ルーティーンについて

 日曜日の午前中を有効に活用しようと思って、通例その時間帯におこなっていた11.5kmのランニングを、土曜の夜におこなった。実は朝にも4.5km走っているから、合わせて16km走ったことになる。もちろんお昼から夕方にかけてはアルバイトに行く。生活のために。

これは昼間に撮った写真。右上の雲は僕があとから筆で描きました・・・というのは嘘です。はい。

 長く続けてきたルーティーンを変えると、ちょっと新鮮な気分になる。いつもは午前中の太陽のもとで見ている川沿いの道が、夜の道に変わる。遠くのマンションが、気象塔が、ホテルが・・・輝いている。風が冷たい(そのせいでおなかを壊してしまった)。しかし結局やることは一緒である。一歩一歩前に足を踏み出し続けること。

この畑の奥に名取川があります。大いなる名取川・・・。

 八王子の川沿いの道を思い出す。七年間ほぼ同じようなルートを走り続けていた。途中にトイレや水道もあって、ずいぶん恵まれた環境だったんだな、とこちらに来て初めて実感することになった。こっちは道も広いし、夜にはほとんど誰とも遭遇しなかったが、トイレや水道はない。名取川を下って、広瀬川との合流地点に来ると、さかのぼる。ただそれだけだ。長町の近くに行って、折り返す。小さな野球場や、たくさん並んだ畑の脇を通る。そういったルートである(白い野良猫が住み着いている)。

 日曜の午前中に走ると、すごく気持ちが良いのだが――一週間の疲れを別の種類の積極的な疲れでリセットする、という意味合いもある――いささか疲れ過ぎてしまって、肝心の小説を書く集中力が持たない・・・ような気がしている。これは気合いが足りないのだ、といつも思っていたのだけれど、あるいはそうではないのかもしれない。体質的なものとか、純粋に意識の質の悪さが原因となっているような気がしている。こんな歳になって気付くのもなんだけれど、やはり書きにくいよりは書きやすい環境に身を置いた方がずっと良いはずだ。そのようにして初めて真の自発性を文章に置き換えることができるのではないか?

 もちろんそれが文章である必要なんかないのだけれど、僕の場合は文章が自分に一番近い・・・気がする、ということだ。これはもちろんこれからの人生で変わっていく可能性は十分にあると思う。うん。

 それはそれとして、やはり夜に疲れ切った状態で書こうと試みても、なかなか意識が前に進んでいかない、というところがあるのだ。小説以外ならなんとかなるのだけれど(たとえば今こうして書いているエッセイとか)、小説となると駄目である。次の一行を書こうとする。でも強烈な眠気に襲われる。それが怖いから本能的にどこかに逃げる。今年のプロ野球の移籍情報を調べたりしている。え? あの人が? というような戦力外の選手もいる(ソフトバンクの森、嘉弥真かやま、楽天の西川・・・)。僕の好きなウォーカー外野手がソフトバンクにトレードされた。でもこれは出場機会が増えそうだからよしとする。阪神のノイジーは残留が決まったらしい。日本シリーズで活躍していたからこれは僕としては嬉しいのだけれど・・・。

 それはそれとして、だ。自分にとって一番重要なことは何か、と考えたときに、それはおそらくは「本気で自分自身と向き合うこと」である。それも「今ここにいる自分自身と」だ。僕はおそらくはそれをずっとおこたってきたために、こうして不毛な歳月を送っているのだ。それは分かる。しかし向き合おうにも、エネルギーが残されていないのだとしたら・・・どうしようもない。夜には意識はリラックスして睡眠を取るモードに入り込んでしまっている。それでもすぐに眠りたくないのは、きっとやり残していることがあるせいだ、と僕は踏んでいる。やり残していること。それはつまり・・・僕の場合は真に重要な文章を書くことである。おそらくは。

