さて、ということで――どういうことなんだ、と言われそうですが、とにかく――ようやく三十歳になりました。ようやくというか、ついにというか、いよいよというか、なんというか・・・。いずれにせよ複雑な気分です。二十歳のときのように「やったぞ、これで大人の仲間入りだ」という風に純粋に諸手を挙げて喜べるわけではありません。
というのもまあ、当初の予測によれば――それがほとんど根拠のないものだったことがやがて明らかになるわけですが――こちらに――つまり東京の外れに――来て、数年後には、職業的作家になっているだろう、と――楽観的にも――思っていたということがあります。それが五年半経った今でもなかなか芽が出ずにいる。それはまあ、考えてみれば、多少きつい状況だ、と言えないこともありません。三十歳にもなれば(ごく普通に就職していれば、ということですが)、それなりに仕事も覚えて、あるいはそろそろ結婚でもしようか、という頃だと思うからです。しかしまあそれはあくまで外面的なことで、一人の人間の内面にフォーカスを当ててみれば、みんなさほど立派なわけでもなかろう、というのが僕の――勝手な――意見です。一人の人間が――欠陥や歪みのある一人の生身の人間が――様々な経験をして、歳を重ねていく、というのは、本来そんなにスムーズに進んでいくものではないはずだからです。一見そう見えたにしても、中ではいろんな感情が渦巻いています。僕にはそれが分かりますし、おそらくみなさんだって同じだと思います。要するに誰だって紆余曲折を経て――あるいは試行錯誤を経て――次第に大人になっていくのだ、ということです。
もちろん、それは分かります。三十歳。まったく。それは一つの里程標であるような気もします。一本の長い道が続いてきて、脇に表札が立っている。「ようやくここまで来たね。ご苦労さま。でもここから先は、今までとは違ったルールの下に進んでいかなくてはならない。価値観というものが変わってくるんだ。君が何を得られるのかは、君が何を差し出すのかによって変わってくる。さて、どういう道を用意しようかな・・・。いいかい? 一つ言えるのは、見た目だけに騙されちゃいけない、ってことだ。ものごとの形式だけに捉われるのは、二十代の間だけにしといたほうがいいと思うね。これは老婆心から言うんだがね・・・」
僕にとっての三十歳の表札は、まあそんなことを言っています。そしてその先に二つの道が分かれている。一つはごく普通の道。「ごく普通」とそこには書いてある。ごく普通に生きて、ごく普通のことを考えて、ごく普通に死んでいきます。あくまで見た目においては、ということですが。もう一つの道は――進んでいくと階段状になっていて、だんだん地下に下りていきます。地面に縦長の穴が掘られているんです。やがてトンネルのようなところに入り・・・。要するに先が見えない。明りすらない。何だここは、と僕は思う。そしてあたりを見回す。以前には自分を導いてくれるような気がしたものが、ここでは何の役にも立たない。死があたりを覆っているのが分かる。僕は息を吸い込む。肺一杯に、死の粒子が充満する。誰かを呼ぶ。でも前方には、誰もいない。後方になら誰かはいるが、それは彼らの記憶である。記憶は発展を止めている。僕は後ろに戻ることはできない・・・。
とまあこんな感じで、僕は否応なく後者の道を選ばざるを得ない状況にいるみたいです。なんか偉そうなことを言っているみたいですが、まあそれが事実なのだから仕方がない。結局僕がこれまでずっと――悪戦苦闘しながら――なんとか保ってきた姿勢、というのは、つまるところ「出口を閉じない」ということだったのだと思います。意識の出口。物語の出口・・・。別に就職するのが悪なのではなくて――一時期そう思っていたことは認めますが・・・――「これでいいのだ」と決めつけてしまうのが悪なのだと思います。発展を止めてしまうこと。そういう観点で言うと、三十歳だろうと二十歳だろうと、状況にさほど変わりはないのかもしれません。四十歳でも五十歳でも一緒です。人間の意識は、前進を止めたら、だんだん淀んできます。淀むと、フラストレーションが溜まります。そして生きている意味がなくなってくる・・・。
