(『隅田川 1』の続き)
その1週間の間中、彼が書いた酔っぱらいの姿が、僕の中で何度も浮かんだり消えたりしていた。彼は太平洋を突っ切って、その自己流のクロールで金色のウィスキーの流れを追い続けていた。それが具体的に何を意味しているのかは分からなかったが、それについてはあまり考えない方がいいような気がした。彼はあくまでただの酔っ払いであって、それ以外の何者でもないのだ。
そしてあの夜からちょうど1週間後、彼がまた僕の部屋のドアベルを鳴らした。それは午前2時過ぎだった。どうやら詩的霊感というものは時を選ばないらしい。見ると彼はびしょ濡れで、水泳帽にシュノーケル付きのゴーグル、そして海水パンツという格好だった。その身体は見事に引き締まっている。僕は驚いて言った。
「一体どうしたんだ?」
「決まってるだろう」と彼は言った。「たった今東京湾から隅田川を逆流して戻ってきた。考え事をしながらな。あの酔っぱらいのことだ」
「でも彼はハワイに行っちゃったんだろう?」と僕は言った。
「そうだ。でもそのあとのことが頭に浮かんだんだ」
「泳いでいる最中に?」
「そう」と彼はゴーグルを付けたままで言った。「泳いでいる最中に」
僕はパジャマ姿のまま隣の彼の部屋へと行き――彼はゴーグルの中に鍵を入れていた。「だってなくしたら困るだろう」ということだった――そこにあったパソコンを起動した。彼は早くその文章を書きたくてたまらないみたいだったが、ちょうどシステムのアップデートをする必要があったらしく、ワープロソフトを起動できるまでにずいぶん時間がかかった。僕はいらいらした彼がパソコンを破壊しようとするのを、なんとか止めなければならなかった。
「いいから、まずは身体を拭けよ」と僕は言った。でも彼はそんなことはお構いなしにじりじりとしてその場で待っていた。ちなみにまだ水泳帽とゴーグルを付けたままだった(今考えると紙とペンを用意すればすぐにその場で書けたはずなのだが、そのときの僕らにはなぜかそのことが頭に浮かばなかった)。
ようやくのことでアップデートが終わると、彼はワープロソフトを起動し、その新たな詩を書いた。今回も僕がその証人というわけだ。でも正直なところ、今回ばかりはさほど迷惑だとは思っていなかった。これから新しいものが生まれるのだ、というわくわくした予感が、思いがけず全身を満たしていたからだ。
「ハワイに行った酔っぱらい」と彼はまず1行目に書いた。
「ハワイに行った酔っぱらいは
そこで気持ち良く酔っぱらっていた
あの金色のウィスキーを飲んだためだ
それは彼の全身を温かく満たし
彼をこれまでにないくらい幸福な気分にした
酔い方にも良いものと悪いものがある、と彼は言った
そしてこれは間違いなく良いものだ、と
やがてハワイの女の子が――といってもそろそろ30に近いが――彼のことを好きになった
良い方の酔っぱらいは、結構魅力的なものだからだ
彼はそこで家庭をつくり
子どももつくった
グリーンカードも取得した
相変わらず酔っぱらいながら
でもあるとき、ふとあの金色のウィスキーの効果が消えてしまった
彼はそれを再現させようといろいろ試したが
全部無駄だった
そして悪い酔いが彼を満たしていった
奥さんを殴り、子どもを蹴飛ばした
税金も払わなくなった
もう何もかもがどうでもよくなっていた
そんなときある夢を見た
それはハワイの火山の麓に住む
聖なる酔っぱらいの夢だった
それは現実よりもリアルな夢だった
まるで何かを伝えているかのような
彼は目を覚ますと、実際にその場所へと向かった
聖なる酔っぱらいは、何を飲んでも酔っぱらうことができる
なぜなら彼は聖なる酔っぱらいだからだ
我らが酔っぱらいはその人物に向かって言った
俺はあの金色のウィスキーを辿ってここまでやって来た
でもその効果が切れてしまったんだ
一体どうしたらいい? と
すると聖なる酔っぱらいは言った