 それはステイトメントではない。論理性だけでは書くことのできない領域が、心の中には明らかに存在している。僕はそれをひしひしと感じ取っているのだ。実はこの間32歳の誕生日のときに、自分にプレゼントとして『新約聖書』を買った。恥ずかしながらきちんと聖書を読んでいなかったので(引用なんかで細かいエピソードは何度も目にしてはいたのだけれど)、ここらでちゃんと通して読んでみようぜ、という気分になっていたのだ。数ヶ月前には旧約のいくつかをバラで買っていた(『創世記』『出エジプト記』『ヨブ記』)。しかしやはりイエス・キリストという人のカリスマ性というか、神秘性というか、それはなかなかほかでは代え難いものがある。当然のことながら、宗教に関した書物というものには一種の危険も伴う。批判精神を失って、「信じ込んでしまう」ことが一番の問題なのではないかと僕は思う。自分の判断力を失って、文字通りそれだけを「正しいもの」として受け入れてしまうこと。それはやはり良くないと思う。しかし、そういった危険性を認識しているのであれば、一読者として聖書を読むのもありなんじゃないかと、この歳になってようやく思ってきた次第なのです。はい。

 イエスの言葉はやはりいちいち重い。しかしそこにあるのは戒律かいりつというよりは、むしろたとえ話である。彼は実によく譬えを使う。ちょっと今となってはよく分からない譬えも使う。なんでここでこんな話が出てくるんだ、ということもある。でもそれはその当時のイスラエルにいた人々にとっては、今ここで便利な――科学的な――生活を送っている我々よりは受け入れやすい話だったのだと思う。いちじくとか、ぶどう園とか。そういったものが(しかしいまだになぜイエスがいちじくの木を呪ったのかよく分からない・・・)。

 イエスは神の言葉が滅びないことを知っていた。地上のあらゆるものは滅びるが、神の言葉は滅びない、と。肉から出たものは肉であり、霊から出たものは霊である、と。

 僕は来年彼が死んだ歳になるわけだけれど(諸説あり)、それもまあ聖書を読み始めたことにちょっと関係している。33歳。就職して、結婚して、子供を作って・・・という普通の流れになんか組み込まれてたまるか、と思っていたのだけれど(若者らしい反抗)、実際にこの歳になってお金もなく将来の展望も見えずアルバイト生活を続けていると、ちょっときついかな、と思うこともある。でもそんなときにイエス・キリストのことを考えると・・・すっと心が楽になるのだ。彼は終末の日を予言していた。死者たちが復活し、裁きを受ける日のことを・・・。

 僕自身それを文字通り信じているわけではないけれど、一つの意識の終わり、ということで言えば、まあ全員が――この世で生きている全員が――潜在的には「終末の日」を抱えているということになるわけだ。僕が死ねば・・・少なくこともこの僕にとっての「世界」は終わる。まあ当然のことだろう。もちろん終わったあとに何がやって来るのかは死んでみないと分からないわけだけれど。

 人間の一生とは何なんだろう、と僕は思う。もちろん僕の人生だってこれから何か予想外の展開が起こるかもしれない。それはもちろんそうだろう。でもそれとは別にして、人間はそもそも何を求めて生きてきたのだろう、と考えてしまうのだ。生きていることは自明の状態ではない。それは頭ではもちろん分かる。死んだら世界も終わる。だからこそこの時間を大事に使っていかなくてはならないのだ。「X」(旧ツイッター)でくだらない投稿を読んでいたりする場合ではないのだ・・・。

 霊の世界とはおそらくは意識の内部の世界のことなのだと思う。問題は我々には直接その中を覗けないことにある。もっとも考えようによってはすべてが――つまり外界のすべてが――内界を通して見られたものなのだから、実はこの光景にすでに「霊の世界」の要素が反映されている、という考え方もある。僕はどちらかと言えばそのような考え方をする人間である。

