時間がウィルスに冒されている、という報道があった。それはいささか奇妙な状況で発せられたニュースだった。記者の名前は公開されていない。あるいは本当は公開されたのかもしれないが、今では削除されてしまっている。空白。空白。
僕は別のネットニュースを見ているときに、ふとリンクに気付いてその記事を読んだ。見出しにはこうあった。
「時間を食い荒らす新種のウィルス!」
それはちょっと不思議な表現だった。「時間を食い荒らす」? たとえば人間の記憶領域を冒す、というのなら意味は分かる。脳のその部分をウィルスが攻撃する。結果的に人々は過去を失うことになる・・・。でもその記事によれば、感染の主体となるのは人間ではなく、時間だった。果たして時間なんてものにそもそも「感染される」実体があるのだろうか?
「このウィルスの存在が発見されたのは、ロシア東部の密林地帯、人もほとんど住んでいない辺鄙な地域である。巨大な木々の隙間を、緑色の植物たちがびっしりと埋めている。たくさんの獣が住んでいる。もっとも冬になると、そんなすべてが真っ白に覆われてしまう。そこでは空気さえ凍り付いてしまう・・・。
始めにその異変に気付いたのは地元の猟師だった。彼らはライフルを使って、熊や、鹿を狙う。少し離れた小さな町に住み、週末に車でやって来るのだ。
セルゲイさん(男・六十一歳・自営業)の話:その日はいつものように鹿狩りに来ていた。冬のことだ。もちろん熊がいれば熊も撃つがな。それで、この道の(と写真を見ながら言う)脇に車を停めて、仲間と一緒に奥の方に入ったんだ。そう、このあたりだよ。そしたらさ、なんか木の幹がぐらぐらと揺れているんだ。最初は目がおかしくなったのかと思った。それで仲間のアンドレイに訊いてみたら、やっぱりそいつもおんなじように木がぐらぐら揺れて見えるってんだ。俺たちは近づいて、試しにそこに一発ぶち込んでみた。俺が撃ったんだ。なんでかは分からない。あるいは何か不気味な感じがしたからかもしれないな。でもいつまで経っても「当たった」っていう感触がないんだ。音もしないしな。俺とアンドレイはゆっくりとそっちに歩いていった。そしたら突然木のぐらぐらが止まったんだ。ごく普通の木に戻ったってわけさ。それで、あれ、おかしいな、とか思っていると、今度はアンドレイの顔がぐらぐら揺れているんだ。おい、お前、おかしいぞって、俺は言った。そしたらあいつ、お前こそおかしいぞって言ってた。あいつには俺の顔がぐらぐら揺れて見えたんだな。それで、俺たちはこんなのは変だ、って言って、猟をやめにして、車に戻ったんだ。でもそこに車はなかった。おかしいよな。だってついさっき停めたばっかりだったのに。なあ、その代わりに何があったと思う? そこにあったのはただの空白だった。そう、空白だったんだ。それは雪とは違う。白さの種類が違っているんだ。俺にはそれが分かったし、アンドレイの野郎にもそれが分かったはずだ。俺たちは一度お互いの顔を見て、そしてまたその空白と面と向き合った。俺は脚がぶるぶる震えているのが分かった。それは、それくらいおっかない光景だったんだ。できれば今すぐに逃げ出したいと思った。でもそれができないんだ。なんでかっていうとだな、俺はたぶんその光景に魅せられていたからだよ。これまで一度もそんなものを見たことはなかった。でもそれが大事なものだ、ってことは本能的に理解できたんだ。
俺たちはしばらくそこでじっとしてた。しばらく、といったが、本当に「しばらく」だったのかどうかは分からん。もしかしたらそう思い込んでいただけだったのかもしれないからな。とにかく俺はなんにもしないでただそれを見ていた。真っ白な空白を、だ。アンドレイもそうして見ていた。大の男が何もせずにただ突っ立って空白を見つめている。もし誰かが通りかかったとしたら、きっと奇妙な光景に映っただろうな。でもあんなところにやって来るやつなんかまずいやしない。いるとしたら熊とか、鹿くらいのものだ。
やがて時が奇妙な速度で流れ出した、という感覚があった。俺はそれを感じ取ったんだ。アンドレイがどう思ったのかは分からないが、たぶん奴も似たようなことを感じたんじゃないかな。というのも明らかに空白が動き出していたからだ。もぞもぞと。まるでストレッチをしているみたいに。
