お彼岸2023

 お彼岸を過ぎて、ようやく秋の風が吹いてきました。ご沙汰さたしておりました。皆様はお元気でしょうか?

 いやあ今年の夏は暑かったですね。そしていつ終わるのかもよく分からなかった。いろんな事情があって(というか主に経済的な事情なのですが)、ほとんどエアコンを使わないで暮らしていたので、あの蒸し暑さは身にこたえました。どこにも逃げ場がないというような感じでしたね。

 それでもようやく涼しくなってくれて、近くの田んぼでは稲刈りも始まりました。東京にいるときにはこの匂いを嗅ぐことはできなかったなあ、となんとなく思い出しております。はい。

これは一ヶ月くらい前の写真でした。でもなかなか綺麗だと思う。香りが漂ってきますね・・・。

 ここ最近は賞に出す長めの作品を書いていました。やっていることは結局ずっと変わっていません。走って、筋トレして、バイトに行って、小説を書く。めしを食う。まあそんな感じです。特に面白いことなんてない。

 でも今日久しぶりに、天気の良い――そして気温がそれほど高くない――日曜日がやって来てくれて、ぼおっと青空を眺めていると、ああ、どこかにお出かけしたいなあ、と自然に感じました。あの夏の暑さではどこにも行きたくなかったしね・・・。それでもまあ、午前中に川沿いを走ったくらいにして(11.5km)、小説の書き直しをしていました。辛抱強く。コツコツと。これが未来に結び付けばいいのですが。

 いろんなことがありました。この数ヶ月の間だけでも。阪神が優勝したり、道頓堀に人が飛び込んだり、岡田監督が舐めていたパインあめが人気になったり・・・。え? 話題がかたより過ぎているって? いやいや。そんなことは・・・。

 いずれにせよ僕は歳を取りつつあります。残念ながらこの流れから逃れることはできそうにありません。まあ誰だってそうなんですけどね。はい・・・。小説家になりたいという希望を持って東京に出ていったのが24のときで(25になる年の4月です)、今は31です。あと一ヶ月ほどで32歳になります。大相撲ならベテランと呼ばれる歳に差し掛かっています。でもまあ正直なところ最近は開き直っているところがあって、いくら世間的な流れから外れていようと自分のやるべきことをやっていれば年齢なんか関係ないんじゃないか、というのが僕のスタンスです。これはよく言われることではあるのだけれど、挑戦し、発展することをやめてしまえば人生は退屈になります。お金があって、社会的地位があったとしてもなお、生きていること自体がつまらなくなってしまうのです。それに比べれば・・・お金がないことくらいなんだ、という感じですね(実はちょっとつらいのだけれど。まあとにかく)。姿勢そのものは維持し続けることができます。たとえどんな環境にいたとしても、ですね。自分を動かすこと。発展しようと努めること。まだ見ぬ領域を開拓していくこと・・・。

 でも考えてみればこれらの言葉は単なる「概論」であって、それだけでは何の意味も為さないわけです。要するに・・・行為がともなっていなければどこにも行けない、ということですね。しかし「概論」の問題点は頭ではふむふむと理解できちゃうことです。その結果・・・我々は往々にしてその「内容」を体得したと思い込んでしまう。学校の教科書がやっているのって全部これかも、とか思っちゃうのですが・・・。

 じゃあどうすればいいのか、というと、もう実際に身を動かすしかないみたいですね。この世において、この限界のある肉体を使って、実際に生きる。以上。終わり・・・と言いたいところだけれど、この文章もまた僕にとっては(多少は)意味のある行為です。頭を揉みほぐす、というか・・・。

 最近思っているのはやはり、人間は自分の意識をどのように使うべきなのか、ということです。朝起きてから夜寝るまでの間に、我々はいろんなことを考えるものだけれど・・・果たしてそのどれくらいが本質的なことなのだろう。言い換えれば、死ぬその瞬間に、我々は自分たちの成してきたことに後悔しないだろうか、ということです。僕が「本質的」というのはそのような意味合いにおいてです。。もちろん僕自身偉そうなことは言えないのだけれど・・・。

