何にでもなれるわけではないけれど……

 アルバイト中、白髪の年配の女性(おそらく70代後半くらい)にこう訊かれた。「あなた大学生?」

「いや、あの、もう30歳を越えていまして……」と僕は言う。大学生に間違えられるのは珍しいことではない。

「あらそう。でもまだまだ若いじゃない」

「そう……ですかね」

「そうよ。なんにだってなれるじゃない」

「ハハハ。そうかな……」

 その彼女はお金を払い、僕は商品を渡して、会話は終わった。

 別に大した会話、というわけではない。「何にだってなれる」というのは年配の方から若い人たちへの一種の常套じょうとう句のようなものなのだと僕は理解している。彼女だって僕が本当に力士になれるとか、プロ野球選手になれるとか、あるいは……そうだな、宇宙飛行士になれるだとか、そういうことまでは考えていないと思う。あくまで会話をなごやかに前に進めるための決まり文句だ。でもちょっとした励ましのようなものも、そこには込められていると思う。励まし●●●

 一方で僕が考えていたのは、「もし本当に何にでもなれるのだとしたら、それはそれで結構大変だよな」ということだった。考えてもみてほしい。あなたは才能に溢れていてなんでも一流にできてしまう。野球も一流だし、サッカーも一流だし、絵も描けるし、ダンスも踊れるし、作曲もできるし、ギターも弾けるし、歌も上手だし……となったら、いったい何をしたらいいのか分からなくなってしまうのではないだろうか? 結局のところ身体は一つで、精神もまた――おそらくは、だが――一つだ。一度にできるのは――真に●●集中してできるのは――大抵の場合一つのことだけなのだと思う。もちろんある時期に小説を書いて、ある時期に作曲をして……というようなことは可能かもしれないけれど。

 僕はその女性の方に文句を言いたいわけではなくて、だとするとこうして才能のない(限界のある)人間に生まれたことは、結構ありがたいことなのかな、と思った、ということだ。もし本当に才能に溢れていたとしたら、たぶん途方に暮れてしまっていたと思う。あらゆる方向に道は伸びている。何をしても他人からは褒められる。お金だって稼ぐことができる。さあ俺はこれからどうしたらいいのだろう? どの道に進んだたらいいのだろう? こっち? いや、あっち? あるいは進んだあとでも、ほかの道に未練が残ったりするかもしれない。そうすると本当の意味で集中することなんてできないのではないか? なんとなくそういう気がする。

 そういったことを見越したのかどうかは分からないけれど、神様はほとんどの人にそれほどの才能は与えない。我々はこの地上で、限定された生を生きている。傍目はためにはパッとしなかったとしても、とりあえず一個の肉体を備えてこの世に存在していることを、ありがたいと思うべきなのかもしれない。一個の肉体。うん。

 若いときには頭の中でイメージ(たち)が暴走しているから、なかなか凡人だと認めることは難しい。どこかに何かあるのではないか、と僕は思っている。ちょっと掘り返すだけでどんどん溢れ出てくる、才能の泉……。音楽、絵、スポーツ……。とにかくそれを使って簡単にお金が稼げるものだ。何かないだろうか……。

 もちろん本当に●●●天才的な人はここから外れるわけだけれど、僕は少なくともその一員ではなかったみたいだ(もし一員だったとしたらすでに職業的作家になっているはずだから)。でもそれをそこまで残念だと思うかというと……別にそうでもない。なぜか? たぶん生きてくる過程において、必ずしも「他人からの賞賛」とか、「お金」とか、「テクニック」とか……そういったものが心の豊かさにつながるとは限らない、と身を持って知ったからなのだと思う。なんか説教くさいけど、たぶん実際にそうなのだと思う。うん。

 かといって作家を目指しているのにいつまでも結果が出ず、33歳になってもなおアルバイトを続けているというのはフラストレーションの溜まるものである。この状況を楽しんでいるわけでは決してない。ときどき将来のことを考えて暗澹あんたんたる気持ちになることもある。「ああ、いったい俺はあとどれくらいこの生活を続けなければならないのだろうな」と。

 でもまあちょっと冷静になれば、そこまで絶望的な状況にいるわけではない、ということが分かってくる。お金はないけれど、少なくとも精神的な出口を塞いでいるわけではない。小説を書き続けている限り、なんとか自分の心をオープンに保っておくことができる……ような気がしている。結局のところいつまで生きられるのかは分からないのだけれど、誰にだって重要なのは「今ここ」なのだろう。「今ここ」をどう生きるのか。その質をどう上げていくのか。おそらくは。

 だから「何にでもなれる」わけではないからといって、別に残念だと思う必要もないのだろう。たとえば必要な情報を求めてネットサーフィンをし続けていたり、あるいは面白い番組を探してテレビのチャンネルを変え続けていたり、You Tubeの動画を探し続けていたり……まあキリがない。だとしたらやることはむしろ逆なのではないか? 今ここにいる――限界のあるみすぼらしい――自分に集中すること。完璧ではないかもしれないけれど、ある時間を有効に使おうと努力する●●●●こと。その結果……自分の透明な意識を少しでも満足させることができるのではないか?