俺はその奥にある一人の人間を見た。一体誰だと思う? そう、実はそれは俺自身だったんだ。子どもの頃の俺だ。八歳か、九歳くらい。一体なんでそんなことが起きたのかは分からない。でも本当に起きたんだな、これが。そこにいたちびっ子は、俺のことをじっと見つめていた。ものすごく透き通った目で、俺の目を見つめているんだ。俺の頭の中には瞬時にかつての記憶が蘇ってきた。親父によく叩かれたこと。お袋は優しかったが、家計が貧しかったこと。いつも腹を減らしていたこと・・・。契機となったのは匂いだった。そう俺は当時嗅いでいた匂いを、なぜかその瞬間、嗅ぎ取ることができたんだ。それはおそらく夢ではなかった。夢であるには、あまりにもいろんなことがはっきりし過ぎていたんだ。俺は隣にアンドレイがいることも忘れて、その小さな自分のことをじっと見つめていた。彼もまた同じようにこっちを見つめていた。そのまましばらく時間が過ぎた。それは不思議と心が落ち着く時間だった。生きていてよかった、とさえ俺は思った。
でも突然場面が変わる。その子どもがいた場所に、今度はよぼよぼのじいさんがいたんだ。やせ細って、もう立っているのもやっと、という有様だ。彼があと数秒で死のうとしていることは明らかだった。そう、数秒だよ。でもそんなじいさんが杖を突いて、なんとか雪の上に立っているんだ。そのとき俺は悟った。こいつもまた俺なのだと。ついさっきまでは小さな子どもだったのに、今では老人に変わってしまった。そしてそいつがまた俺を見つめている。一体何が起きているのだろう、と俺は思った。
そのとき老人の胸のあたりで何かが動いた。それは蛇だった。真っ黒な蛇だ。彼の服の襟元から顔を出して、赤い舌を突き出している。そいつはずるずるずるずると出てきた。ものすごく長い身体をした蛇だった。何かが間違っている、と俺は思った。何かが決定的に間違っている、と。でも俺には何もすることができなかった。というのもそこに関与することが正しいことだとは思えなかったからだよ。俺はその場にいて、ただじっと立っていた。老人もまた立っていた。蛇だけが動いている・・・。
やがて蛇はようやく全身を現し、老人の身体にあらためてぐるぐると巻き付いた。彼は死にそうな目付きで俺のことを見つめていた。その瞬間、何かを言おうとしたんだ。そう、もうあと数秒で死ぬ、という老人が――それはつまり俺だったんだが――何かを言おうとしたんだ。まだ若い――といっても六十は過ぎているが――自分に向かって。俺はその声を聞こうとした。耳を澄ませて、聞こうとしたんだ。だって一体何を伝えようとしているのか、気になるじゃないか。今まさに死のうとする自分自身が、過去の自分に向かって何を伝えようとしているのか?
でもその言葉が発せられることはなかった。その直前に、蛇が彼の首を絞めたからだよ。それはものすごい力だった。見ているだけでそれが分かった。ボキリ、という骨が折れる音が聞こえた。老人はがっくりと首を垂れ、地面にくずおれた。俺はとっさに反応し、銃を構えて蛇に向かって撃った。パン、とな。そのとき似たような銃声が聞こえた。パン、と。どうやらアンドレイもまたそいつに向かって撃ったらしかった。奴が一体何を見ていたのかは分からなかったけどな。あるいは俺と同じような光景を見ていたのかもしれない。自分の子どもの頃の姿と、次に老人になった姿を。
もっとも銃を撃ったところで蛇は死ななかった。銃弾はその胴体を貫いたはずなんだが――当然その後ろの老人の身体も貫いたわけだが――相変わらず何ともなさそうな顔をして、舌を突き出している。俺は憎しみを込めてもう一発撃った。今度は頭を目がけてな。それは見事に命中し――銃の腕は良いんだ――その不気味な爬虫類の頭を弾き飛ばした。もっともそれでもそいつは死ななかった。頭を失ってもなお、ゴニョゴニョと動き続けているんだ。そしてそいつは今まさに俺の方に向かって進んできていた。俺はもう一発撃とうとしたが、やめた。そんなことをしたところで、こいつを殺すことなんてできない、ってことを悟ったからだよ。俺はその場に立って、ただじっとそいつを見ていた。そしてこう思った。俺はなんで生きているんだろう、と。
ふと気付くと、いつの間にか車がもとの場所に復帰していた。アンドレイと俺は、茫然としたようにそのすぐ脇に立っていた。俺たちは何も言わずに乗り込み、街に帰った。彼はその二日後に自殺した。おそらくあのとき見た光景が、彼には衝撃が強すぎたのだろう、と俺は思った。もっとも俺たちは一体何を見たのか、一切話をしなかったんだ。あるいは彼は俺と似たようなものを見ていたのかもしれないし、全然違う別の何かを見ていたのかもしれない。それは今では想像するほかないな。奴には大学生の息子と、結婚したばかりの娘がいた。四歳年下の妻とも仲良くやっていたようだった。あと数カ月で孫が産まれることになっていた。でもそんなこととは関係なく、あいつは死ぬことを選んだんだ。頭がおかしくなっていたとは思わないよ。なぜなら俺はあの光景を見たからだ。あそこには何かがあった。何か本当のことが。
