そのコンビニでは魂を売っていた。小さな瓶に入っていて、青く光り輝いていた。隅の方の棚に置かれていたのだけれど、値段シールが何枚も重ねて貼られていた。おそらくはそれだけの回数、値下げしたのだと思う。今は税込で50円だった。50円。果たして人間の魂がそんなに安くていいのだろうか・・・。
魂はインスタントコーヒーと紅茶のパックとの間にあった。どちらも埃をかぶっていたが、魂の瓶の比ではない。いったい何年もの間ここに放置されていたのだろう、という佇まいをしている。果たしてチェーンの運営元はこれを承知しているのだろうか? それともあくまで営業はオーナーの責任だから、うるさいことを言えないのだろうか・・・。
店内にはちょうど私しかいなかった。この店は駅に近いからそんなことは滅多にない。しかし私は今一人だ。正確にはレジに、中年の店長と思しき人がいる。眼鏡をかけた、顔の丸い、小太りの男だった。人生を前向きに生きているとはどうしても思えない。髪の毛は短く、額のあたりがかなり後退していた。人生の後半戦、と私は思う。誰もがいつかその分水嶺を越えなければならないのだ・・・。
気付くとその男がすぐ横にやって来ていた。おそらくは魂に見惚れている人間が珍しかったからだろう。彼はニヤリと笑って私に向かって言った。
「これは実は私自身の魂なんです。もう10年前から置いています。最初は一万円だったんですが、あまりにも売れないので、毎年値下げしていったんですな。それで、今年はついに50円になってしまいました。ハッハ。実を言えば隣に親父と、お袋と、兄貴のものも置いてあったんですがね、彼らのものは五千円くらいのときに売れてしまいました。それで私一人だけこの店に残って働いているというわけです。はい」
「魂が売れると・・・この店で働く必要がなくなる、ということなんですかね? 私にはどうもその辺が・・・」
「要するにですね」とニコニコしながら彼は教えてくれる。「魂を売った人間は魂を買った人間の奴隷になるわけです。分かりますか? 奴隷です。どれい。でもそれは決してひどい状態ではないんですよ。むしろ気持ちいいくらいなものです。なにしろそれ以降は一生、何一つ考える必要がなくなるからです。魂を買った人間にすべてを預けるわけですからね。まあ、あとは機械みたいなものです。ああ待ち遠しいな。私も早く機械になりたい・・・」
「でも私には」と私は異議を唱える。「人は思考能力を誰かに預けたりするべきじゃないと思われますがね。なぜなら・・・なぜなら、もしそんなことをしてしまったら、あなたはもうあなたではなくなるからです。分かりますか? 本当の機械になってしまうんですよ。そこに真の幸福が待っているのでしょうか?」
「あなた」といささか哀しげな顔をして彼は言った。何を持ってしても取り去ることのできない寂寥感が、彼の身には染み付いている。ついでに脂肪も、たっぷりと・・・。「ここでの生活はね、本当に魂を売るようなものだったのですよ。毎日毎日働いて、休みなんか一日もありゃしません。なぜなら形だけの経営者だからです。一応人を雇っている側なんですな。これでも。しかしやっていることはなんです? 本部の言いなりになっているだけですよ。結局のところ、ね。だから我々は実際に魂を売ることにしたんですよ。我々なりのアンチテーゼを提出したわけです。要するに。それで買ってくれた人に身も心もすべてを捧げます、という条件を付けてですね、棚に並べたわけです。はい。母親は今ではある一家の料理人をしています。父はあるブティックでマネキンとして働いています。ずっと動きを止めているのです。要するに。兄貴はある幼稚園児のおもちゃになっています。噛みつかれても蹴飛ばされても怒ってはいけません。なにしろおもちゃなのですから。給料なんかありませんよ。ただ言われたことに従うのみです。自分の思考能力なんか残っちゃいません。だからまあ、苦しいと感じることもないみたいです。あのままみんな長生きするんじゃないかな。きっと・・・」
そこであることを閃いて、私は彼にこう言った。「ねえ、私はあなたのこの魂を買いますよ。50円でしょう? 安いもんだ。レジに行きましょう。そこで所有権を完全に移動させる」
私は瓶を取って、レジへと向かった。予想外に重い瓶だった。あるいは中身が見た目以上に重いのかもしれない。たしかにただの小太りの中年の店長だ。さほど聡明そうには見えない。頭もそれほど良いというわけでもないのだろう。しかし、それでもなお一人の生きている人間なのである。その事実が今、この瓶の重さとなって、私に何かを伝えようとしているのではなかったか? 何か、生身の肉体にとって、ひどく重要なことを・・・。
私はレジカウンターに瓶を置いたが、一向に彼がやって来る気配はない。私としては50円で買ったすぐあとに、彼を精神的に解放してやろうという心積もりだったのだ。この仕事を続けるも続けないもすべては彼の意志次第だ。そういった状態に置いてやりたかったのである。
しかし当の彼本人がやって来ない。どうしたのかなと思って振り返ってみると、まだ例の棚のところに立っている。何かを考えているようでもあるし、ただ単に放心しているようでもある。何が起きたのだろう、と私は思う。
「ねえ」と私は声をかける。そのときふと、目の前にある瓶の中の魂が不思議な光を発していることに気付く。さっきまでは青くぼんやりと光り輝いていた。それは優しい光であり、ある意味では愛おしく感じるような光だった。しかし今は・・・赤だ。燃えるような赤。あるいは血のような赤。今この瞬間解放されることを求めているように、私には見える。
