「一体どうして神田なんだ?」と僕は言った。
「だって古本屋街があるだろう」と彼は言った。「当然じゃないか」
でも僕にはそれがさほど当然なことだとは思えなかった。というのも場所なんて関係ない、と以前彼自身が言っていたからだ。
「それはね」と彼は僕の心を読んだように言った。「前はそう思っていた。場所なんてどこでも大丈夫だ、と。本当に大事なのは『書きたい』という意欲なのだ、と」
彼はそこで一度効果的に間を置いた。そして一度ゴホンと咳払いをし、先を続けた。
「でも今は違う。俺にはよく分かってきたんだ。詩人になろうという人間にとって環境というものがいかに大事なのかを」
そう、彼は今詩人になろうとしていたのである。ちなみに僕らはそのとき二人とも26歳で、僕の方はごく普通に会社勤めをしていた。彼は大学を中退してからというもの、非常に裕福な両親からの仕送りで生活していたのだ。それが今度神田の僕のマンションの隣の部屋に引っ越してきたのである。
「でもなにもこの部屋じゃなくてもよかったんじゃないか?」と僕は少々迷惑に感じながら言った。
「いや、ここがよかったんだ。ロケーションといい、静かさといい、完璧だ。あとは具体的な作品を書き上げるだけだ」
なぜ彼が突然詩人になんてなりたいと言い出したのかは、僕にはよく分からなかった。たしかに我々は大学生の頃から――我々は同じ大学の同級生だった――海外の古典文学を読むのが好きだった。ドストエフスキーやバルザック、トルストイ、カフカ、などなど、数え上げれば切りがない。もっとも彼は『方丈記』や『徒然草』など、日本のものも好んで読んでいたが。
「『徒然草』の中にこんな言葉が引用されている」と彼は言った。「『配所の月、罪なくて見んこと』。素晴らしい言葉じゃないか。ちなみに『配所の月』というのは、罪人が牢屋の中から見る月のことだ。つまり普段から常にそういう心持ちでいるべきだ、ということなんだ」
「それはまあそうだけど」と僕は言った。「まさかそのことを言うためだけに、夜中の午前3時に僕のことを起こしに来たのかい?」
「それだけじゃないさ」と彼は言った。「もちろんそれだけじゃない。実は昨日隅田川を泳いだんだ」
「隅田川を泳いだ?」
「うん」と彼はごく平然とした顔で言った。「そのまま東京湾まで行った」
「一体何のために?」と僕は驚いて言った。
「そりゃあ詩的霊感を得るためだ。決まってるじゃないか」
「それで、その経験は・・・具体的な作品に結実したのかい?」
「今からそれを書こうと思っていたんだ」と彼は言った。「そして君にその証人になってもらいたい」
「証人?」
「そうだ」と彼は言った。「急に素晴らしいものを書き過ぎると、誰かが『ゴーストライティングじゃないか』とか言い出しかねないからな」
僕はそれは考え過ぎではないか、と思ったが、一応頷いておいた。彼は鼻息荒く、これから詩を書こうという気満々だったし、その勢いのようなものを削ぎたくなかったのだ。まあ、それにもうこうしてベッドから起き出してきてしまったのだ。何もせずに帰るのももったいないではないか。
「まあ見ているだけでいいんなら力になるよ」と僕は言った。
「ありがたい」と彼は珍しく礼を言った。
彼はそのままパソコンの画面を開き、ワープロソフトを起動して、ものすごいスピードで文章を打ち出した。彼が手書きで詩を書かないことに僕は少し驚いたが(彼は普段から機械というものを憎んでいた)、そんなのはまあ本質的なことではない。詩にとって重要なのは、とにかくその中身なのだから。
「酔っ払いに寄せる賛歌」と彼はまず1行目に書いた。
「酔っ払いはいつも酔っぱらっている
意味もなく、希望もない
何一つない
ただ酔っぱらっている
俺は隅田川からそれを見ている
今、一人の酔っ払いが川に落ちた
意図的に落ちたのか、それとも誤って落ちたのかは分からない
でもとにかく落ちた
ボシャンと、勢いよく
俺は助けに行かず、ただそこに浮いていた
というのも彼が本当に救助されたがっているのか
よく分からなかったからだ
でも助ける必要もなかった
なぜならそれはものすごく泳ぎの上手い酔っ払いだったからだ
彼は酔っぱらった勢いのまま、海の方へ泳いでいった
俺はその隣にピタリとくっついて
一緒に海まで泳いでいった
そして訊いた、あなたはどうしていつもいつも酔っぱらってばかりいるんですか? と
そしたら彼は答えた。いいか、酔っ払いが酔っ払う理由はただ一つしかない
何ですか? と俺は訊いた
それは、だ・・・と彼は言った
それは? と俺は言った
でもそのとき大きな波が来て、俺たち二人は水の中に巻き込まれてしまった
それは真夜中の出来事だったから
彼の姿はあっという間に見えなくなってしまった
真っ暗な、海の底に
でもそこに、俺は一瞬何かを見た
何か金色に光るものだ
それはウィスキーの流れだった
安物のウィスキーじゃない
本物の、相当に美味いウィスキーだ
その光の中で、俺はその酔っ払いのおやじの姿を見た
彼は嬉しそうな顔をして、水中にいながらそのウィスキーをすすっていた
その金色の線は、どこまでも遠くに続いていた
おそらく太平洋をまっすぐ突っ切ってハワイまで
その酔っ払いは、たぶんハワイまで泳いでいったんだろう
彼がいなくなって寂しがる人なんていないだろうしな
彼はそうやって消えていった
実は俺も一口それをすすろうとしたんだが、気づいたときにはもう消えてしまっていた
そのときどこかでその酔っ払いの声が聞こえたような気がした
いいか、と彼は言っていた。俺はこれを求めて酔っ払い続けてきたんだ
あとはもう思い残すことはない。ハワイで悠々と余生を送るよ、と
俺は波に揺られながら、ただじっとそれを見送っていた
あとにはなんともいえない寂しさと
小さな金色の泡だけが残った」
僕はその金色の泡の余韻と共に、その後の一週間を送った。あの日彼は詩を書き終わると急にぐったりとして、俺はもう寝るよ、と言って文書を保存もせずにベッドに行ってしまった。僕はそれをきちんと保存してから、パソコンをスリープモードにして自分の部屋に戻った。彼の寝息はとても静かで、まるで死んでいるみたいだった。
(『隅田川 2』に続く)