 意識はおそらくは本能的に危険な領域から目を逸らそうとします。そのようにして正気を保っているわけですが・・・僕のやりたいのはその「危険な領域」にえて踏み込んでいくことです。もちろんそんなことはしなくたって生き延びていくことはできますが・・・。それでもなお。「けつに入らずんば虎子こじを得ず」と昔の中国のことわざにもあります。虎の子供を盗んでどうするのか? もちろん阪神タイガースのマスコットにするのです。決まっているじゃありませんか。

 というのは冗談ですが・・・とにかくそこにしか道はないと悟りつつあります。他人に馬鹿にされようと、お金がなかろうと僕はこの道を突き進んでいくしかないのだろうと腹をくくりつつある。もちろんその手段は必ずしも小説である必要はないのですが。

 まわりを見渡してみても、あまりそういったことを本気で考えている人はいないような気がしています。まあそれが普通なのかもしれない。道標みちしるべもないし、金になるという保証もないのだから。それでもなお、そういったマイノリティーに属する人々は、きっとせっせと自分のやるべきことを孤独にやり続けているはずです。だからあんまり表に出てこないのかも・・・。

 僕はたぶん7年半もの間足場を固めてきて――いまだに大したものは書けていないのですが――なんとか自分の目指すものに近付こうとしてきたのだと思います。少なくともその努力は続けてきた。そうしないと自分を許すことができなかったからです。どこかの時点で・・・そう、人生を祝福できるポイントがやってくるはずだ、と自分に言い聞かせてきました。今は苦しみや、不安の方が大きいかもしれない。でもどこかで・・・文章を書くという行為が心から楽しいと思えるようになるのかもしれない。それまでは辛抱だぜ・・・。

 歳を取ってきて思うのはやはりどこにも「正しい法則」なんてものはないのだろう、ということです。一つ例を挙げますと、今年の阪神タイガースはきっちりと打順や守備位置を固定してシーズンを戦ってきました。そしてセ・リーグで優勝を果たします。一方のオリックス・バファローズは毎試合というほど打順を入れ替えて、調子の良い選手を使って、パ・リーグ優勝を果たしました。お互いに正反対の方針で選手を起用していたわけですが、結果的には優勝しているのです。だから「打順を固定した方がいい」とか、「打順を固定しない方がいい」というような方法論は、ほとんど意味をなさないことになります。あくまで岡田監督は阪神に合ったやり方を採用し、中嶋監督は、オリックスに合ったやり方を採用した。それだけだったのだと思います。もちろん打順以外にも様々な要因はあると思いますが(お互いに投手陣が素晴らしいですね。当然のことながら・・・。ほかにもいっぱい要因はあります。打順というのは無数の要素の中の一つに過ぎない)。

 これは一つの例ですが、一人の人間の生き方に関しても一緒だと思っています。もう本当にいろんな人がいろんなことを言っている。あれをやれ、これをやるな、これを気にしろ、これは気にするな・・・。あまりにも情報が多過ぎる。一人の人間は自分だけの人生を生きなければならないのに(時間もエネルギーも限られている)、ありとあらゆる情報が――好意からかもしれないのですが――四方八方から降りかかってきます。何が正しいのか分からない、と考えている若い人は結構多いんじゃないでしょうか? もちろん僕もその一人でした。

 でもある時点から、結局は自分の責任で道を選び取っていくしかないのだ、とだんだん思えるようになってきました。これはまあごく自然な流れなのだと思うのだけれど・・・。こうした方がいい、ああした方がいい、という意見はもしかしたら聞くに値するのかもしれないけれど、大抵の人々のプライオリティーは地上に置かれています。生き延びること。生き延びこと。たしかにそれも必要ではあるのだけれど・・・僕は自分自身もっと別のものを求めていると思う。それは目に見えないものです。だから・・・結局は誰にも相談することのできない領域なのだ、ということになるのかもしれない。