もっとも数年前までの僕には明らかにまだ経験が足りなくて――まあなんにも知らなかったわけですからね――プラス、自分を信じることもできなかった。そんな人間にまともな作品が書けるわけがないんです。でもだからこそ、一日一日を、きちんと積み重ねようと――そしてその中でかろうじて前進していこうと――自分に言い聞かせて生きてきたわけです。結果は出ずとも(お金が欲しい、賞が欲しいというのは正直なところですが、はい・・・)、少なくとも自分自身を鍛えていくことはできるだろう、と。その結果、あるいは三十歳くらいには、どこかに行き着くことができるかもしれない。自分自身の人生を生きるためのスタート地点のような場所に・・・。なんとかそう思って生きてきました。
さて、それであらためて数日前に三十歳を迎えた自分の立ち位置を確認してみると・・・まあ外見的にはほとんどなんにもなしのようなものです。金のないアルバイト。小説を書いている(ほとんど誰も読まない)。サラダを食べて、よく川沿いをランニングしている。古い音楽を好んで聴いている・・・。しかし一方で自分個人のラインということで見ると、やはりそこには発展があります。というかまあ自分では少なくともそう思い込んでいます。でも人間が変わるってそういうことじゃないかと思うんです。一気に、一日で、急激な変貌を遂げる、というのはほとんどあり得ないことのような気がする。それよりも行ったり来たりしながら、自分のルールを曲げたり曲げなかったりしながら、あるいは傷ついたり、そこからなんとか復活したりしながら、結果的に、ほんの少し「前進したかな」と実感する、というのが正直なところではないかと思います。まあ要するにそのようにして、僕はなんとか生き延びてきました。
そして今周囲を見回してみるに、どうやら三十歳前後で「システム交換」を本気で終えるかどうか、というのがだいぶ人間にとって重要だ、という気がしてなりません。まあ実際には同い年くらいの知り合いなんて宮田氏くらいしかいないのですが(同級生たちとはほとんど連絡を取っていない)、どうもまわりを見てみるに、そういう気がしてならないのです。つまりプライオリティーを目に見えるものに置くのか、それとも目に見えないものに置くのか、という違いです。まあ何度も自分には同じことを言い聞かせてはきたのですが、あらためて、そう感じている次第であります。お前はある意味では闇の領域に下りていかなくてはならないのだぞ、と。そうしないと自分自身を納得させることができないのだぞ、と。なぜかは知らないが、生まれつきそうできてしまっているのだ、と。
そう、結局のところ問題は――僕にとっての問題は、ということですが――僕は自分自身を騙し続けることはできないのだ、ということです。他人を騙すことはできても、自分の心の奥の、一種の空虚さは、具体的な努力によってしか埋めることはできません。それはたとえ文学賞を取って、大金を手にしたとしても同じことです。他人の評価なんてすぐに消えていきます。儚いものです。春の夜の夢のようなものです。ドンキーコングの手の中のバナナのようなものです。すぐに消えてなくなるのです。あとに残るのは空虚な心のみです。僕はできることならば、そういう状況には陥りたくない(バナナには同情します。はい・・・)。
おそらくは二つの重要な視点があります。一つが肉体的なもの。もう一つが精神的なものです。肉体を維持する、少なくとも可能な限り快適な状態に保つ、というのは、おそらくはごく普通の欲求です。我々は生き延びるために食べるし、服を着るし、寝るし、そういった状態を保つために働きます。賃金を得るためです。地上での生活。うん。もちろんそれに文句を言う筋合いは僕にはありません。生き延びるために生きて何が悪い? それが楽しいんだ。いちいちうるさいこと言うな。ただの作家志望だろう、お前は? はい。ごめんなさい。その通りです。ドンキーコングさん・・・。
