「やあ、私は梅雨寒刑事だ。お察しの通り」とその男は言った。がっしりした体格の、五十前後の男だった。警視庁の制服を着ていたが・・・僕にはどうしても彼が本物の警察官には見えなかった。というのも・・・あまりにもフレンドリー過ぎたからだ。そもそも「梅雨寒刑事」とはなんなのか? あるいは梅雨の時期だけに活動している警察官なのかもしれない。そんな人間が、果たして本当に存在するのだろうか?
「もし・・・」と僕は迷いながらも言った。「もしあなたが本当に梅雨寒刑事なのだとすれば、よろしければ警察手帳を見せて頂けませんかね?」
彼はそこでもちろん、と自信満々に言ったあとに、ガサゴソと制服の内ポケットを探っていた。しかし三分くらい経っても何も出てこない。いや、余計なものならたくさん出てきた。パチンコ屋の広告の付いたポケットティシューとか、交通安全のお守りとか、この間来日したロックシンガーのコンサートのチケットとか(つまり半券だ)、クリップとか、綿棒とか、輪ゴムとか・・・そのようなあらゆる雑多なものが出てきたにもかかわらず、肝心の警察手帳が出てこないのだ。やはりこれはただのコスプレ好きの偽物警官に過ぎなかったのだろうか? 梅雨寒刑事なんてものは、我々の幻想が作り出した、都市伝説に過ぎなかったのだろうか・・・?
彼はそこで一枚の小さな写真を見つけ出して僕に差し出した。はい、と言って。
「これは?」と僕は驚いて受け取りながら言う。そこには若い頃の彼と思わしき人物が写っている。警察学校に入ったばかりのようだ。緊張した面持ちで、制服を着て、敬礼をしている。両隣に似たような格好の若者が写り込んでいる・・・。
「ちょっと警察手帳は忘れてきてしまいましてな」と彼はさほど悪びれもせずに言った。「さっきローソンでコピーを取ったときにそのまま置いてきてしまったんですね。ハッハ。そういうこともあります。あのコピーがあればね、払い過ぎた税金がすぐに戻ってくるってわけなんですよ。まあ、あとで店を閉鎖させて、店長に探させますから、大丈夫ですがね。彼には貸しがあるんですよ。以前ちょっとした違反を大目に見てやったことがあってね・・・」
「それでこの写真は?」
「そうそう。これが私が警察官であることの証明です。いい男でしょう。ハッハ。なかなかモテましてね。数々の女性の心を虜にしてきたってわけなんです。その辺の細かい話まではしませんがね。でも聞きたいですか? 聞きたいってんなら・・・いずれ有料でお教えしますよ。支払いはペソでお願いしますね。なにしろメキシコに農場を持っているもので・・・」
「あなたは・・・本当に梅雨寒刑事なのですか?」と僕はズバリと本題に取り掛かる。いつまで経ってもその部分に辿り着けないような気がしたからだ。「それともあれは・・・僕らの小学生の頃の共通の夢のようなものに過ぎなかったのでしょうか? そう・・・たとえばサンタクロースと同じように」
ハッハ、と彼は笑って、一度帽子を取って、短い、薄くなった髪の毛を何度か掻いた。「私はやっぱり梅雨寒刑事なんですな。そのための研修も受けています。これがまあ二十年くらいかかりましてね。ヘッヘ。政府の秘密の政策でしてな。まあとにかく、私は正真正銘の梅雨寒刑事です。ええ。名前の通り梅雨寒のときにしか活動しません。それ以外のときは・・・まあパチンコをしたりですな。競馬に出かけたり・・・そのような有意義な活動をしているのですよ」
「メキシコに農場を持っているのでは?」
「ああそれはね、弟に任せてあるんですな。彼はクリスチャンですから。あっちの方が居心地がいいみたいですよ。私もね、お正月にはあっちに行って、馬を乗り回します。なかなか楽しいですよ。ヘッヘ」
「じゃあ結構裕福なのですね? この時期にしか活動しない割には」
「まあそういうことになりますな」と彼は平然とした顔で言った。
「でもその原資は税金ですよね。国民たちの」
「ハッハ」と彼は笑いながら言った。「まあそういうことになりますがね、青年。世界は矛盾しているのですよ。あなたも三十になったからには分かるでしょう? 税金が正しく全額使われるなんてことは、これまでもなかったし、これからもありません。私はそのあたりの矛盾を突いてですな、その、うまく立ち回ってきたわけです」。彼はそこで右手の人差し指で、自分のこめかみを押さえた。「ここですよ。ここ。分かりますか? 頭を使わなきゃ。そうしないと損するだけになってしまいますよ」