 そういう人間にとって役に立つのは、やはり小説とか絵とか音楽といったような、「そのもの」たちです。。作品そのもの、という意味ですが、それを可能な限り自分の感覚で通り抜ける。それしかないような気がしている。解説とか、売り上げとか関係なしに、自分の身でくぐり抜ける。そのときに何か本当にポジティブなものを感じ取れたら、それは素晴らしい経験です。自らのかてとなる。それほどでもなかったら・・・それはそこまでの作品ではなかった、ということでしょう(あるいはまだ自分の準備ができていなかったか)。それでもその経験自体は自分の価値基準を作る材料とはなると思う。おそらくは。

 結局その「感じ」とか「フィーリング」を求めて、僕は作品を作っている、ということになるのかもしれない。一番大事なのは自分自身が重要な「何か」に触れる、ということなのですが。とにかく。

 もっとも「言語」というものについて考えるとき、不思議なのは、それが単なる伝達の手段だけではない、ということです。もっと多くの意味を持っている。日本で生まれ育った人は、おそらくは日常的に日本語で論理を構築しているはずです。あれはこうなって、これはああなって、あの人はああで、この人はこうで、自分は今こういう位置に置かれていて・・・。これが英語話者だったら、まったく違った世界の(そして自分自身の)切り取り方をすることになるわけです。それは結構面白いと、僕は思う。意識というものそれ自体が言語を材料として成り立っているのです。まったく言語を使わない、という人は・・・あまりいないのではないか?

 だからこそ詩や、小説が意味を持ってくるのだと僕は思っています。詩はより音楽的で、小説はより物語に近い、というところはありますが・・・。特に小説の「文体」については、不思議なことが往々にして起こります。つまらない人間が書いた文章はたとえ短かったとしてもやはり「つまらない」と感じることがよくある。それはその人の意識のあり方が、にじみ出てしまうからなのだと思います。視野の狭さや、意識の硬直性が、そのまま文章に表れてしまう。その逆もしかりです。ちょっとした文章でも「面白い」と感じさせる人がいる。その人は意識のあり方が・・・おそらくは柔軟なのでしょう。僕はそう考えている。

 優れた小説は世界の見方を変えてしまうのではないか、と僕は思っています。普段使っている言語なのに、その文字の組み合わせ方によって、違う動き方をする。我々は思考を他人の作った道筋に乗せます。もしそこにポジティブなグルーヴがあれば・・・我々は自分たちの深い場所をも、揺り動かすことができるかもしれない。普段の日常生活の中では、まず動かないようなところを、です。それがやはり一番の重要なポイントではないか、と僕は思う。

 プラス、偽善性というものがあります。偽善性は我々を常に取り囲んでいる。どこを見渡しても偽善的な閉じられた物語がウヨウヨしています。そしてそれを押し付けられるときている。非常に窮屈です。たとえば賞を取ったような作品でも、もし「偽善的だ」と感じたならば、僕は読むのをやめると思う(しかしそういうものがもてはやされるのですが)。というのもそこにある「善」は人工的なものだからです。おそらく善を決めるのは意識のものなのだと僕は感じている。それを意識が決め始めてしまうと、非常に傲慢なことになるのではないか・・・。

 しかしメディアを始め、いろんなところで言い触らされているのが、表面的な「偽善」です。それは一種の守りとしては機能するのでしょう。何々のためにこういった行動を取っている。社会の一員として・・・。しかし僕が考えるのはいつも個人のことです。個人ののことです。意識を保っている限り、おそらくは誰も内的な義務から逃れることはできないのだと思う。どこにも法則なんかないのです。あると思っていたとしてもそれは「偽善的な」閉じられた世界に過ぎない。正直僕には、我々の肉体的生存すら善だとは思えないのだから・・・。