しかし一方で、肉体的生存とはまた違った、精神的な視点というものがあります。僕がフォーカスしたいのはむしろこちらの方です。肉体はそれ自体の熱量によって――あるいは本能によって――生き続けようと欲しますが、意識の方はまたちょっと違っているのではないか、と僕は思うのです。これには別に根拠があるわけでもないのですが、なんとなく、直感的に思うのです。そしてまあ、歴史的な例証もある(「人はパンのみにて生きるものにあらず」とそういえばキリストも言っていますしね)。しかしまあ、僕のことに話を戻しましょう。ただ生き延びているだけでは足りない、と僕の中の何かが声高に主張しているのです。それは二十歳を過ぎたあたりから、ずっと聞こえている声であります。便所にいるときも、シャワーを浴びているときも、バイトをしているときも、鼻唄を歌っているときも・・・まあずっと僕の心の奥の深いところでその声は反響しています。僕はそれを感じ取ってきたし、そのためにまあ、こうして執拗に自分の文章を書き続けてきたわけです。当時は何のことなのか自分でもよく分かってはいなかったのですが――当時分かっていたのはただ「出口を閉じたらおしまいだ」ということだけでした。それで就職を拒否したのです。はい・・・――いずれにせよ、精神には精神にとっての出口が必要なのだ、ということだったのだと思います。一つの肉体的な存在としてだけ見れば、そんなことは特に必要のないことのように思えます。ホモ・サピエンス。霊長目ヒト科。二足歩行をして、五本の指を持っている。雑食性。集団で過ごすことを好む。オスとメスがいる・・・。
そのような生物が、自らの生存のために、そしてDNAを残すために生き続ける。犬や、猫と同じです。純粋に生物学的に言えば、まあさほど疑問の入り込む余地はない。生きるために生きる。それの何が悪い? そして生きるという行為を少しでも快適なものにするために、様々な科学技術が発展してきたわけです。そしてある意味ではその先端に我々がいる。百年前と比べても、かなり質の良い暮らしを送っていると――純粋に衣食住のレベルで見れば、ということですが――僕は確信しています。当時良い暮らしをしていたのはおそらくは社会の上層の、ごく一部の人たちだけだったでしょうから。それももちろんたくさんの使用人たちの助けがあってこそ、だったはずです。
一方その中で、単なる労働力、というだけでは収まらない領域も、人間の中には存在します。僕の中で声を上げていたのは、おそらく――というか確実に――その部分です。学校教育においては、おそらくは基本的に社会に有用な人間をつくるということにフォーカスが当てられています。言葉を変えれば「社会」という全体を動かすワンピースということです。都合の良い歯車というわけです。こう言うと批判的に聞こえそうですが、しかしそれだけではありません。だって字を教えてもらえなければ本を読むことも――こうして書くことも――できなかったわけですからね。世界についての基本的な事実も知ることができなかった。だから悪いことばかりではありません。もちろん。そして我々がこの先何年も生きていくためには、やはり――基本的には――働いて、稼がなければならない、ということがあります。なにを今さら当たり前のことを、と言われそうですが、僕は本当にそう思っているのです。まあ学校教育がそういった――つまりかなり実質的な――側面ばかりを見るのも無理もないな、と。だってみんなが働くのを拒否したら、社会が動かなくなってしまうし、そもそも本人のためにだってならないからです。やはりなんとか身体を動かして、自分で自分の食扶持を稼ぐことによって初めて、一人の独立した人間として扱われる(他人にとっても、自分自身にとっても)、というところがあるからです。それはつまるところこの数年間で、僕自身がひしひしと感じ取ってきたことでもあります。