「でも正直なところ・・・僕にはあなたの中に腐敗の匂いしか感じ取れないのですが」
ハッハ、と彼は笑ってその非難を受け流した。自分が腐敗していることなど百も承知なのだ。あの若い頃の純粋さはどこに消えてしまったのだろう・・・。
そのとき雨が降ってきた。我々はある都会の一画の公園で話をしていたのだった。正確には僕がウォーキングの途中で、ベンチに座って休憩しているときに、彼がつかつかと歩み寄ってきて(ニヤニヤと笑っていたのだが)突然自分は「梅雨寒刑事」だと名乗り始めたのだ。まあいずれにせよ、時は六月で、夕暮れが迫ってきていて、かなり肌寒かった。ついこの間まであんなに気温が高かったのにな、と僕は思う。まるで季節が逆戻りしたみたいじゃないか、と。でもよく考えてみれば、いつも梅雨寒の季節がやって来ると、ほとんど同じようなことばかり感じているような気がする。まるで季節が逆戻りしたみたいだな、と。そのような心の隙間を突いて——要するに世間のみんなを出し抜いて——梅雨寒刑事は社会の甘い汁を吸って生きてきたのだろう。なんとなく雰囲気からそれが分かった。
とにかく、その瞬間までは雨は降っていなかった。どんよりと曇ってはいたものの――そして朝にはたしかに少しだけ雨が降ったものの――僕がウォーキングに出てからは一滴も降っていなかったはずだ。それがここに来て実際の雨粒が落ち始めていた。僕は空を見上げた。そして俺はこんなところで何をしているんだろう、と思った。刑事はそんな様子を見て、ハハハと愉快そうに笑った。
「何がおかしいんですか?」と僕はちょっとむっとして訊いた。
「何がって、その顔ですよ」と彼は噴き出しそうになりながら言った。「まったく。それじゃあフラストレーションの塊じゃないですか? やめてくださいよ。まだ若いのに。ええ、実を言いますとね、私の一番の養分はそれなんです。人々のそのような顔です。溜息です。私が梅雨寒刑事に任命されたのは、六月生まれ、ということだけが理由じゃない。いいですか? 私は昔から人々のそのような顔が好きだったんですな。人生に対する不満。俺は何をやっているんだろう、という心持ち。退屈さ。ドブに流れ去っていく時間。擦り減った心。憎しみ。恨み・・・。明るいものなんてなんにもありません。でもね、私はそれが好きで好きで仕方がなかったんですな」
「でもどうして?」と僕は純粋に疑問に思って訊く。「普通はそんなものは嫌いでしょう。みんな」
「ヘッヘ。どうして、と訊かれても困りますな。一度病院に行って、脳みそを徹底的に調べてもらったんですがね、なんにも異常はありませんでしたな。依存症の傾向はあると言われたが、それはまあ別の問題ということで・・・。ヘッヘ。とにかくですな。私はなぜか、そういった表情が好きなんです。でもね、考えてもみてごらんなさいよ。世界中すべての人がニコニコとして、人生が完璧にうまくいっていて、そんでもって、明るい未来しか見ていない。こんな状況があり得ると思いますか?」
「ないですね」と僕は言った。「もしあったとしたら・・・まあカルト宗教みたいなものでしょう。みんなで狭い箱の中に入って、真実から目を逸らす。そうしたら可能かもしれないが・・・」
「そうですそうです」と彼は腹を掻きながら言った(少々ビールの飲み過ぎのようだったが・・・)。「ねえもしそうだとしたら、ですよ。私はむしろ世界の真実の面を象徴している、ということにはなりませんかな? たしかに私は腐敗しているかもしれません。あなたの目から見れば、ですね。しかし腐敗しない精神があると思いますか? 生きているものはみんな腐って土に還らなければなりません。それはもう、ずっと前から決まっていることです。あなたにしたって、いつまでも二十代の頃の純粋な精神を保っていられるわけじゃありませんよ。なぜなら意識がそれを要求するからです。いいですか? イノセンスはいつか消え去るんです。そのことをまずは受け入れる必要があります」
「実をいえば」と僕は正直に言った。「さっきウォーキングをしながらずっとそのことを考えていたんです。僕はたぶんこの十年くらいで少しは成長したんだと思う。それはつまり・・・つまり、そう、現実にはあり得ない幻想を見るのをやめる、ということだと思うんです。外の世界に対しても、そして、そう、そして自分自身に対しても。そうすると否応なく自分の汚い面が見えてきます。でもきっとあなたのおっしゃるように、ここを乗り越えないと真の大人にはなれないのでしょうね。気は進みませんが・・・」