(補足:要するに大抵の人たちは自分以外の「何か」のために生きることによって、自分の正当性を担保しようとする、ということです。社会とか、家族とか。ルールとか。それは一見素晴らしいことのように見えるけれど・・・往々にして言い訳に過ぎません。人間の魂は単なる「生存」以上の何かを求めていると僕は思う。そのためにはあるいは世間的には「悪」と思われていることすらやらなければいけないかもしれない。カール・ユングは自伝の中で「人は善にも悪にも屈してはならない」と書いています。そう、屈してはならないのです。自分の思考の自由を、「善」と書かれた看板に明け渡してはならない。その中身が「善なるもの」であるという保証はどこにもないからです)

 こんなのはまあただの机上の空論に過ぎないわけですが、ふと気付くと、こんなことばかり考えている。お金になるわけでもないのにね・・・。でもまあいずれにせよ、その「偽善性」から逃れるためには、自分にとことん正直になるしかないわけです。いうまでもなく僕はいつか死ぬし、ほかのみんなも一緒なわけです。そのときに後悔するのではないか? それが僕を恐れさせていることです。なぜかよく坂本龍一さんのことを考えます。彼は死に直面したときに・・・もっともっと音楽を作りたいと思わなかっただろうか? きっと思っただろう、と勝手に僕は想像しています。あれだけの作品群を作り続けていたとしてもなお、です。それに比べて僕は何をしているんだろう・・・? もし時間が――そしてエネルギーが――まだあるのだとしたら、自分のためにも作り続けるべきなんじゃないか? なぜなら生きるべき時間は今ここにしかないからです。きっと朝起きたら完璧にものすごい天才的作家になっていて、文章が水のように溢れ出てくる・・・というようなことは起きないのだと思います。起きたらいいけど、たぶん起きない。少なくともそういった前提の下に生きていく必要がある気がしている。それはつまりこの、つまらない(ように見える)日常生活の中で、使える時間をきちんと有効に使っていく、ということでしかないような気がしているのです。自信がない? お金がない? 自由がない? でもいつになったら完璧な環境は訪れるのだろう? それは実行に移さないための言い訳ではないのか? 君は本当は・・・もっと先に進めるのではないのか? そう思ってこの四ヶ月ほど生きてきました。あまりにも暑くてめげそうにはなったけれど・・・。

 きっと朝起きてから、夜寝るまでの間に、ただ地上のことだけを考えて過ごすのが嫌なのだと思います。夢を見ていてもいいが、それは夢である必要がある。そうしないと魂は不毛なままだからです。これはもう体感的なものでしかないのだけれど、分かる人には分かるはずです。リラックスする時間も必要だ。お腹も減る。運動もした方がいいし・・・。でも、にもかかわらず、意識をこう・・・グッと押し込むというか、自分一人の領域で、「踏ん張る」というか・・・そういった負荷をかけないと僕は満足できなくなってきてしまったのです。そしてそれをできれば良い方向に利用したいと考えている。結局のところお金で買える楽しみを求め始めたらキリがないけれど、お金で買えないなら、自分一人でも(そしてどこか特別な場所に行かなくても)十分味わえるからです。そしてその中で自分という枠組みを押し広げていく。可能なら壊して、再構成する。我々が言語でできている存在だとすれば、それはあながち突飛な比喩でもないはずです。我々は言葉を使って考える。言葉を使って、世界を分化されたものとして認識している。いろんなものに名前を付けて・・・。だからそのルールの元となっている言語そのものを一旦解体すれば、我々は「自明性」という罠を外れることができるのではないか? 他人の言葉ではなく、自分の言葉を使って考えられるようになるのではないか? そうすれば・・・あるいは真の自由に、ちょっとだけ近付けるかもしれない・・・。