一方でそんなのは全部手段に過ぎないじゃないか、という視点もあります。それが僕の言う精神の視点です。肉体の維持は、あくまで精神の側から見れば、ただの手段に過ぎないのです。多くの人が肉体の維持そのものを善だと考えていることは分かります。だって目に見えるし、死ぬのは怖いからです(僕も一緒です。すごく怖い)。不快であるよりは、快適である方がずっとましだからです。一人ぼっちで生きるよりは、仲間がいた方がいい。リスクを負うより、むしろリスクを負わない方がいいじゃないか? どうしてわざわざそんなことをする? もしかしたら一生アルバイトのままかもしれないぜ? だったらとっとと就職した方がましじゃないか? 車も買えるぜ? そのうち結婚だってできるかもしれない。なあ、そろそろ大人になりなよ。いつまでも夢を見ていないでさ。君には無理なんだよ。現実を見て、堅実に生きていくのが一番さ。ほら、みんなそうやっているじゃないか。本当の幸せってのはそこにしかないものなんだよ。云々かんぬん・・・。
それはよく分かる、というのが僕の意見です。痛いほどよく分かる(どこが痛いのかは分かりませんが、とにかく)。しかし、にもかかわらず、僕の中の何かが執拗にノーを叫んでいるのです。それは僕のおそらくはかなり本質に近い部分です。自分ですら深すぎてよく見えない部分です。それでも確実に存在していることを知っています。そして無視する――無視し続ける――ことのできないことも・・・。
それがおそらくは「心」の部分なのでしょう。僕らは一方では社会の歯車でありながら、他方では生身の人間であります。例外なくそうです。反抗している人は「反抗している」というシステムの中に、知らぬ間に絡め取られています。その本質は「自由を欠いている」ということであり、その原因は「物語が閉じられている」ということです。個人的な物語です。それをあえて開いていくのが僕の役目になっていくのではないか、とひしひしと感じ取っている今日この頃です。
しかしどうして我々はこうもオリジナルな道を進むのを嫌うのだろう、と思うことが多々あります。それは他人を見てもそうだし、自分自身に関してもまさにそう思います。ついキョロキョロとあたりを見回してしまう。未来ではなく、過去を踏襲しようとする。今ここにフォーカスを当てることができない。いつもどこか遠いところを見ている。何かのために。誰かのために。何か大きなことをしよう。誰かに嫌われないようにしよう・・・。でも全部地上のことなのです。そして地上のことは死んだら消えていきます。少なくとも自分自身にとっては、ということではありますが。僕はそのことを薄々感じ取っていたし、あるいはだからこそ、いつも逃げようとしていたのかもしれません。どうして俺はそんな道に進まなくちゃならないんだ、と。どうしてみんなと同じように、ニコニコと、日々を過ごすことができないのだ、と。どうして俺だけ泥沼を転げ回っていなくちゃならないのか、と。
要するにそれだけ自由になるのは怖い、ということなのだと思います。僕は二十歳くらいの頃から、かなり暗い想念に取り憑かれていたけれど――ほとんど死そのものに取り憑かれていたと言っても過言ではなかったと思う――その原因は、たぶん恐怖心です。自分一人になることへの恐怖。暖かい家族のもとを離れることの恐怖(うちの場合むしろ居心地が良過ぎたのかもしれない・・・)。働かなければならないことの恐怖。周囲のつまらない――ように見えた――人々と同じになってしまうんじゃないか、という恐怖。にもかかわらず、具体的な行動に移ることのできない臆病さ・・・。
言うまでもなくすべての人間は今を生きています。今を生きざるを得ないのです。しかし、にもかかわらず、学校教育を始め、そこから目を逸らすことばかりが推奨されている。なぜならそうすれば肉体的生存はより容易になるからです。純粋に科学的な観点に立てば、リスクを冒す必要などないのです。安全な場所で、安全なことをしていればいい。そして食べて、寝て、子孫を残すのに必要な金を稼げればいい。もちろん税金は収めてくださいね。そうしないと国が成り立っていかないのだから・・・。もっとも国だって、社会だって、生身の人間の集まりでしかないはずです。その存在目的はそもそも何なんでしょう? 単純に生存し続けること? 本当にそうだろうか? 本当は国こそが、我々の真の幸福のために存在するべきなのではないか・・・?
