この間台風が家にやって来た。23号だということだった。秋で、気持ちの良い風が吹いていた。たしかに西の空にどんよりとした雲がかかりかけてはいたが、まだ雨の気配はない。それは日曜日の午後3時のことだった。僕は部屋で一人でドストエフスキーの『作家の日記』を読んでいた。図書館で借りてきたもので、ようやく三巻目に入ったところだった。彼は東方問題、及びヨーロッパにおける外交関係に多くの紙面を割いていた。時は1870年代後半で、普仏戦争の余波もあって、フランスとドイツが敵対しようとしていた。1914年に第一次世界大戦が始まりますよ、と僕は教えてあげたかったのだが、もちろん彼本人は1881年に59歳で亡くなっている。未来はいつだって謎なのだ。しかし、ある程度の予想をすることはできる。
さて、台風がやって来る前日に、田舎に住む母親から電話がかかってきた。「天気予報によれば、台風が来るらしいわよ」と彼女は言った。「ちゃんと準備しときなさいよ」
「オーケー、分かったよ」と僕は機械的に答えた。いつものやり取りだ。心配する母親と、意に介さない息子。だってそもそもあんな巨大な自然現象相手に、どうやって注意すればいいというのか? まあミネラルウォーターもあるし、懐中電灯もある。食糧だって少しはある(まとめ買いしたオートミールが大量に残っている)。まあきっと大丈夫だろう。いつものように。
しかしまさかこんな形でやって来るとは思わなかった。虚を衝かれた、という表現がまさに的を射ている。天気予報によれば、当初の予測を外れて、台風は太平洋上に進路を変えた、とのことだった。だから僕はもう心配する必要はあるまいと、休日の読書をとことんリラックスして楽しんでいたのだ(午前にはクラシック音楽を聴いた。ハイドンだ)。暑かった夏が終わり、涼しい秋がやって来ようとしていた。まず理想的な休日の過ごし方だった。
しかし、そこに突然、ノックの音が聞こえる(なぜか彼はインターフォンを押さなかった)。ドンドン。ドンドン。一体誰だろう? 大体日曜日にやって来るのは、インターネット回線の営業なんだよな・・・。
ドアを開けると、そこには台風23号がいた。一見ごく普通のサラリーマンにも見えるのだが、たしかによく見ると台風だった。目が一つしかないし、それが顔の中心にある。身体のまわりに風が渦巻いている。まるでコバンザメみたいだな、と僕は思う。大きなクジラの身体にまとわりつく。寄生虫やなんかを食べるんだっけ・・・。
でもとにかくそこにいたのは台風だった。写真で見るものよりは小振りだが、たしかに台風だ。
「ほら、来ましたよ。ちゃんと」と彼は言っていた。予想外に高い声だった。よく響く。
僕は少しの間驚いて言葉を失っていた。だって目の前に台風がいるのだ。誰だって驚くだろう。コバンザメ(的な小さな風)も渦巻いている。まったく。こんなことならもっときちんと準備しておくんだった。
「どうしたんですか?」と彼は笑いながら言った。「まさか知らなかったというわけじゃないでしょう?」
「ええ・・・たしかに昨日母親から電話がありました」と僕は正直に認めた。「でもまさかこんな形でとは・・・。だって普通台風はもっと大きいでしょう?」
「普通」と彼はさも軽蔑したように言った。コバンザメがヒュンと音を立てた。「あなたはそんなにつまらない人間だったのですか? 大学時代にはもっととんがっていたと思っていたが」
「あれは遥か昔のことです」と僕は言った。「僕はもう立派な社会人ですよ。平日は毎日スーツを着て、革靴を履いて、仕事に行きます。部下だってできた。給料も上がった。そのうちガールフレンドだってできるかもしれない」
「はっは」と彼はそれを聞いて笑った。乾いた、サハラ砂漠に吹く西風のような、そんな笑いだった。
「何がおかしいんですか」と僕はちょっとむっとして言った。