「ハッハ。大丈夫大丈夫。あなたはきちんと生き延びますよ。そして腐った大人になってね、馬鹿な大衆を騙して、大金をせしめるんです。私みたいにね」
「でもやっぱりそうはなりたくないとも思うんです」と僕は彼の目を見て言う。その目は汚く淀んでいたが・・・しかし一瞬だけ――まるで梅雨の晴れ間のように――キラリと光る何かを見たような気もした。これは不思議な男だ。ただの「悪」とだけでは言い切れない何かを有している・・・。「僕が考えていたのはそういうことだったんです。大人にはならなければいけないが――それは言うまでもなく妥協を意味しますが――それでも、一番重要な何かだけは、他人に譲ってはいけないのではないか、と。それはイノセンスの記憶のようなものではないか、と思うのですが・・・」
梅雨寒刑事はそこで制服の内ポケットからサントリーのウィスキーの小瓶を取り出して、ゴクゴクと飲み始めた。勤務中の警察官が、一般市民の目の前で、酒を飲み始めたのだ! でも彼はまったく悪びれる様子を見せなかった。一度ゲップをしたあとで、僕に向き直って言った。「あんたはこの空のウィスキーの瓶みたいなものですな」と。
「え?」と僕は驚いて言った。「それはどういう・・・?」
「つまり」と彼は酒臭い息を吐き出しながら言った。「空っぽだ、ということです。そして今の状態のままでは、酔っ払った、腐敗した大人に自らの運命を完全に委ねてしまう、ということになります」。彼はそこでその空き瓶を地面に落とした。砂の上だったので割れなかったが、その行動には明らかに僕の心情を意図的に害するような何かが含まれていた。その「何か」は空気を漂って僕の体内に入り込み、心の最も柔らかい部分をえぐり取った。そのような感覚が確実にあったのだ。
「それは・・・」と僕はその瓶を見つめながら言った。「つまり・・・」
「つまりあなたは空っぽの宙ぶらりんだということです」と彼は言った。「私みたいに腐敗してしまえば安全になりますよ。もちろん。だってもう何も失うものがありませんからね。ヘッヘ。そういう人間は強い。良心の呵責、というものがありませんからね。ヘッヘ。しかしあなたはまだナイーブな感情を内に秘めている。空っぽなはずなのに、空っぽじゃないんです。ヘッヘ。分かりますかな? そしてそういう人間がそこいらをうろつき回っていると・・・貪欲な大人たちの餌食となります。なにしろイノセンスというのは――たとえその残滓だったとしてもなお――彼らの大好物ですからね。あなたは今とても危険な状態にいるんですよ。実のところ」
「じゃあ僕はどうすれば?」
「ハッハ。それが悪いんですよ。僕はどうすれば、だって。あなたは私が言ったことを全部鵜呑みにするんですか? この私が腐敗していることを知っているというのに?」
「たしかに」と僕は言った。そして言ってしまってから、なんて自分は馬鹿だったんだろう、と思った。というのもこの男はやはり本当は警察なんかではなかったからだ。彼は僕の心の内側から派遣されてきた、何か別のものだったのだ。おそらくは人生の裏側を象徴しているものだ。メキシコに農場を持っているなんて嘘なんだ。試しに訊いてみようじゃないか?
「ところで弟さんはメキシコで何を作っていらっしゃるのですか?」
「トウモロコシですな。ハッハ。あとは家畜を育てていますね。牛とかね」
どうも嘘でもなさそうだな、と僕は思う。「弟さんはきっと・・・広島カープのファンなんでしょうね?」
「どうしてまた」と彼はニヤニヤしながら言う。「彼はあまり野球には興味がないんですよ。クリケットの方が好きみたいでね。インドの国内リーグの試合をネットで観ていますよ」
「弟さんの写真はないのですか?」
「いや、ありませんね」と彼は言う。「インドネシアで撮ったエビの写真ならありますがね。これがもう巨大なエビでね。現地人もびっくりしていたくらいなんですよ」
「いや、その写真はいいです・・・」と僕は言う。僕は混乱してしまう。この男は本当にここにいるのだろうか? あるいはこれは全部夢のようなものに過ぎないのだろうか・・・?
そこで雨が強さを増す。カラスが一羽やって来て、地面に降り立つ。僕も彼も――もちろんカラスもまた――傘を持っていない。梅雨寒刑事だというのに、折り畳み傘の一つも持っていないのだろうか・・・?
