「退屈さ」に関しては、特にあらためて考える必要もなくて、ちょっとまわりを見渡せば、いくらでも見つかる、という意見に僕は賛成です(もっとも誰かがそう言ったわけではなくて、あくまで僕が一人で――頭の中で――知らない誰かと問答をしているだけですが)。
そうはいっても、退屈さにもいくつかの種類があるのではないか、と、この雨の日曜日の夕方に考えているのであります。この間――といってももう一年以上前ですが――宮田氏の引っ越しを手伝ったときに、帰りにレンタカーでひたすら都心から八王子まで乗せてきてもらったことがあります。そのときに僕のiPhoneで音楽をかけたのですが、夜の東京の街を見ながら聴くとなると・・・なぜかあまり洋楽が合わないような気がしたのです。そこでスガシカオさんの曲をかけたら、少なくとも僕の中では、ピタリとはまりました。今まで何度も聴いていたのですが、この街の雰囲気。曇り空。甲州街道をひたすら西進する我々の周囲を取り囲む気だるい空気。コンクリートの街並み。車、車、車・・・。決してスガさんの曲が退屈だというわけではなくて、この退屈さの雰囲気にピタリと合っていた、ということです。我々はどうしてもこの世で生きている限り、この「退屈さ」からは逃れることができないみたいです。田舎にいるときも感じていたことだし、東京に出てきてからもひしひしと感じていることです。
それでついこの間(一週間くらい前)、またスガさんの曲を聴き直していました。『Sweet』というアルバムの、『夜明けまえ』とか、『夕立ち』とか好きですね。あとは『TIME』というアルバムの『魔法』という曲がなぜか頭から離れません・・・。
要するにスガさんの歌詞には、いつもそういった、この日本特有の退屈さに囲まれた状況が出てきます。灰色の街(これは勝手な僕のイメージ。でも間違っていないと思う)。雨。渋滞。淀んだ空気。惰性で続いているような男女関係。エトセトラ、エトセトラ・・・。
しかし主人公たちは、そういった状況に嫌気が差しながらもなお、なんとか生き延びようと欲しています。ほとんど絶望の直前くらいまで至りながら、かろうじて何かを信じている。スガさんの独特な声が、そういった心持ちを歌いあげます。もちろん演奏も格好良い(あらためて聴くとそのグルーヴに驚かされます)。ただ僕が言いたかったのは、なんだかここにもう五年以上も暮らしていて、自分がその退屈さにどっぷりと浸かってしまっているのだな、と実感した、ということです。
考えてみれば、東京に出てくる前だって、そういった一種の「退屈さ」から抜け出したくてあがいていたのだ、ということは言えそうです。そのために古典文学を読んだり、音楽を聴いたり、映画を観たり・・・。いろいろしてきたわけです。たぶんそういった試みは――趣味は人によって違っていると思いますが――ごく自然な行いなんだと思う。誰だってそうですよね。せっかくの休日をつまらなく過ごしたくはない。
しかし、にもかかわらず、本質的な退屈さの感覚はなかなか我々から去ってはくれません。少なくとも僕はそう思っている。たぶん誰かの作品を読む(聴く、観る)だけでは足りないからです。たとえば誰か高名な評論家が「これは素晴らしい」と激賞した作品を鑑賞したところで、自分の方にその準備ができていなければ、きちんと受け取ることはできないでしょう。睡眠不足だったら、まずは眠ることの方が自分にとっては最優先となるはずです。動きの感覚がここでは重要になります。学校なんかではよく一律に同じ作品を読ませたり聴かせたりするけれど、そこには何か大事なものが欠けています。真の自発性のようなものです。自由の感覚。うん。たぶん灰色の退屈さを打ち破るには、それが必要になるのではないか。
とはいえ、何がそのときの自分にとってピタリとくるのか、というのは、意外に判断するのが難しいかもしれない。あるいはずっと前に聴いた音楽を聴き直した方がいいかもしれないし、もしくは全然別のジャンルの音楽に挑戦してみた方がいいのかもしれない(メタルとか)。それはそのときそのとき、その人が自分の責任において判断するしかないことです。
そんなのは当たり前のことじゃないか、とあなたは言うかもしれない。言わないかもしれない。まあどちらでもいいことですが、とにかく僕はここで独り言を言っているだけです。別に無理をして聞かなくても構いません。でもまあとにかく、僕は一人の作家志望として、なんとかその退屈さと折り合いをつけて――できることならそれを乗り越えて――生きていかなくてはならないはずだ、と感じているのであります。特にこのように雨の降っている孤独な日曜日の午後においては。