 Tedeschi Trucks Bandの曲に”Strengthen What Remains“という曲がある。「残っているものを強化せよ」ということだ。もともとはヨハネ黙示録の中の言葉らしいのだけれど、この曲を聴くたびにその通りだよな、残っているものが大事なんだよな、と思う。まあ当たり前のことなんだけど、人間の想像力はどうしても「持っていないもの」に向けられてしまうみたいだ。お金があればあれもできるし、これもできるし……(これは僕の場合だけど)、時間があればあれもこれも……。それに比べて今のこの生活はなんだ! というわけである。でもきっとよく考えてみれば、まだまだなんとかできる余地はあるはずだと僕は感じている。透明な●●●自分の精神を●●●●●●動かすこと●●●●●。うん。そういう観点でいえば、お金がなくたって、賞が取れなくたって、卑屈になることはないのかもしれない。たぶん僕がこの10年の間やろうとしてきたのは、そのように自分を有効に動かすシステムを構築することだったはずだからだ。システム。

 そんなものなくたって生き延びてはいける。でも一番重要な何かが失われてしまうような気もしている。何か●●。精神の奥にある、何か……。だからまあ今日も懲りずに書き続けています。自分に集中し、出てくる言葉を、拾い上げること……。

 あるいは他人のように上手くできない、というようなことが「持ち味」になったりするかもしれない。なんというか昔から他人にけなされるのをビビッていた部分があって――まあ当たり前かもしれないけれど――それが自分の自由を制限してしまっていたのかもしれない、とも思う。

 30を越えて、もう少し自由になるためには、そのような自分の「至らない部分」、「上手くできない部分」をもっと認めてあげる必要があるのかも、という気がしている。まあいずれにせよ、できることしかできない●●●●●●●●●●●。結局はそういうことなのかもしれない。でも「できること」に集中することで、そこで感じられる充実感には差が出るような気がしている。充実感。

 死んだときにお金も、肉体も、世間的評判も持っていくことはできないのだから、やはりフォーカスするべきは透明な部分なんだろう。きっと。しかしそれは怖いことでもある。「今ここ」に集中しないでいろんなことをふわふわと妄想していた方が楽だったりする。でもそのような行為にはだんだん飽きてきた。そろそろ次に進みたい……。ということで限界のある自分自身に集中します。そうやって、ちょっとずつ「自分自身」に近付いていくこと……。

P.S. 全然関係ないけれど、なぜか最近マイケル・コンフォルト(Michael Conforto)選手のことが気になっている。ドジャースに今年から移籍してきたのだけれど、極度の不振で、現在(2025年7月12日)打率は一割台である。それでも一時期の絶不調状態からは抜け出しつつあって、ホームランなんかも出だしている。僕はなぜか昔から「期待されていたのに結果が出ず、ファンにボロクソに叩かれている選手」を応援したくなる傾向があって……。数年前は阪神のメル・ロハスJr.選手がそんな感じだった。韓国で結果を残して他球団との争奪戦を制して獲得したのに……なかなか打てない。でも僕は個人的に応援していた。そういった選手が四球で出塁したりするだけでも、なんだか嬉しいものである。コンフォルト選手、頑張ってください。年度別の成績を見ても、そもそもあまり打率は高くない。むしろここからもっと伸びていくのではないか、と期待されていた選手であるような気がしている(P.S.……と書いたあとで見直したら、今年でもう32歳だった。メジャーの基準からすると、結果を出さないと簡単に切られてしまう年齢かもしれない。契約次第ではあるけれど……。長打率と出塁率が上がれば打率が低くても大丈夫だ! まだまだ行けるぞ、マイケル!)。きっとアメリカのSNSなんかでも叩かれていたのだと思う。うまくいかないときは自信のなさそうな顔をしていたけれど(良い当たりがアウトになったりすることもあった)、守備も良いし、まだまだやれると信じています。ドジャースが強すぎるからファンの期待が高い、ということもあるのだろうけれど……。大谷の結果も気になるけれど、コンフォルトの結果にも個人的には注目しています。

 そして……あまり脈絡はないけれど、最近「傷つくこと」についても考えていた(僕は定期的に結構簡単に傷つく)。生きていて何か嫌なことに遭遇するというのは、誰にでもある経験だと思います。社会生活を営んでいくにおいて、避けては通れないことかもしれない。特にこっちのちょっとしたミスにものすごく怒る人とか……。30を過ぎても、まだ(やはり)そういう人に遭遇すると嫌な気持ちになるし、結構落ち込む。自分が悪かったのかな、とか考えてしまう。次に会ったらどうしよう、とも……。