これからカリフォルニアまで泳いで
そこのナパワインを飲むんだ
そうすればすべては解決するだろう、と
彼は半信半疑のままその方向に向かって泳ぎ出した
あの例の自己流のクロールで
すると途中ですごく速い海流に流され、方向を見失ってしまった
彼は間違えてアルゼンチンに行ってしまったんだ(注:チリの間違いではないかと思われる)
そこでアルゼンチンの酔っぱらいに言った
なあ、ここはカリフォルニアじゃないよな、と
するとアルゼンチンの酔っぱらいは言った
カリフォルニアなんか行くなよ、と
ここにも良い酒と、良い女の子がいるぜ、と
でも我らが酔っぱらいはまずカリフォルニアに行きたかった
そこである提案をした
もしカリフォルニアに連れてってくれたら
俺の女房と子どもを譲ってもいいぜ、と
そんなもの要らないよ、とアルゼンチンの酔っぱらいはすぐさま言った
あんた責任を回避したいだけだろう、と
そう言われると、我らが酔っぱらいは弱ってしまった
というのも彼に差し出せるものなんかほかになかったからだ
ちょっと待ってくれよ、と彼は言い、なんとか頭を振り絞った
そしてたった一つだけ価値あるものを持っていたことを思い出した
彼はアルゼンチンの酔っぱらいに耳打ちをし、それを差し出すことを約束した
アルゼンチンの酔っぱらいは取引に同意し、その辺に停泊してあったクルーザーを拝借して、カリフォルニアに急いだ
カリフォルニアに着くと、二人はさっそくナパワインを飲んだ
それはごく普通のワインで、美味いと言えば美味かったが、どうしてもこれを飲みたい、というしろものでもなかった
そこでアルゼンチンの酔っぱらいは言った
さあ、約束のものを差し出してくれよ、と
彼はそれを差し出し、アルゼンチンの酔っぱらいは喜んで故郷へと帰っていった
さて、今我らが酔っぱらいはただ一人カリフォルニアの海岸に立ち尽くし、そこに沈んでいく夕陽を眺めていた
彼は今なにものでもなかった
というのも、彼は自らが持っていたあの金色のウィスキーの記憶を明け渡してしまったからだ
彼はなぜ自分がここにいるのかも思い出せなくなっていた
自分がどこで生まれ、何をしてきたのかも
酔っぱらっていた間の記憶は混濁し、ドロドロになって渦を巻いていた
それは周りにある何もかもを引きずり込んでいく、いわば地獄の渦だった
俺はあんなものに囲まれて生きてきたのか、と彼は思った
今夕陽が落ち、思いがけず彼は素面に戻ろうとしていた
金も尽き、ナパワインも尽きようとしていた
彼は酔いがさめるのが怖かった
ものすごく怖かった
というのもそこには真実が横たわっていたからだ
今彼の目に見えるのはそのドロドロの渦だけだった
何もかもがその中に吸い込まれていく
彼は海へと歩いて行き、その渦の中に入った
自分から中に入り込んだのだ
というのもこんな場所で一人素面になるくらいなら、地獄に落ちた方がまだましだ、と思ったからである
彼は海の底へと沈み
あとには深い夜だけが残った」
彼はそこまで書いてしまうと、また「疲れた」と言ってベッドに横になった。僕としてはこんなところで話が終わってほしくはなかったのだが、彼が作者なのだから文句を言う筋合いはない。酔っぱらいはどうなってしまったのだろう? つまり彼はそこで自分の人生をあきらめてしまったのだろうか?
どうも話の流れからして、そのようだと判断しないわけにはいかなかった。僕は実はその酔っぱらいが好きになり始めていたので、それはひどく残念なことだった。しかし人はいつか死ななければならないし、それに酔ってばかりいる人間にはきっとろくな未来は待っていないだろう。これはそういう、一種の教訓譚なのだろうか?
僕は彼のベッドの方を覗き見たが、またしても寝息一つ立てずに眠っていた。海水パンツ一丁で眠る彼は、まるで砂浜に打ち上げられたワカメみたいに見えた。僕は一つ深い溜息をつき、隣の自分の部屋に戻った。
(『隅田川 3』に続く)