なぜかは分からないのだけれど、日曜日の午後に僕は特にその退屈さを強く感じるようです。平日はアルバイトがあってだいぶ疲れている、ということもあるのだと思います。それととにかく誰かとしゃべっている、ということも。日曜日には――週に一度だけの休みですが――アルバイトがありません。よって朝から誰ともしゃべらない。もちろん走ったり、筋トレしたり、料理したり、あとは・・・当然小説を書いたりはするわけですが、それでも夕方になると孤独がこっそりと――でもなく堂々と、かもしれない・・・――心のうちに潜んできます。ああ、自分は一人なんだな、と身を持って実感する。ベンチプレスをしてもなかなかそれは去ってはいかない。もちろん作家志望ですから、そしてむしろ孤独になるためにこうして田舎から出てきて一人暮らしをしているわけですから、それは必ずしもネガティブなだけの状態ではない。どちらかといえば、積極的に利用していかなくてはならない状況です。それは自分でもよく分かっている。だからこそ日曜日の夜には、いつにも増してきちんと文章を書こうと自分に言い聞かせているのであります。そして実際になんとか少しは書き進める。そうやって最近は生き延びてきました。
それでもなお、どうして生きるという行為は、ときにこんなに退屈なんだろう、という根本的な疑問が頭をもたげてくるのです。それにはやはりスガさんの曲が多大な寄与をしてくれています。僕が彼の曲を聴いてひしひしと感じるのは、「こう思っているのは俺だけじゃないんだ」ということです。まあそれもまた当然のことなのかもしれませんが、しかし、だからといって、じゃあそこから本気で抜け出そうと努力している人がどれくらいいるのか、という点においては・・・やはりそんなにはいないと思う。僕が言う退屈さというのは、たぶんそう簡単には抜け出せないものです。たとえば家族や恋人といたところで、そんなに簡単に消えてはくれない。なぜならそれは意識の構造と深く関わっているからです。意識の流れが停滞したときに、我々は退屈さを感じることになります(というかまあ、これは僕の勝手な推測なのですが、たぶん合っていると思う)。だからこそときどき、意図的に風を送り込む必要があるのです。その方法は人によって違っています。音楽を聴いたり、あるいは本を読んだり、あるいは文章を書いたり、筋トレをしたり・・・。
芸術というのは、ある意味で人々にその疑似体験をさせる役割を担ってきたのだと思います。単純なエンターテイメントとしてだけではなく、もっと切実な役割を担ったものとして。受け手の側はそこまで深いことを感じているわけではないかもしれませんが、それでも、停滞した世界観を打ち割る新たな才能が現れたときには、我々はゾクゾクとした本能的なグルーヴ(のようなもの)を感じることになります。もちろんそれを受け入れられなくて、怒り出す人たちもいるにはいますが。とりあえず。
いずれにせよ、我々はおそらくどこに行っても、この退屈さと付き合いながら生きていくしかないみたいです。三十近くなって、そのこともようやく分かりかけてきた。しかしそれでいい、というわけでは決してないです。そこから抜け出す努力をしなければならない。そうしないと・・・知らぬ間に退屈さに呑まれた人間になってしまうでしょう。それはあんまり楽しい状況じゃないよな、きっと。
僕は昔からメジャーリーグ中継を英語放送で聴くのが好きですが、それはたぶん日本的自明性から抜け出したかったからなのだと思う。日本の野球も面白いんですが、なんというか・・・あの応援とか、観客席の雰囲気とか、そういったものが・・・どうも退屈に映ってしまうことがあります。でも一方で外国人があの応援を見ると結構面白いらしい。だからアメリカにはきっとアメリカ特有の形を持った退屈さが存在し、日本には日本特有の形を持った退屈さが存在する、ということになるのだと思います。古典文学なんか読んでいるとその辺の感じがよく分かります。どの時代にいても、どの国にいても、人間の状況というものはあまり変わりがないみたいです。最初は珍しくても、だんだん飽きてきます。そして本質的なことを考えるようになる。もちろん自分の頭を使える人間は、ですが。
そう思うと、やはりできることには変わりがない、ということになりそうです。結局どこにいても、何をしていても、誰と一緒にいても、最終的には自分ときちんと向き合うことが必要なのだ、ということです。少なくとも僕はそう感じている。外国に行ったところで人間が変わるわけではないですからね。もちろん少しずつ自分という領域を広げていくことはできると思いますが・・・そのためにはそういった姿勢が必要になる(要するにコツコツとした努力が必要になる。そんなに簡単に退屈さから抜け出せるわけではない。お金で買えるものには限界があるから、あとは自分で自分を鍛えるしかない・・・)。まあとにかくそんなことを考えています。