「あなたは自分で自分を誤解している」と彼は言った。「あなたは本当はそんな人間じゃない。そのことについてちょっと説明しますから、お部屋に上がらせて頂いてもよろしいですかね」
僕は彼を部屋に入れた。本当は入れたくなんかなかったのだが、そうでもしないことには去ってくれそうになかったのだ。それに、台風を怒らせるときっとあとでひどいことになる。壊滅的な被害を受けた街の情景が、ふと頭に浮かんだ。
「どうぞ」と僕はしぶしぶ言った。
彼は靴をきちんと揃えて置き、僕の狭い部屋の中に入った。失礼、と言って、流しでうがいと手洗いをした。台風も意外ときちんとしているんだな、と僕は思う。その後彼を居間に通し、椅子を勧める。僕もまたその向かい側に、小さな椅子を持ってきて座った。
「さて」と彼は言った。
「さて」と僕も繰り返した。
「それで」
「それで」
「なぜ真似をするんです?」
「いや、なんとなくそういう気分だったから」と僕は言って頭を掻いた。「それで、何か飲みますか? 紅茶くらいしかないけど」
「紅茶」とまたしても軽蔑したように彼は言った。コバンザメがまたヒュンと音を立てた。「あなたはお母さんに何と言われたんですか?」
「台風が来るから準備しなさいよ、と」と僕は言った。
「それで、何を準備したんですか?」
「何も」
「何も?」
「ええ。だってミネラルウォーターとオートミールはあるし、懐中電灯だってあります。まあ電池は切れているかもしれないけれど・・・」
「ビールは?」
「ありません。僕は酒を飲まないんです」
「つまみは?」
「ありません」
彼ははあ、と息をついた。コバンザメがまたヒュンと音を立てた。「じゃあ百歩譲ってバームクーヘンでもいいです。バームクーヘン、ありますよね?」
「ありません」と僕は正直に言った。「甘いお菓子が嫌いなんです」
「まったく! 何と! 一体どういった教育を受けてきたんですか?」
「義務教育ですよ」と僕は言った。「あと高校と、大学。まあほとんどろくに勉強もしなかったのですが」
「私が言っているのはもっと別のことです。倫理です。生きた倫理です。お客にお菓子も出さないようじゃ、人間として駄目になりますよ」
「でもそんなのは大したことじゃないでしょう」と僕は反論した。「あなたはある意味では勝手に上がり込んできたんです。たしかに台風かもしれないが、力に任せて好き勝手する権利はないはずだ。日本国憲法のどこにもそんなことは書いてありませんよ」
彼は不思議な表情で僕のことを見ていた。きっとあまり反論というものをされたことがないのだろう。コバンザメが今度は委縮したような、シュンという音を立てた。
「ふうん。あなたも意外に自分というものを持っているみたいだ。だとしたらなおさら本当のことを見せないといけないみたいだな」
「本当のこととは?」と僕は言った。
「実は私は台風じゃないんです」
「台風じゃない?」
「ええ」
「じゃあ何なんです? 台風以外の何者にも見えないが・・・」
「あなた自身です」
「僕自身?」
「ええ。これに見覚えはありませんか?」。彼はそこで懐からニューヨーク・ヤンキーズの帽子を取り出した。それは僕がまだ少年の頃に、よく被って外で遊んでいたものだ。しかしある台風の日に――どうして台風の日に帽子なんか被っていたのだろう?――好奇心で外に出てみると、あっという間に吹き飛ばされてしまったのだ。そして近くにあった用水路に落ちてしまった。一瞬拾おうかとも思ったが、水はものすごい勢いで流れていたし(雨も強く降っていた)、木の棒やなんかを取りに行く暇もなかった。それはもう新幹線に乗ったウサイン・ボルトみたいに猛スピードで下流に流されて消えてしまったのだ。しかし、今、その帽子がここにあるのだ。この、30歳になった僕の部屋に。どうしてだろう?