「あなたの魂が・・・」と私は彼の方を向いて言う。でもそのとき彼は肩をピクピクと動かして笑い始める。ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、という非常に不気味な声があたりに谺する。どうして誰もやって来ないんだろう、と思いながら私はそれを聞いている。小学生でも、老婆でも、アル中のおじさんでも誰でもいい。一人でここにいるのでさえなければ、どのような変化だって歓迎だ。でもこれは駄目だ、と私は悟る。何かが間違っている。本来間違えるべきではない何かが・・・。
「それは私の魂ではない。あなたの魂だ。どうしてそれに気付かなかったのか。魂が瓶に入っていて50円で売られているだなんて! そんなのは嘘っぱちです。ハッハ。あなたは信じたみたいだが。それはまさにあなたの魂なんです。あなた自身のです。私はそれを可視化したに過ぎません。ヘッヘ。どうやらそれは解放されることを求めているみたいですな。でも無理です。あなたにはできっこありません。あなたはただの凡庸なつまらない人間だからです。私なんかよりもずっと、ですな。あなたにはそんな勇気はない、あなたには無理だ。あなたは魂を解放することができない。あなたに一歩を踏み出すことなんて、到底できないんですよ。私はそれを知っています。ええ、知っていますとも。もちろん」
私はなぜか怒りを感じた。彼の言っていることが真実だという確証なんかどこにもなかったにもかかわらず、だ。怒りが腹の底から湧き上がってきて、そして頭頂部から噴き出してきた。そういったフィジカルな感覚があったのだ。
私は怒りに任せて瓶の蓋を開けた。それは簡単に取れ——ジャムの瓶の蓋のような、ひどく軽いものだったが——カランという音を立てて、レジカウンターの上に落ちた。男はじっとこちらを見ている。私は自らの魂を見ている。蓋を開けてしまうと、それは一気に冷やされたみたいに青色に戻った。私はじっとそれを見ている・・・。しかし何事も起こらない。だから瓶を逆さにして、手のひらの上に載せてみることにした。何度か振るとそれは落ちてきた。私の、青色の、魂。温度はない。本当に何も感じられない。本当にこれが・・・私の魂なのだろうか?
その瞬間、彼がやって来る気配を感じた(足音はなかったのだが)。後ろを見ると、すでにすぐそこまで来ていて、腕を伸ばして私の魂を奪い去ろうとしている最中だった。私は本能的に身体を入れ、その腕をブロックした。何が起きているのだろう? と思ったが、すぐに事の真相を悟った。たぶんこれは本当に私の魂で、おそらくは本人にしか蓋を開けられない、というようなルールがあったのではないか? それでこの男は私を挑発して、自ら開けるように仕向けた。そして開けた瞬間、奪いに来る。なぜか? おそらくは私を一生奴隷にするためだ。あるいは彼の代わりに一生ここでタダ働きをさせられることになるのかもしれない。そんなのは嫌だ、と私は思う。そこで急いでその青い魂を呑み込む。一気に、躊躇なく、呑み込む。彼のハアハアという息遣いが聞こえる。何かに飢えているのだ、この男は、と私は思う。
魂は質量を持たなかった。それはたしかだ。しかも無味無臭だ。私はクルリと振り返って男の顔を見る。彼は一歩後退りした。怯えのようなものが、その顔には広がっている。私は何かを言おうとする。でも言葉は出ない。でも言葉は出ない。あたりは無音だ。相変わらず・・・。
「あなたは間違ったことをした」と彼はおずおずとした口調で言った。「それはやってはいけないことだ。自分の魂を呑み込むなんて・・・」
「いったい何が問題なんです?」と私は言う。
「自分の魂を呑み込んだ人間は神になります。善悪の基準が魂の中にあるからです。分かりますか? 言っている意味が? あなたはとことん孤独になります。すべての人に憎まれます。なぜなら真実を見るからです。真実を見ることができるからです。あなたは自分を誤魔化すことがもうできなくなります。あなたは魂に動かされて生きているようなものだからです。いいですか? あなたは・・・」
私はもうそれ以上聞いていることができなくなって、彼をその場に残して店を出ようとした。でも自動ドアのところで、大事なことを忘れていたのを思い出したので、彼のところに戻った。そして財布から50円玉を取り出してその手の中に置いた。彼の手は外見ほど歳を取っていないように、私には見えた。一種の少年のような・・・。ふっくらとしていて、温かそうだ。きっと自分で自分を牢獄に閉じ込めてしまっているだけなんだろうな、と私は思う。そしてそのまま出口へと向かう。
外はいつも見る光景とまったく変わってはいなかった。しかし、にもかかわらず、私は神である。そのことを彼がついさっき説明してくれたのだ。しかし重要なのは「私が神であるかどうか」ではなくて、むしろ「魂が私を動かしているのだ」というフィジカルな実感だった。あれはまだきちんと私の中で生きていたのだ。青い魂。ときどき赤くなるのだったか・・・。
いずれにせよ、私は孤独だった。ひどく孤独だった。しかしそれは自由な人間が払わなければならない、当然の代価である。私はそれを知っていた。あの男もある程度までは知っていたのだが・・・。彼が結局は知り得ないことが一つある。それはこの自由の感覚だ。私はこれから「目に見えないもの」を信じて生きていこうと決意する。というか決意している自分を発見する。どこまでもどこまでも歩いていけそうな気分だった。仲間? そんなものは要らない。なぜなら魂が今私を動かしていたからだ。