それでもスガさんの素敵な声であの灰色の状況(要するに日本の都市部のどうしようもない気だるさ。あるいは退屈な空気。淀んだ空気。エトセトラ、エトセトラ・・・)について歌われると、良い意味で「ああ、みんな一緒なんだな」と思えるようになります。それはビートルズやビーチボーイズを聴いているときには感じられない種類のものです(もちろんビートルズやビーチボーイズが悪いというわけでは決してない。ただ自分の今置かれている状況が、つまりスガさんが歌う状況と物理的に酷似しているというだけのことです)。そんなものは――そんな退屈な状況なんか――無視して、もっと素敵な世界について歌っていればいいじゃないか、とあなたは言うかもしれない。言わないかもしれない。もちろんそれはそれで一つの意見です。そういった歌があってもいいし、決してそれを否定するわけではない。ただそのときの僕には――あくまでそのときです。今は違うかもしれない――彼の歌声がピタリと心にはまったのです。そして一緒に揺れた。その揺れの中に、何か状況を打破するヒントが含まれているような気が、なぜかするのですが。
P.S. 僕の中にはそういった退屈さの情景がいくつか大事にしまわれています。たとえば東北自動車道から見える遠くの街並みとか。別の道路が合流するところの、巨大なコンクリートの柱とか。牛とか。あとは国道沿いの――雨の日の――ぱっとしないバイクショップの看板。さびれたボウリング場・・・。
そういうのってきっと誰にもあると思います。たぶん日本で暮らしている以上は。そんなもの溜め込んでいたって何の役にも立たないだろう、と言われればそれまでかもしれない。でもいつか役に立つかもしれない、という予感もあります。記憶はあくまで材料です。そこから何か、本当の意味で生命力を持ったものを立ち上げられるかもしれない。その辺は作家(志望)の得な点かもしれませんね。しかしあの光景を思い出すたびに「俺はあそこから抜け出したんだろうか?」と自問することになります。なんとか努力はしているけれど、まだ十分ではない、というのが現状の正直なところです。これからもっと頑張らなければ。シュッシュ(と空気中の見えないサンドバッグに向かってシャドーボクシングをする)。自らの中の、そして周囲を取り囲む退屈さをどのように打ち破るのか、というのが、たぶん僕の生涯のテーマになりそうです。そのうち外国にも行ってみたいけど、きっと面白い半面、つまらないところも――要するに期待はずれのところも――だいぶあるのだろうな、と、勝手な妄想をしています。でもそれはそれで悪いことではありません。結局自分自身と向き合うしかない、ということが、嫌でも明らかになってくるわけですから。それでは。
さらなる追記(くだらない話)
今日陸上の日本選手権を観るともなく観ていて(退屈しのぎ。灰色の空。僕は何をしているんだろう・・・)、競技によって選手の身体付きが全然違うことにあらためて気付かされました。あれって結構面白いですよね。短距離選手は筋骨隆々だし(肩のあたりがすごい。胸筋も)、長距離や、ハイジャンプの選手はすらっとしている。余計な筋肉は付けていない感じがする。重くなると不利になりますものね。400mくらいの選手が一番バランスが良いような気がする。あくまで見た目だけの話ですが。砲丸げや、槍投げの選手たちは上半身が発達しています。見ているだけで力がありそう。さて、そこで僕が思ったのは、サバイバルになったら誰が一番長生きしそうかな、ということです。アフリカのサバンナで取り残されたら、誰が最も効率よく生き延びられるのか(意味のない設問・・・)。幅跳びの選手は川をひとっ飛びできそうだし(八メートル近く跳ぶんですよ。男子は)、でもそういう観点でいえば棒高跳びの選手の方が遠くに行けるか・・・。ハイジャンプの選手は生垣を飛び越えて、美人の令嬢をさらいに行けるかもしれない(もうサバンナから離れている・・・)。砲丸投げの選手は敵軍を蹴散らせるかもしれない(なかなかその距離まではやって来ないか)。短距離選手は狩りに役立ちそうです。全力で野生の鳥を追いかける。長距離選手は天敵に襲われても、とにかく長く逃げられそうです。そういう点では3000m障害の選手はハードルも水濠も飛び越えられます。うーん。難しいな。競歩の選手は・・・すぐに捕まっちゃいそうだな(決して競歩を馬鹿にしているわけではない。僕はものすごく尊敬している。あの速さで何十キロも歩くのですから。急ぎたくても歩形を崩してはいけない。ものすごい精神力です)。しかしなによりも役に立つのはたぶん槍投げの選手でしょう。これが僕の結論。なぜならどんな獣もあれで刺してしまえば、やっつけられるから。あとは火を起こして、棒に突き刺して、肉汁と共にかぶりつく・・・。そう思っていたら腹が減ってきました。それでは。あとはやることをやります。またそのうち。