「いったい何を考えているのですかな?」と彼は相変わらずニヤニヤしながら言った。
「いや、大したことでは・・・」と言いかけて、僕はある大事なことに気付いた。ものすごく大事なことだ。彼のズボンのチャックが開いていたのだ。「チャックが開いている!」と僕は言った。なぜかそれが今すごく重要であるような気がしたのだ。「チャックが開いている! あなたは本当は警察官なんかじゃないんだ。だってチャックが開いている警察官なんていますか? そんなだらしがない人が?」
ハッハ、と笑いながら彼は言った。まったく慌てた様子も見せずに・・・。「これはわざとです。いいですか? 梅雨の時期は蒸れるから、こうして風通しを良くしているんです。なかなかスッとして気持ちがいいですよ。あなたもやってみたら?」
「まさか」と僕は歯軋りをして言う。ああ言えばこう言う。本当に・・・。こんな人のことは無視して帰ったっていいのだけれど――というか僕の合理的な部分は全力をあげてその選択肢を推していたのだが――僕の中のごく一部が、ここから帰ってはいけないと、執拗に唱え続けていたのだ。この男の言うことには真実が含まれている、とその部分は言っていた。お前はこいつから何かを学び取らなければならないのだ、と。
僕はそこであることを思いついて、実行に移す。雨はまだ降り続いている。ここはグズグズしている場合じゃないぞ・・・。
「それって、本当に気持ちが良いですか?」と僕は訊いてみる。「その、チャックのことですが」
「気持ち良いよ。特に梅雨時はね。これしかないって感じだな。私の中ではね」
僕はそろそろと自分のチャックを開けようとする。彼はその光景をニヤニヤしながら見ている・・・と、そのときだ! 僕は脱兎のごとくジャンプして、彼の腰にぶら下がっていたピストルを抜き出す。なぜそんなことをしたのかは自分でもよく分からないのだが・・・でもとにかく、これを奪いさえすれば彼は無力化するような気がしたのだ。予想外にも、そのピストルはいとも簡単に奪い取れてしまった。彼は逃げようとする素振りも見せず――あるいはさっきのウィスキーが効いているのかもしれなかったが――ただニヤニヤとして、突っ立っている。カラスが不思議そうな顔でこちらを見ている。梅雨寒刑事は両手を挙げて言った。
「いやいや。参ったな。奪われてしまった。一番大事なものが」
僕はそれを彼に向ける。思っていたよりも軽い。安全装置を外して・・・。カラスが一度カーと鳴いた。まるで警告するような口調で。それは僕の耳にいつまでも残り続けている・・・。
「僕がこんなことをするのは」と僕は言っている。「あなたが本物の警察じゃないと信じているからなんです。あなたは偽物だ。しかし・・・同時に僕にとっては重要な人物でもあります。あなたはたぶん・・・僕の中から出てきた人なのでしょう。だから他人だという感じがしないんだ。そうではありませんか?」
「どうでしょうな」と彼はニヤニヤしながら言う。
「僕はあなたを撃ちますよ。本当のことを言わないと」
「だから本当のことを言っているじゃないですか?」と彼は相変わらず平然とした口調で言った。「私は梅雨寒刑事だって。人生の負の側面を象徴しています。梅雨以外の時期は、国民の税金をうまく使って、まあ悠々自適に暮らしているわけです」
そのとき僕は気付いてしまったのだが、彼のチャックの内部には、空白しかなかったのだ! チラリと見えてしまったのだが、シャツの裾も、パンツも、何も見えなかった。闇すらない。真っ白な、空白だ。こいつはやはり人間ではなかったのだ!
僕がそれに気付いた瞬間、なぜかカラスが動き出した。バタバタと羽ばたいて、男の額に飛びかかった。そしてしきりにそこを突いている。僕は呆然としてその光景を見ている。ハッハッハ、と梅雨寒刑事は笑っている。ハッハッハ、と。それはまるで悪夢のような光景だったが、しかし、一方で、真実の持つ重みをもまた有していた。思っていた通り、彼の額からは血は流れなかった。ドロリとした透明な液体だけが流れ落ちてきた。僕はふと思いついて、地面に転がっていた空のウィスキーの瓶の口を、そこに持っていった。カラスがしきりに邪魔してきたが、なんとかそいつを払い除けて。僕は梅雨寒刑事のエッセンスを――少なくともそのような何かを――ほんの少しだけだが、回収することに成功した。カラスはまたバタバタと飛びかかってきて、今度は彼の股間を攻撃し始めた。彼本人は笑っていた。おかしくておかしくて仕方がないみたいだった。雨はさらに強く降り続いていた。カラスはやがて死んだ。股間から流れ落ちてきた空白に――そちらの方は真っ白だったが――触れた瞬間、命を落としたのだ。僕はとっさにその場を離れた。これは額から流れ落ちてきた透明な液体とは違っている、と僕は思う。もっと致命的で、もっと純粋な何かだ。ハッハッハ、と彼は笑っていた。僕はただそれを見ている。その瞬間、最も重要なことを悟ったのだ。世界のすべてが実はメタファーである、というのがそれだった。
でももしそうだとすると、と僕は疑問に思う。僕自身は何のメタファーなんだろう?
「それは」と彼は地面に倒れ込みながら言った。「時です。あんたは時が見た夢なんです。実のところ」
本当にそうなんだろうか、と僕は思う。でも答えは、もちろん、誰にも分からない。
ハッハッハ、と彼は笑った。僕はただそれを聞いている。静かな、しかし執拗な、雨の音の中で。