戦争が起こる場合、往々にしてその順位が逆転しています。システムが個人に先行しているのです。一人の幸福よりも、全体の幸福、というわけです。たしかにそうです。二は一よりも大きいからです。それはもう確実な事実です。百は一の百倍です。一億は一の一億倍です。もう誰にも文句を言うことはできない。
しかし一人の人間の魂の自由、という観点に立つと、ものごとはそう単純ではなくなってくるはずです。魂の自由。僕は実は歴史上のすべての芸術家がそれを求めていたと信じているのですが、要するに目に見えない心の深い動きということです。今を生きる熱量のようなものです。他人には決して与えられない種類のものです。人間は――人間の意識は――本当はずっとそれを求めていたのではなかったか? 数字で計れるものは全部その手段です。食べ物も、GDPも。肉体的健康も。気持ちの良いマットレスも(そんなもの持っていませんが・・・)。
僕らはもちろんそのことを心のどこかでは薄々感じ取っているのだと思う。だからこそ社会には「コモンセンス」みたいなものが働いているのだと思います。だからこそ僕らはコミュニケーションを取ることができるのだと思う。もしそうでなかったとしたら・・・社会はさすがに成り立っていかないと思う。単なる機械たちの集団になってしまいます(ゴダールの映画『アルファヴィル』を思い出す・・・)。
僕が周囲の人々を観察して混乱してしまったのはそういうところにも原因があります。俺はどうしてもこいつらみたいにはなりたくないぜ、と思う部分も確実にある(生意気ですね。はい・・・)。一方ですごく自然で、好感の持てる部分もある(要するにその人の生来の、歪められていない部分です。イノセンスというか)。退屈な部分と、面白い部分。傲慢な部分と、謙虚な――というかナチュラルな――部分。その二つが境目が分からないくらいに、混ざり合っているのです。そしてときによってどちらかが優勢になる。それはなかなか見ていて不思議な光景でした。そしてもちろん――当時はあまり気付いてはいませんでしたが――同じような動くシステムが、この僕自身にも働いているのです。参ったな・・・。こりゃ。
しかし真の問題はほとんどの人々がその先に進もうとしない、というところにあるのだと思います。意識というものを我々は持っている。その主要な役割は、世界の在り方を細かく理解することにある、と僕は考えています。それはもちろん問題はない。僕らが自然にやっていることです。しかし、どこかで壁にぶち当たる。これ以上論理的な思考だけでは進むことのできない、というポイントが必ずやって来るのです。僕らは途方に暮れる。そこでほとんどの人は用意されたフォーマットを身に付けることで、その不安を紛らわせようとします。要するに自分から、オリジナルになることを、放棄するのです。それはなかなか悪くない状態をもたらします。なぜなら例はそこら中にあるのだし、少なくとも基本的な形さえ押さえておけば、誰にも非難されないからです。そして肉体的にはいつまでも――というわけにはいきませんが、まあ運が良ければ八十代くらいまでは――生き延びることができる。現代では医療も発達しています。面白い娯楽もあるし、まあ仕事は退屈だけれど、それに関しては今さら文句を言ったって始まらないじゃないか? みんな働かなくちゃならないのさ。社会のためにも、家族のためにも。そして自分自身のためにも・・・。
オーケー。あなたは正しい。ものすごく正しい。でも問題は、その正しさの出口が塞がれているということなんだ。いいですか? あなたは――僕は――今を生きている。それはつまり未来は予測不可能だ、ということを意味します。あなたが今信奉しているルールが明日も――もっと言えば一秒後も――まだ機能しているなんて保証は、本当はどこにもないはずなんです。そしてもっと重要な事実。あなたはいつか死ぬんです。そうなったときに、そんな固定されたルールが何だというんです? 国が何だというんです。家族が何だというんです? 世界が終わるんですよ。今は今しかないんです。そしてあなたは今を生きているんです。
もちろんこれは自分自身に対して言い聞かせていることでもあります。なぜなら僕自身怖いからです。僕が今まで有効に機能する文体を得ることができなかったのも(まあ今でもそうかもしれませんが、ベストを尽くすしかない。とりあえず今の)、その恐怖心が原因です。だからこそ先行する作家のスタイルを借りることによってしか、自分の想念を伝えることができなかったのです(経験が足りなかった、ということももちろんある)。でも徐々に変わりつつある、という実感がたしかにあります。毎日毎日アルバイト生活を送っていたことが、ここに来て役に立ち始めているのです。結果はまだ出ていないけれど、まあそろそろ出るでしょう(という希望的観測)。いずれにせよ。どこかに進んでいるのだ、という感覚が僕を励ましてくれています。そうだ、それでいいんだ、と言われているような気分になります。そのようにして一歩一歩、一日一日、かろうじて自由に近づいていくこと。それ以外本当にはできることはないのではないか? それこそが三十歳になった僕の、真のプライオリティーというものではないのか?