 報道のカメラがどれだけ「中立です」と言っても、その画面の切り取り方に意図が滲み出てしまうように、我々の見るものには、その時点ですでに取り捨て選択がおこなわれていると考えるべきだと思う。たとえばプロ野球のコアなファンが、街中に貼ってあるポスターを見て、ああ、阪神のあの選手だな、と思う。今年の打率はこれくらいで・・・。でも野球に興味のない女性がそれを見ても、ほとんど何も感じないかもしれない。むしろその先にある化粧品の店に目が行くかもしれない。もしカラスだったら道に落ちているゴミを「うまそうだな」と思うだろうし、普通の通行人はただ邪魔だな、と思うだけかもしれない。いずれにせよ言いたいのは自分の知らないところでかなり「外界をどのように切り取るのか」という作業は行われているはずだ、ということだ。

 それ自体は何もおかしいことではない。しかしそれが時に行き過ぎてしまうと・・・おそらくは問題を引き起こすことになる。我々は自分たちがある意味では「霊の世界」に生きている精神であることを忘れ、自明の世界で生きている自明の生き物なのだと思い込んでしまう。僕が最近考えていたのは「信じる」とか、「祈る」という動詞のことです。イエスは信じろという。祈れという。父なる神に向かって、です。そのようにして悪いものから身を守ることができるのだ、と。

 しかし考えてみれば、いったい現代人のどれくらいの人々が本当の意味で「祈った」り「信じた」りするだろう? 何を祈るのか? 何を信じるのか? その先にはおそらくは論理的には説明できない、不明確なものが存在しているはずだ。というか、存在しているとはずだ。二千年前にイエスがそう言っているのだから、人間にはそのような能力が備わっているのだと思う。2足す2を4だと、というのはおかしな表現ですよね。物理学的法則を、というのもちょっとおかしい。やはりその先には、むしろ多くの人によって見逃されている「何か」が置かれるべきなのだと思う。僕は考える。いったい何を信じればいいのか? 何に祈ればいいのか? どう祈ればいいのか・・・。

 謙虚になることが必要であるような気がしている。。うん。人間は何をしていても、どこにいても、自分自身から逃れることはできない。それは確かだと思う。そしてその「自分自身」の根っこには、何か不明確なものが潜んでいるはずだと僕は感じる。そしてその部分を見つめ、可能ならば「解放」しないことには・・・人生はどんどん不毛なものになっていくだろうという予感がある。生き延びて、数字で計れるものだけを追い求めているだけでは足りないのだ。我々は・・・我々の霊なる部分に、もっと注意を払わなければならないのではないか?

 しかしまあこんなのは一般論に過ぎない。一般論ならいくらでも言える。安全な場所に座って、偉そうに解説して、お金をもらっているプロ野球の解説者のようなものだ。自分では何もやらない。それではきっとどこにも進むことはできないはずだ。失敗することもないが、成功することもない。成長すらしない。それは・・・僕の目指す姿ではないと思う。

 すごく具体的な話をすると、やはり朝に書かなければならないような気がしている。太陽の光が重要なのだ。少なくとも僕にとっては。自分の中の集中力をきちんと発揮しようと思うと、夜ではあまりにも闇が強過ぎる。僕の意識は簡単にその勢力に敗れてしまう。あまり明るいことも浮かんでこない。だからこそ、もし「今を生きたい」と欲するならば、可能な限り良い状態の自分自身を自分の魂のために用意してやるべきなのではないか? 今さらになってこんなことを考えている次第です。はい。

 今までは単に気合いが足りないだけなのだ、と思っていました。でも長い目で見たときに、気合だけでできることはたかが知れています。もし長い――そして時によって退屈な――この人生を可能な限り十全に生きたいと欲するならば(僕は欲するけれど)、健康状態を整えることはまず第一に考えるべきことであるような気がします。こんなことはずっと前から頭では分かっていたことなのだけれど・・・。

 ということで試しにやってみます。ちょっとずつ習慣を変えて、できることをやっていくこと。ときどきあまりにも進み方が遅いので、後退しているんじゃないか、と感じることもありますが、結局のところこれしかできないのだから仕方がありません。もちろんアプローチの仕方は変化する可能性はありますが。それでも・・・。