うん。あのあと何度か寝ている最中にうなされた。黒い蛇が首に巻き付いてくる夢を見るんだ。俺は何かを言おうとする。何かとても重要なことだ。でもその最初の一言を発することができない。息が苦しい。舌が膨れ上がっている。でもそれを言わないことには、死んでも死にきれない・・・。なぜならその言葉は、俺の最も本質的なことを言い表すはずだったからだ。
え? 一体どんなことだったのかって? そんなこと俺自身にも分からんよ。眠っている間は知っていると思っていたのに、起きた途端全部忘れてしまうんだ。そういう夢を何度か見た。今ではさすがに落ち着いているがね。ただひとつ言えるのは、あの件以降、俺の人生はいくぶん色彩を変えた、ということなんだ。なんというか、ちょっと内省的になった、というかね。そんなことは以前にはなかったことだ。俺はほとんどなんにも考えないで今まで生きていたんだ。
ときどきアンドレイに会えたら、と思う。そしてあのとき何を見たのか訊くんだ。いや、でもそれは良くないかな。やっぱりあれでよかったのかもしれない。もちろん彼が死んだのが良かった、というわけじゃない。自分が見た光景を、自分自身の中にしまっておくことが、だ。というのもそういう秘密みたいなものがなかったら、俺たちは自分をうまく保っておくことができないからだ。
それでも今日あんたにこの話をしたのは・・・おそらくさすがに誰かに知ってもらいたかったからなんだろう。あのときあの場所で、時がウィルスに冒されていた。それを俺は知っている。そして同じことはいつなんどき、どこでも起こりかねない。もしそういう場面に遭遇したらだな、決して目を逸らしちゃいけない。どんなに血なまぐさい光景が繰り広げられたとしても、だ。なぜならそこにあるのは真実だからだ。俺が悟ったのはそういうことだ。俺たちは嘘を信じて生きている。なにもそれが悪いってんじゃない。人が生きていくためにはそういうものもある程度は必要なんだろう。でもときどき、真実が割って入ってくる。それを見るか見ないかは、あんた次第だ。俺は最期の一言を言えずに死んでいった自分自身の姿をまだ鮮明に覚えている。老人になりながらもなお、その顔は何かを訴えかけていた。俺は実のところあんな風になりたくないんだ。なあ、俺は後悔したくないんだよ。なぜなら時は動き続けているからだ。そして決して戻ってこないからだ。
以上がセルゲイさんの発言のすべてである。あえてカットせずに、ほとんどしゃべった通りを収録した。筆者はその話を聞いたあとに、実際に現場に足を運んでみたのだが、もちろん今は何もなかった。ただの密林。その脇に車のタイヤの跡が、ずっと遠くの方まで伸びている。目をつぶって、ためしにそこにあったという空白を想像してみる。それは時の流れを無視して存在している。ゆらゆらと揺れ、何かを内部に映し出す・・・。
もっともそれも単なる想像に過ぎない。実際にそこに向き合わなければ、セルゲイさんの気持ちは理解することができないだろう。ただし、あくまで感覚的に、ではあるが、私は彼が言ったことを少しは把握することができた。というのも文章を書き始めるときに思うことが、まさに『今自分は空白と向き合っているのだ』ということだからだ。私は空白と向き合い、この記事を書いている。そこでは時がまだらに流れている。過去と未来とが錯綜している・・・。我々はそれぞれの世界を生きている。記憶とは一つの物語である。始まりもなければ、終わりもない。定まった形さえない。それは常に動いている。そしてあなたの内部にある光を当てる。その結果闇が生じる。闇は闇を食べ、さらに大きくなる・・・。もっとも物語が死ぬことはない。それはそもそも実体を持たないものだからだ。実体を持っているのはあなたである。あなたは物語に自分を浸し、そこに何かを見る。セルゲイさんが見たのは、いささか残酷な光景だった。あるいはアンドレイさんが見たのもまた、残酷な光景だったのかもしれない。それでも我々は目を逸らすわけにはいかないのだ。なぜなら物語がそれを求めているからだ」
記事はそこで終わっていた。僕はそれを読んで一体何を思えばいいのか分からなかった。だから何も思わないことにした。そうやって日常生活に戻った。もっともときどき、一日の終わりにふとこう思って、身震いすることがある。僕は本当は生きているのかもしれない、と。
読ませていただきました。
なかなか哲学的なテーマで、描写もすごく魅力的だと思います。
僕は最近、想像をしてから、小説を書くようにしています。
プロットを書いても、それを元に想像しなければいけないので、座って目を閉じて、書く小説の妄想のような想像をしています。
僕は一度もプロットを書いたことがないです・・・。
書きながら反応するように物語を進めていく、というのが理想かな、とは--勝手にですが--思っているのですが。そうした方が非意図的なところに進むことができるような気がするからです。