まあ告白してしまえば――「告白」というとちょっとドキッとしますね。しないか。まあ、とりあえず・・・――僕は自分の周囲の同年代の人間たちよりは、何かを――何か真実に近いものを――見ようとしてきた、という自負のようなものがあります。外見的に見ればただのコンビニ店員ですが、中身はちょっと違うんだぜ、と心のどこかでは思い続けています。というかだからこそ、こうしてかろうじて正気を保って生きていられるのでしょう。
何度も言いますが、僕が求めてきたのはたぶん形のないものです。そしてその「たぶん形のないもの」を実はみんなも心の底では求めているのではないか、という実感をひしひしと感じ取っています。しかしその実感を具体的な形にするまでは至っていない。なぜなら真実を認識することは、それなりの責任を伴うからです。一度見て、はい、分かりました、と言って、元いた場所に戻って、のうのうと生き続ける、というわけにはいかないのです。何かを理解したら、先に進まなければいけません。そのようにして、意識は――透明な意識は――どこかに向けて発展していくのだと僕は信じています。まあだからこそ、僕は理解することのできない人は放っておいて、黙々ともっと自分のやるべきことに集中するべきなのかもしれない。理解や、共感というものにも、やはりレベルがあるからです。浅いものはすぐに得られるけれど、やがて跡形もなく消えていきます。真の必然性というものがないからです。一方で深いものはなかなか得られません。それに得られたところで、こっちにはすぐには伝わってこないかもしれない。しかしそれでもなお、僕は文章を通したコミュニケーションというものを信じていきたい。というかそこにしか、自分の救いはないような気がするのです。
要するに問題はそこです。すごく個人的なレベルの話になってしまうのですが、それでもなお、僕は今まで自分をごまかして生きてきたのだと思います。表面的には笑っていても――まあバイト中も下らないことばかり言っているのですが(だってつまらないのだもの。真面目になり過ぎると・・・)――心の本質的な部分では、死を恐れ、自由になることに怯え、どうせなにもかも無駄なんだ、とか思っています。こいつらはみんな死ぬんだ、と。そしてそれは自分もまた例外ではないんだ、と。こんな行動に何の意味がある? 百年後にはみんな土の中だ。あるいは生きていたとしても、耄碌しているだけさ。肉体的に生き延びているだけだ。こんなことに何の意味がある? 生きることに何の意味がある?
僕はその本質的な――要するに正直な――声を無視するのではなくて、思い切ってこの手に取り上げてあげなければならなかったのだと思う。まだまだ力不足だけれど、それでもトライしないところには、成長もありません。なんだかスポーツみたいだけれど、でも本当にそう思います。トライアル・アンド・エラー。そして微調整があり、再び挑戦が始まります。そのようにして結果的に、どこかに進んでいくことができるかもしれない・・・。
まあ三十歳になって、要するにこんなことを考えています、ということです。もちろん大したことではないけれど、少なくとも自分にとっては大事なことです。僕はおそらくは十年かけて、プライオリティーを少しずつ少しずつ目に見えない領域に押し下げていったのです。その結果ほんの少し、個性の源泉に近づくことができた。でもまだまだです。僕はここから僕自身のスタイルというものを作り上げていかなくてはならないのだから。それはもちろん文体というだけではなくて、むしろ生き方の領域においてです。どのように生きるのか? そもそも生き延びることに意味はあるのか? 単にフィクションの中に留まって、夢を見ているだけでいいのか? 本当にそうやって一生を終えていいのか? それともこの不確かな――それもかなり退屈な――日常生活の中で、一つ一つ、ほんの小さなことでいいから、何かを積み上げていくのか? もう子どもじゃないんだ、と僕の中の何かが言っています。まわりに文句を言うのはもう終わりだ。彼らだって生身の人間なんだ。君はそろそろその事実を認めなくてはならない。しかし一方で、君自身はその弱さに負けてはいけない。少なくとも克服しようという努力をやめてはいけない。なぜならその先にしか本当の救いは存在しないからだ。いくら金があったとしても、いくら他人に褒められたとしても、永遠に救われないんだ。そんなものは地上のものに過ぎないからだ。いいか? 黙って自分のことをやるんだよ。やり続けるんだよ。イチローみたいにさ。小さなことの積み重ねだけが、君をどこかに運んでくれる。その先で、君はもっと自由になれるかもしれない・・・。