 現実とはものすごい希望と、ものすごい絶望との間あたりに存在しているのかもしれない、と考えつつあります。それはもちろん僕がさほどひどい状況に陥っていない、ということを意味するのかもしれませんが・・・。いずれにせよどのような状態にいたとしても、自分のできることを一つ一つ積み重ねていくこと。それ以外できることはないのです。もうすごく若い、というわけでもないので、地道にできることをやっていきたいと思います。では、皆さんもお元気で。

P.S. そう、そして阪神が優勝しましたね。実は内心、もつれにもつれて第七戦で阪神が勝ったら嬉しいなと思っていたので、その通りになって良かったです。オリックスも好きなのですが、なにしろ去年優勝しているからな。今年は阪神に勝ってもらわねば・・・。

 オリックスは怪我人が出たり、なんとか間に合った人たちも本調子じゃなかったりして、なかなか難しいところがありましたね。それでもまあ阪神の選手層がまさったのだ、ということになりそうですが。ノイジーもホームランを打ったし、森下も活躍したし、ミエちゃんはまたはしゃいでいたしで、なかなか素敵な日本シリーズでした(平田ヘッドもはしゃいでいた)。ミエちゃんは来年飛躍するのか? ムードメーカーとしてだけでなく、バッティングでも貢献するのか? うーん。どうだろう? なかなか楽しみなところではありますが。

 生きるというのは不思議な行為で、今年の五月に自転車で東京からひたすら仙台目指して漕いでいたときには、なかば自暴自棄になっていたようなところがあります(変な自暴自棄のなり方だけれど。もうどうなってもいいや、という気持ちになっていた)。それでもまあ半年経った今でも、まだこうして生き続けています。アルバイトをして、ランニングをして、食事を作って・・・やっていることは東京時代と何ら変わりはない。ときどき自信を失ったり、なぜかふっと心に風が吹いたり、あるいは変な夢を見たりしながら日々生き延びております。時間はどんどん過ぎ去っていく。今ここを生きるべきだということはよく分かってはいるのだけれど、「早くこの状況を抜け出したい」という思いは確実に存在している。しかしそうやって七年半もの間、焦りながら何の結果も出てこなかったわけです。僕は・・・本当に前に進んできたんだろうか?

 まあいずれにせよ、この灰色の平原でなんとか生きていくしかないみたいです。環境を変えるべきだと思ったら変えなければならないけれど、外部にあまり多くを期待し過ぎてもいけない。結局は自分の中の充実感は自分で生み出すしかないからです。そのためにはまずは睡眠だ。健康だ。規則正しい生活をしなきゃ・・・。

 本当にそう思いつつあるところです。まずそこに全力を注いで――つまり肉体的に、精神的に良い状態の自分を用意してあげること――その結果何が生まれるのか試してみようじゃないか、と。あちら側に何がいるのかは分からない。神かもしれないし、クラゲみたいな気持ち悪い生物かもしれない。あるいはまったく別の、もう茫漠とした、掴みどころのないものなのかもしれない。あるいは「無」かもしれない・・・。

 いずれにせよあちら側にいる「何か」のために、僕は自分自身を捧げなければならないような気がしているのです。その結果、正しい言葉をキャッチすることができるのではないか・・・? 実は僕は預言者になりたいと思っているのかもしれない。現代の預言者・・・。

 でもそこに近付くにはまだまだ鍛錬が必要みたいです。イエスも「にせ預言者に注意しなさい」と言っています。偽預言者にはなりたくないな。だからまあ大きなことは言わず、できることをコツコツとやっていくしかないのでしょうね。あまり大きな願望を抱くのをやめて、今できることをしっかりやり続けること。その積み重ねが自分をどこかに連れていくのだと信じること・・・。

 信じ、というのがなかなか難しいのですが、とりあえずプロテインを飲みながらなんとか頑張ってみようと思います。あるいは状況も何かをきっかけに好転するかもしれないしね。それでは。本当に、おやすみなさい・・・。

田んぼと雲とマンション。そして夕暮れ・・・。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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