 正直なところそろそろ打たれ強くなりたいのだけれど、まあ生身の人間である以上傷つくことからは逃げられないのかもしれない。世の中には一定数「共感力」が不足している人がいるみたいです。どうしてもむしゃくしゃしたときに相手を傷つけずにはいられない人……。はっきりいって僕の経験したほとんどの「嫌なこと」は相手が違ったら起きていなかったようなことです。つまり僕のミスが発端だったとしても、です。「共感力」がある人なら、まあそういうこともあるよね、で終わってしまうようなこと。それをあそこまで怒るとは……。

 あんなやつバカだから、とか、病気だとか言って関係をスパッと切ってしまえれば問題ないのかもしれませんが……なぜかなかなかそれが僕にはできない。かえってずっと頭に付きまとってくるような感覚がある。だからそういうときにはこの人がこうならなければならなかった理由●●みたいなものについて考えることにしています。要するに幼少期から今までの人生を可能な限り想像すること。実際に何があったのか知ることなんか不可能ですが(そもそも話もしたくない)、まあここまでの性格になるには相当のことがあったに違いない、と僕は(大抵の場合)想像している。家庭の雰囲気が常にピリピリしていたとか。本当の愛情を一度も受けたことがないとか……。

 だからきっと僕は恵まれた環境に生まれたんだろうな、と勝手に思っています。僕ももちろん突発的に怒り出して、似たようなことをやる危険性はある(たぶん誰にだってある)。そのことは頭に入れておかなければならない。自分だけを「善」だと考えるのは一番危険だから。それでもなお、僕が会ってきた「嫌な人」たちに比べれば、ずっとマシな環境で育ってきたんだろうな、という気はしている。幼少期の記憶は大人になってからもずっと付きまとうみたいで、なかなか大人になってから性格を変えるというのは難しい。この人はきっといろんなところで似たようなことをしているんだろうな、と僕は思う(その結果誰にも信用されない人間になってしまう)。家でも、職場でも、その他の場所でも……。

 そう考えると結構可哀想になってくる。ただ単にそういう人々を「悪」だと決めつけるよりは、その人をそうさせている「何か」を恨むべきなのかもしれない。そう思ったところで「モヤモヤ」が消えてなくなるわけではないのですが……。

 結局いつも傷ついた直後は動揺している。自分は強いんだぜ、と思っていてもなおやはり●●●動揺している。そんで、時間が経つと上記のような考えに行き着く(そうだよな、俺はまだマシな方なんだよな、と)。そしてできれば他人を恨んだり嫌ったりして生きていきたくはないなあ、と思う。人間の心というのはなかなか奇妙だ。どういう動きをするのか本人でも分からないところがある。まあいずれにせよ、「まったく傷つかない場所」なんてきっとどこにもないのだろう。だとしたら? おそらくは可能な限りオープンになる方が強いような気がする。閉じれば閉じるほど、まわりにいる人たちがみんな敵に見えてくる(それがきっと「共感力」が不足している人たちの心の状態なんだと思う。嫌な経験が降り積もっていって……一日中常に警戒している人間が出来上がってしまう。誰のことも信用できない。ちょっとしたことで異様なほど怒り出す……)。かといって警戒しなくていい、というわけでもないし……なかなか難しいですね。僕ももっと若いときは子犬みたいにまわりの人を信用していた気がする。でも嫌な経験が積み重なっていって、いや、ちょっと待てよ。この人は急変して俺を傷つけるかもしれない。あるいは自分でも気付いていない心の闇を抱えているかもしれないぞ。防御防御……というような感じになってきた。まあ歳を取っていく、というのは往々にしてそういうことなのかもしれませんが……。防御しないとあまりにももろくて生き延びていけないし、かといって防御しすぎると心が凝り固まってきてしまう。うん……。まあ結局はバランス●●●●なのかもしれないですね。自分を保ちつつ、自分を開くこと。”Keep cool, but care.”(「クールに、されどケアを忘れず」。これはトマス・ピンチョンの『V.』に出てきた言葉。昔メモ帳に書き写していた……)いずれにせよ、僕はまだまだ自分を鍛えていく必要があるみたいですが……。

 

さらなる追記:そう、そしてデイビッド・リンチ(David Lynch)、さらにはブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)まで亡くなってしまいました。年齢が年齢、ということももちろんあったのだけれど(78歳と82歳)、やはり寂しい。二人の非常に個性的な芸術家のご冥福を祈ります(David Lynchはいつも人々の心の闇を覗き込んでいた。Brian Wilsonは自らの精神的宇宙を音楽に乗せて届けるすべを知っていた)。彼らの頭の中に新たな作品のイメージが残っていたのだとしたら……チラッとでもいいから覗いてみたかった。そこにはどんな世界が広がっていたのだろう? でももちろんそんなことはできません。僕は僕のことをやろう。彼らと比べることなんてもちろんできないけれど。それでも。

 

 以上、最近考えていたことでした。皆さんもお元気で。それでは。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です