かもしれない。そう、その「かもしれない」だけが、かろうじて僕をこの世に生かしている希望なのだと思います。客観的に見れば、一人の男が三十歳になった。ただそれだけのことです。彼は正社員になることを拒否して、いまだにアルバイトを続けている。眠気と闘いながら(そろそろ寝ますが、もちろん・・・)夜な夜な文章を書き続けている。よろしい。それよりも衆議院選挙はどうなった? グローバルウォーミングは? コロナウィルスは? いじめ問題は? 社会にはもっと重要なことがたくさんあるじゃないか? 経済の先行きだって不透明だし・・・。
一方で主観的観点からすれば、僕は確実にどこかに向けて進んでいると思う。その二つの視点がクロスして初めて、立体的な世界認識が可能になるのだと思います。僕らは一つの肉体でありながら、一つの精神でもあります。一つのシステムでありながら、同時に柔らかい魂でもある。どちらか一方だけでは、不十分なのだと思います。そして意識の負うべき責任・・・。
僕はおそらくは意図的に自らを解放していく術を身に付けていかなくてはならないのでしょう。それがこれからの課題です。地上における自らの存在を、ある一つの目的に向けていくこと。それはとことん集中したものでなければならないが、一方で固定されてはいけない。結末はオープンにしなければならないが、責任は自分で取らなければならない。要するに自分自身になる、ということですが・・・それは言うほど簡単ではないです。そのことをこの十年間身に染みて理解してきました。「僕は今日三十になった」と『グレート・ギャッツビー』の語り手であるニック・キャラウェイは言います。「自分に嘘をついてそれを誇りと考えるには、僕は五年ほど歳を取り過ぎている」と。それはまさに今僕が考えていることでもあります。それでは、やることをやります。おやすみなさい。
P.S. この間ものすごく久しぶりに八王子を出て、立川に電車で買い物に行きました。普段電車に乗らないので、それだけでずいぶん疲れてしまった。マスクはみんなしていたけれど、だいぶ人通りは多かったです。結局大型のショッピングモールで鞄と財布を買ったのだけれど――前使っていたのはもう十年以上経って、両方ともボロボロでした・・・。お疲れ様――なんだか象徴的な気もしなくもないな、と思っていました。俺は三十歳になって、こうして容器を買っている。鞄に、財布。立派なものであるに越したことはないけれど、でも結局は容れ物に過ぎない。中身こそが大事なのだ、と。でもそう思うと服も、靴も、下着も、全部容れ物ですね。いや、都市そのものが容れ物だとさえ言えなくもない。僕は田舎から出てきた人間だから高いビルや賑やかな商店街なんかに圧倒されてしまうのだけれど――人の多さにもね――でもこれって全部手段なんだよな、と思う。どれだけオポチュニティー(機会)が多かったとしても、それを味わうことのできるのは、今ここを生きている自分だけである。まあそういう観点で言えば、別に都会に生きている人の方が質の良い暮らしをしているというわけでもないのだろう。それぞれの哀しみがあり、フラストレーションがあり、おそらくは限定された喜びがある。でも自由は? 自由はどこにあるんだ? たぶんその都市の「容れ物性」を、むしろ積極的に受容して活かしていくことが重要になるのではないか、と僕は思っています。鞄は容れ物だし、財布も容れ物です。服も容れ物だし、その下の肉体もまた容れ物です。精神だって容れ物かもしれない。だとすると、その精神を動かしているのは何なんだろう? ドンキーコングだろうか? ドンキーコングがあなたを動かしていない、と、どうして証明できる? そんなの誰にだって不可能じゃないか? ウホウホ・・・。
