空白の男

私は名前と顔と、記憶をも失ってしまった。いや、正確に言えばそれらのものは——少なくとも「顔」と「記憶」の一部は——きちんと存在してはいるのだが、私の本来のものではないのだ。私には本能的にそれが分かる。 ある朝起きたとき私...

忘却装置

「忘却装置」というものがあると便利だよな、と私は常々思ってきた。 「忘却装置」というのは要するに、都合の良い記憶を――つまり覚えていると都合の悪い記憶、という意味だが――ピンポイントで消せる装置のことである。たとえばあな...

モロヘイヤ夫人

「モ、モロヘイヤ夫人!」と僕は言った。彼女に会うのは実に30年ぶりのことだった。当時僕はまだ生後六ヶ月くらいの小さな赤ん坊だったのだが、彼女はペースト状にしたモロヘイヤを無理矢理(ミルクに混ぜて、だが)僕に飲ませようとし...

梅雨寒刑事

「やあ、私は梅雨(つゆ)寒(ざむ)刑事(デカ)だ。お察しの通り」とその男は言った。がっしりした体格の、五十前後の男だった。警視庁の制服を着ていたが・・・僕にはどうしても彼が本物の警察官には見えなかった。というのも・・・あ...

二・二六サンタ

「ああ寒い!」とサンタクロースは言った。「一体なんでよりによってこんな日に、こんな場所で座礁(ざしょう)してしまうんだろうな・・・。きっと地球温暖化のせいだろう。そのせいで時の氷河が溶け出して、わけの分からないところにニ...

台風さん

 この間台風が家にやって来た。23号だということだった。秋で、気持ちの良い風が吹いていた。たしかに西の空にどんよりとした雲がかかりかけてはいたが、まだ雨の気配はない。それは日曜日の午後3時のことだった。僕は部屋で一人でド...

早口言葉の国

「かえるピョピョピョピョ・・・三(み)ピョピョピョコ・・・。ねえ、お母さんこれって難しいね」 「そうだね。もっと頑張って言えるようになろうね」  という親子の会話を聞いた。勤務先の駐車場でのことだ。少年は四歳くらいで、お...

心配屋さん

「いかがですかぁぁ・・・心配の種いかがですかぁぁ・・・。新鮮な心配の種ですよぉぉ・・・。メキシコから直輸入ぅぅ・・・。無農薬で味も抜群。いかがですかぁぁ・・・」  その不思議な売り子の声を聞いたのはある街を散歩していると...

タイムレス

「当時俺は深刻なテレビゲーム中毒に陥っていた」と彼は言った。  それはどんよりと曇った六月の末のことで、僕らは二人とも二十六歳だった。彼は仕事をしておらず、僕は今勤めている会社をあと二週間で退職しようとしていた。もっとも...