 僕は呪いを祝福に変えられるよう努力していくつもりです。ある意味では稀有けうな能力を与えられたのだとも思っている。というのも大抵の人々はそんなことはまずしないからです。プラス、絶対に物語を通してしか到達することのできない領域というものが存在している。僕の、ずっと奥の方に存在しているのです。そこから真にポジティブなものを引き出すことができたとしたら・・・僕はそれをみなさんと共有できるかもしれない。古典文学のいくつかがいまだにアクチュアルな生命を保っているのは、要するにそれにしかみ出すことのできなかった精神的なエネルギーが確実に存在しているからです。我々は――まるでレコード針が細かい溝を辿っていくみたいに――文字を通してその流れを辿っていきます。様々な光景が、感情が、匂いが、蘇ってくる。歳月も距離も関係なく、蘇ってくるのです。ホメロスを読めば神々の会話だって聞くことができる。

 今、ここに、涼しい秋の風が入り込んでいます。窓をちょっと開けているから、カーテンを押して、それは入り込んできているのです。これは一回限りのものです。二度とはやって来ない。来たとしても、それは別の風です。そしてそれを感じ取っているのは、また別の僕自身なはずです。我々は移動している。風も移動している。地球も、宇宙も移動している。光も、闇もまた・・・。

 このようにして時は流れて、やがてみんな死んでいきます。あと百年もすればここにいるみんなはいなくなっているでしょう。それはそれとして、みんな今この瞬間を生きています。死を見つめている人も、見つめていない人も、みんなこの瞬間を生きのです。そしてそれは実は結構大事なことなのだろうと、僕は思っています。もっともだからと言って、生きているだけで意味があるんだ、というようなことを言いたいわけではない。我々はいつだって退屈さに取り巻かれているからです。自分の意思で、自分を動かしていかないと、おそらくは簡単にそれに捕まってしまうのでしょう。退屈になると人は往々にして余計なことを考え始めます。生きるべき「今」を無駄にしていくのです。そのようにして・・・。

 僕はできるだけそれを避けたいと思う。完璧には無理だけれど、まあある程度は。そのためにもまた、書くことに戻ります。自分のグルーヴを探し続けます。結局意識の救いは死の中にしか存在しないような気がしている。今この瞬間に存在する死です(それは穴に似ている。すごく似ている)。我々はそこを通り抜ければ、形のないものに、時間の制約を受けないものに、変わることができるのではないだろうか? この肉体にいながらにして、です・・・。

 と、いうことで阪神タイガース、優勝おめでとうございます。僕はなぜか去年ロハスjr.選手を応援していた流れで、なんとなく阪神、気になっていました。関西には縁のない生活を送っているわけですが・・・。ちなみにあれだけやめろと言われていた中で道頓堀に飛び込んだ人たち、すごいです(決して褒めているわけではない)。やるなやるなと言われると、逆に燃える人たちが必ず存在するのですね。正直そのエネルギーと反骨心を、別のことに向けてほしいような気もしますが・・・。

P.S. やっぱり野球を観ていると、外国人選手たちが気になってしまう。ロハスが抜けた阪神ですが、ノイジーとミエセスという気になる外国人選手たちが入団してくれました。ノイジーは結構真面目っぽいです。ホームランが少ない、と思っていたら、優勝決定後に打ち始めました。守備もいいし、肩も強いみたいです。頑張れ、ノイジー! そしてミエセスは優勝決定後のビールかけではしゃいでいる光景を見て、ファンになってしまいました。「ミエちゃん今日は主役ちゃうよ」と監督に言われながらもなお・・・すごくはしゃいでいる。いいなあ。ああいう人間になりたい・・・。ケラー投手も活躍していますね。優しそうな顔をしているから大丈夫かと心配していたのですが・・・(あとで調べたら一時帰国していました。大丈夫かなあ・・・)。みんなこのクレイジーなジャパンで頑張っています(そして年齢も近い)。阪神ファンはその中でもとりわけクレイジーで有名ですが・・・是非たくさん稼いで戻ってほしい。僕はいつになったら文章で稼げるのやら・・・。

夕暮れ時の田んぼ。なかなか風情がありますね・・・。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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