いや、話が逸れてしまった。ウホウホ・・・じゃなくて、とにかく、いろんな目に見えるものは、ほとんど全部手段なのだ、ということです。三十歳になった――ことになっている――この肉体もまた手段です。それに目的を与えるのは精神の集中した力だけです。少なくとも僕はそう感じるに至りました。この人生そのものは容器で、今そこに何かを流し込んでいる最中なのだ、と。ドロドロドロドロ。あるいはサラサラサラサラ・・・。音楽家や小説家は、そのような役割を担っている人なのではないか、と僕は感じています。形だけしか見ない人の心に、何かを注ぎ込むこと。あるいはその行為を疑似体験させること。そこに本当の意味での深いコミュニケーションが生まれてきます。僕はもう少し、先に進まないといけないみたいですが・・・。
さらなる追記:この間仕事中にBGMで『ムーンリヴァー』が流れていて(オードリー・ヘップバーンが映画『ティファニーで朝食を』で歌っていた曲です。はい・・・)、それに合わせて七十歳過ぎくらいのおじさんが(おじいさんが)、鼻唄を歌っていました。最初はマスクもしているし、僕の空耳かな、と思っていたのですが、一緒にシフトに入っていた子が自分も聞いていたと言っていました。僕らは顔を見合わせて笑った。そのおじさんは何も買わずに帰っていき、その三十分後くらいに(たぶん)奥さんを引き連れて戻って来ました。そのときに何を買ったのかは僕は対応していないから知らない。それでもとても気持ち良さそうに歌っていました。天気が良い、金曜日の午前中でした。別にどうということもないエピソードなのだけれど、なぜか心に残って、少しだけ、僕の身を暖めてくれています。歌を――自然に――歌うという行為には、何か、歪んだところのない、ピュアな喜びのようなものが含まれているような気がします。難しいことは一切抜きにして。
何はともあれお誕生日おめでとうございます。
最近になってようやくバラカンさんのラジオが好きになって、毎回録音して散歩しながら聴いています。この間のライブマジックにもオンラインで参加しました。知らなかった素敵なアーティストたちを知る事ができてなかなか楽しかったです。
バラカンさんのラジオの話ですが、リスナーの方々が自分やパートナーの誕生日だからあの曲をかけてくださいとリクエストすると、バラカンさんがリクエスト曲を流してくれておめでとうございますと言ってくれます。
こんなやり取りが毎回必ずありますが、私はこれが結構好きです。リスナーの年齢層からしても中高年の方のお誕生日が多いですが、いくつになっても誕生日ってちょっと特別でうれしいものなんだなとほっこりと感じられます。
30歳、いい年になると良いですね。
バターナットさん。なにはともあれありがとうございます。とりあえず祝福してくれる方がいる、というだけでもありがたいことですよね。まあ、とにかく。
そういえばたしか二十八くらいの(二十七だったかな・・・いずれにせよ)、誕生日のすぐあとに、ピーター・バラカンさんのラジオ番組を録音したものを聴きながら、いつもの川沿いを散歩していました。そのときの僕はなんだかけっこうデスパレートな〈絶望的な〉気分で、「おい、これからは大人にならなくちゃならないんだぞ」と自分に言い聞かせて走っていました。でもちょうどそのタイミングでドクター・ジョン(Dr. John)のあの楽観的な、大人になることを拒否したような、難しいこと考えたって無駄だぜ的な、素晴らしいニューオーリンズサウンドが流れてきて、一瞬でその考えを翻〈ひるがえ〉しました。「もう一生大人になんかなるもんか」と。もう数秒ほどしか、僕の「大人になる」という決意は続かなかったわけです。でもまあ、たしかに物理的に三十を越えると、ちょっとそうも言っていられなくなるかもしれない。ドクター・ジョンは自らの個性を音楽に乗せることができたし、僕はまだそれを十分にできていません(僕の場合文章ですが)。それには「責任感」のようなものが必要になってくる気がします。外側は大人の振りをして、中身は子ども、というのが僕の理想形です。八十くらいになってもそういう人間でありたいですね(ボブ・ディランのように)。