「それは僕がまだ小学生の頃に失くしてしまった帽子です」と僕は言う。「つばのところに染みがある。じゃあ本当に本物なんですね?」
「もちろん」と彼は言った(コバンザメがヒュンと音を立てた)。「私はあのときからずっとこれを持っていたのです。いつか返す瞬間を夢見てね」
「どうしてもっと早く来てくれなかったんですか?」と僕はその帽子を受け取りながら言った。なぜか胸がきゅんと締めつけられるような感覚があった。かつての記憶。純粋な願望。キラキラと輝く未来。でも僕は今・・・。
「もっと早く来ても、君はこの意味を理解できなかっただろうから」と彼は言った。「いいかい? 君は大人になったんだ。というかならなければならなかったんだ。大人になるというのはだね、心にきちんと空白を抱え込むということなんだ」
「空白」とその帽子を胸に抱きながら僕は言った。「空白・・・」
「そうだ」と彼は言った。「かつてそこにはキラキラと輝く願望があった。明るい未来。どこかで待っているフィアンセ。みんなに好かれる男。お金持ちになって、ちやほやされて・・・。でもそんなものはもうどこにもない。君にだって分かっているとは思うが、どこかの時点で、その願望の場所を空けなければならないんだ。代わりにやって来るのが空白だ」
「失望じゃなくて?」
「失望も少しはある」と彼は言った。「でもそれだけじゃない。ほら、真実がやって来ようとしている。腹に力を入れろよ。センチメンタルになっている場合じゃない。本当の時間が、本当の世界が、今ここに猛スピードで突進してくる」
「ウサイン・ボルトみたいに?」
「そう。ウサイン・ボルトみたいに」
そのとき僕は悟った。僕は風だったのだ、と。どうしてそれに今までまったく気付かなかったのだろう。この肉体なんて、ただの容れ物に過ぎないのだ。だからこそ台風さんは、自分のことを「あなた自身だ」と言ったんじゃないのか?
「ほら、口を大きく開けて」とそこで彼が言った。
僕は言われた通り、顎が外れそうなくらい――旭山動物園のカバと同じくらい――大きく口を開けた。その瞬間、彼が服を脱ぎ捨て――彼の中身は透明だった。まあ当然のことだが――一気に私の中に潜り込んできた。コバンザメも一緒だ(彼らはヒュンと音を立てた)。僕は一瞬息ができなくなり、頭の中が真っ白になった。でも焦ったりはしなかった。この「真っ白さ」こそが、自分の求めていたものであることを悟っていたからだ。彼は僕の身体中を動き回った。そして雑多な感情や思考なんかを、隅々まで掃除していった。僕はどんどん透明に近づいていた。悩みも、不安も、哀しみも、もはやどこにもなかった。あったのは今という瞬間と、僕という人間の動きだけだった。風になるというのは、こういうことなのか、と僕は思う。
「ほら、止まっていないで、動くんだよ」と彼が言う。
「でもどうやって? どんな風に動けばいいんです?」と僕は訊く。
「誰にもそんなこと訊いちゃいけない。正解なんかないんだ。ほら、今も時は流れ続けている。見えるのは何だ?」
「空白」と僕は言う。そして思い切って全身を大きく動かしてみる。世界が前に進み出したのが分かる。あるいは進み出したのは僕自身だったのだろうか?
「その調子だ。行け!」と彼は言う(コバンザメが勇気づけるようにピュンと音を立てる)。
「こんな感じかな・・・」と僕は言う。でもその時点ではすでに、彼はいなくなっている。僕は肉体を離れ、一つの風になる。あちらからこちらへと、吹き渡っていくのだ。死は存在しない。いや、もし存在したとしても、僕には本質的には関係ない。なぜなら時とは僕自身のことだからだ。世界とはあなた自身のことだからだ。
ヒュン、とまたコバンザメが音を立てた。
明日は天気になるだろうか?