だけだった・・・。
「ねえ、ミスヒポポタマスはそこに関係しているのかな?」と私は言った。
でもその瞬間、玄関の戸がバタンと開いて、誰かが侵入してきた。変だな、と私は思う。だってさっきミスターキューカンバーが入ったあと、しっかりとこの手で鍵を閉めたのだ。それなのにどうして入って来られたんだろう?
でもその答えは簡単だった。というのもそこにやって来たのは、ミスターエアーだったからだ。ミスターエアーは空気圧力的ななんたらかんたらで、いとも簡単にロックを外し、この部屋に入って来たのだった。
「ミスターエアー」と私は言った。「久しぶりじゃないか」
「よお」とミスターエアーは言った。「どうだい君たち。楽しくやっているかい?」
そこで私はようやく思い出したのだが、ミスターエアーと私たち二人は一種のライバル関係にあったのだった。我々はアカデミーの中でもトップクラスの成績だった。彼が一番でなければ、私たちのうちのどちらかが一番だった。そういう風にして、あの頃の日々を切磋琢磨して生き延びていたのだ。
「彼は今何かを思い出そうとしていたのです」とそこでミスターキューカンバーが言った。
私は必死でそれを思い出そうとしていた。ミスターエアーは姿こそ見えないものの、おそらくは腕組み――かそれに類する行為をして――私をじっと見守っているようだった。私はなんとしてもそれを思い出さなければならない、と思った。そうしないと、大事な何かが人生から抜け落ちてしまう・・・。
と、そのとき、またドアがバタンと鳴った。今度は何がやって来たのだろう、と私は思う。キュウリと空気、その次は何なんだ? でもそのときにやって来たのは、形を持たないものだった。もちろんミスターエアーだって形を持たないのだが、彼はきちんとしたパーソナリティーを持っている。私はそれを知っている。でもそこにいたのは、もっと別の種類のものだった。本来見てはいけないものだ。
私は今両目を開けてそれと相対していた。「ねえ、これはどういうことなんだ?」と二人に向かって言ったが、今では二人ともどこかに姿を消していた。キュウリも空気も、私の部屋からいつの間にかいなくなってしまっていたのだ。私は――疲れたサラリーマンとしての私は――為す術もなく、それと向き合わざるを得なかった。これはある意味では私が最も避けていたことであり、同時に最も求めていたことでもあった。
(中略:その間に何があったのかをあなたに伝えることはできない。なぜならそれは言語以前の場所で起こったことだったからだ)
やがていくつかの夢が死んだことを知った。それは粉々に破壊され、二度と戻っては来なかった。私の狭い部屋は夢の墓場と化した。そしてそこにいながらもなお、私は生きていた。私は呼吸を続け――意味のない呼吸だ――かつてミスターキューカンバーが自分に言ったことを思い出していた。彼はこう言ったのだ。「私たちは善にも悪にもなることができる」と。
だとすると、今私はどちらの側にいるのだろう、と私は思った。でもそんなことはどれだけ考えたところでよく分からなかった。そもそも自分が何なのかすら分からないのだから、それはまあ当然のことだった。ミスターエアーが友達(あるいは親戚)を引き連れていなくなってしまったせいで、部屋の空気はひどく薄くなっていた。私の頭には相変わらずミスヒポポタマスの大きな口の中の映像が浮かんでいた。なんにせよ、彼女は巨大な女性だった・・・。
やがてどこかでカチンという音がして、私は時が来たことを知った。ゆっくりと目を開けると、そこにあったのは不思議な光景だった。私は一瞬夢を見ているのかと思ったが、それは夢ではなかった。本能的にそれが分かった。私は一度深呼吸をし、そして頭に手をやった。そこにあったのは空っぽになった脳みそだった。キュウリも空気も、今ではどこかに消えていた。私は自分がスタート地点に立ったことを知った。ここから何かが始まるのだ、と思った。
「いずれにせよ、これはひどく孤独な気分だ」と私は言った。密かに返事を期待してのものだったが、誰一人周囲にはいないみたいだった。
「空を飛んでみたい」と私は試しに言ってみたが、それにも返事はなかった。
「くそったれ」と私は言ったが、それにも返事はなかった。
目を閉じると、広い海の光景が浮かんできた。灰色の、なにもかもを呑み込んでしまう、容赦のない海。そのまま眠ろうとしたが、どれだけ頑張っても眠ることはできなかった。というのも今まで眠り過ぎるほど眠ってきたからである。
仕方なく呼吸を続けていると、そこに一つのリズムが生まれていることに気付いた。ミスターリズム。君は一体どこからやって来たのか。吸って、吐く。また吸って、吐く。私はここにいて、生き始めようとしている。どうしてかは分からないけれど、そうなってしまったのだ。吸って、吐く。吸って、また吐く。私は孤独だが、少なくとも一人ではない。吸って、吐く。吸って、また吐く・・・。