「いかがですかぁぁ・・・心配の種いかがですかぁぁ・・・。新鮮な心配の種ですよぉぉ・・・。メキシコから直輸入ぅぅ・・・。無農薬で味も抜群。いかがですかぁぁ・・・」
その不思議な売り子の声を聞いたのはある街を散歩しているときだった。良く晴れた気持ちの良い三月の日曜日だった。長かった冬が終わり、ようやく春がやって来るのだ、というわくわくとした予感に、あたりは満ちていた。
その細身の男は手押し車のようなものを引きながら、ゆっくりと歩道を歩いていた。手押し車の側面には、「心配の種売ります!」という宣伝文句が書かれていた。男は帽子を目深にかぶり、不精髭を生やしていたが、不思議と怪しい感じはしなかった。それはたぶん彼の存在感というものが希薄だったからなのだと思う。一種の黒子のような、背景的存在。あるいはそんなのはただの振りに過ぎないのかもしれないが。
いずれにせよその声はよく通った。僕はちょっと気になって、その心配の種とやらを覗いてみることにした。もちろん買おうと思ったわけではない。そんなものわざわざ金を出してまで買うようなものではない。なにしろ自前の心配の種だけでそれこそ山ほどあるのだから。
メキシコから直輸入されたというその種は、一見かぼちゃの種のように見えた。緑色で、両方の先端が尖っている。ほかにもひまわりの種に似たものや、アボガドの種に似た大きなものもあった。男は奥の方にあった、カバーのかかった壺の中身も見せてくれたのだが、そこにはさらに様々な種類の心配の種が詰められていた。
「これはジャマイカ産。んで、こっちはアゼルバイジャン産。ええと、これはどこだったかな。たしか三重県の・・・」
と、そこで突然背後から一人の中年の男が割り込んできた。ものすごく焦っている様子で、どうやら見たところこの商品のヘビーユーザーであるようだった。
「ああ心配だ心配だ」と彼は言っていた。そしてそう言いながらもなお、ポケットから何かの種を取り出してポリポリと齧っていた。「ああ心配だ心配だ。もう心配で心配で死にそうだ」
「何がそんなに心配なのですか?」と僕は気になって訊いてみた。
「何って、あらゆることですよ」と彼はその薄くなった頭髪を振り乱しながら言った。ちなみに彼はスーツ姿で、見たところごく普通のサラリーマンといった感じだった。ものすごく心配しているほかは。
「まずグローバルウォーミングがあります。地球温暖化ですね。一体いつ日本列島が水没するとも限らない。まずそれが心配なのです。そのために今は週に一回スイミングスクールに通っています。でもなかなか息継ぎができんのです。それもまた心配。ああ。あとは六十三年後にですね、私のひ孫が就職できないんじゃないかとそれも心配なのです。そのために今のところ投資をしているのですが、その利益だっていつまで残るか・・・。ああ、心配だ心配だ。もしかしたら再来年の日本シリーズでヤクルトスワローズが優勝するかもしれない。そうしたらどうなります? 私が応援している広島カープが下位に沈むかもしれない。ああ心配だ心配だ。明日会社に行ったらみんなに悪口を言われるかもしれない。というのも先手を打って今日悪口を言っておいたからです。自分からですな。ああ心配だ心配だ。もしかしたら今年の年末に宝くじが当たるかもしれない。そうしたらきっと親戚たちがたかりに来ますよ。仕事だってきっとやる気を失くしちゃうでしょうね。そのあとはたぶん暇で暇で酒ばかり飲んで、アルコール中毒になるに違いない。ああ心配だ心配だ。あ! ほら、その三歩ばかり進んだところ。コンクリートに裂け目ができている。ああ、あそこに引っかかって転んだらどうしよう。きっとみんなに笑われるぞ。いい年をしてあのおやじ転んでやがる、とかなんとかね。髪の毛が薄いことも馬鹿にされるだろうな・・・。あ! そうか! いいことを思い付いたぞ。今ここで転んでしまえばいいんだ! そうすれば事前に危険を取り除くことになる。ほら! 見ていてくださいよ! 今転びますからね!」
彼はそう言うと、実際にその裂け目に足を引っ掛けて派手に転んだ。彼の思惑は外れ、道を歩いていた人々は警戒して遠くに離れただけで、誰も笑わなかった。でもそんなことは彼にはどうでもいいみたいだった。パンパン、と土埃を払ったあとで、また僕のところに戻ってきた。その表情は晴れやかだった。
「ああ、良い気分だ。これで心配の種を一つ潰したぞ。これでもう転ぶことはあるまい。だってですね? まったく同じ場所で転ぶ可能性なんて一体何パーセントだと思いますか? きっとものすごく低いに違いない。ということは私はもうこの裂け目について考えなくてもいい、ということになります。ああよかった。精神が一歩自由に近づいたわけだ」
「お客さん、また良い物が入りましたよ」とそこで売り子の男が言った。
「今度はどこだい? この間のマダガスカルのやつは上物だったね。妻と子どもにもあげようかと思ったんだが、結局もったいなくて全部自分で食べてしまったんだよ」
「それはそれは」
「でもたまに彼らは私のことをすごく変な目で見るんだよな。なんかどうしてそんなに心配ばかりしているのかって具合にね。でも私にはよく分からないんだ。こんなに危険に満ちて、予測不可能な世界に我々は住んでいるんですよ。心配しない方がおかしいじゃないですか? ねえ?」
最後の「ねえ」は僕に向けて発せられたみたいだった。「まあ」ととりあえず同意はしたが、そのあとにこう訊ねないわけにはいかなかった。
「ねえ、あなたはどうしてそんなに心配性なのに、わざわざまた心配の種を買いにきたんですか? 切りがないでしょう?」
「でもね」とにやりと笑って彼は言った。「これがなかなか癖になる味なんですな。あなたも一粒どうですか? 私がおごりますよ」
「いや、僕は大丈夫です」と僕は言った。「だって自前の心配事でいっぱいいっぱいですからね」
「そうか・・・」と残念そうに彼は言った。でもすぐに僕のことなんか忘れて、別のことを心配し出した。
「ああ心配だ心配だ・・・。たしか明日の降水確率は三十パーセントだったはずだ。傘を持っていくべきか持っていかないべきか・・・。もし持っていって雨が降らなかったら、それってすごく間抜けじゃないですか? でももし降ったら・・・。ブルブル。それは恐怖だ。風邪をひいて、それをこじらせて、最終的には死んでしまうかもしれない! そうだ! 死だ! まったく恐ろしい。そう思うと今すぐにでもロシアとアメリカが核戦争を始めないとも限らないぞ。いやあ、心配すべきことはそれこそいくらでもあるなあ・・・」
「それで、どうします? お客さん。今度はこのシエラレオネ産のやつとか」
「うん、なかなか良い香りだな。どれ、一つ試してみようかな・・・」
僕は適当なところで切り上げて、その場をあとにした。不思議なことに、例の中年男のほかにも何人か客が来ているようだった。人々は意外にも心配の種が好きなのだ。僕は歩きながら、自分自身の心配事について考えを巡らせていた。そもそもそのために長い散歩に出たのだ。でも雲ひとつない青空の下、ぽかぽかとする太陽の光を浴びていると、だんだんそんなこともどうでもよくなってきた。せっかくこうして生きているんだもの。あんまり心配ばかりしていたって仕方がないじゃないか、と思った。
ということで鼻唄を歌って、スーパーで果物を買って、アパートに戻ってきた。好きな音楽を聴いて、好きな本を読んだ。明日雨が降らなければいいんだけどな、と僕は思った。