故郷への帰還、そして再出発(続き)

 2023年1月23日、月曜日。午前中に前日までの気持ちを文章にしてしたため、お昼過ぎから走ることにする。昼食は食べていない。実家のある宮城県は東京よりだいぶ寒い。しかもこの冬一番の最強寒波が近づいているというではないか! ちょっとずつ降り始めた雪は――今年初めて見る雪だと思うのだけれど――うっすらと地面を覆っていった。僕はランニングウェアに着替え、持ってきたランシューを履いて(もうかなり底が擦り減っているのだけれど)、外に出る。寒い・・・けれど、走り始めてしまえばもうこっちのもんだ。だんだん身体が温まってくる・・・。

昔犬を連れてよく散歩した道。誰かの足跡が残されている。たぶん四つ足で、毛がもじゃもじゃの生き物です。タヌキかな? キツネかな? おそらくそのどっちかでしょう。

 コースとしては橋を渡って昔かよっていた高校まで行くことにする。片道5キロくらい。そのあと少し回り道をして帰ってきたから、全部で14キロ走ることになる。まあいずれにせよ、13年ほど前までいつも自転車で通っていた道である。道中大型トラックが通り過ぎていく。その数は多くない。東京と比べると本当に少ない。でもさすがに昨日の夜よりは交通量が多いのでちょっとほっとする。雪も降っているし、平日の昼間なので、もちろん僕のほかに誰も走っている人なんかいない。歩いている人すらいない。というか自転車すらいない。この辺は車文化圏なのだ。どこに行くにしても(都会よりは)遠いから、あまり徒歩で移動したりはしない。大抵の家にはそれぞれの大人たちの分の車が停まっている。子供たちは自転車で移動したりする。そういった場所なのだ。ここは。

ほぼ田んぼです。はい・・・。

 それでまあ、たぶん通り過ぎる車のドライバーたちは「まあよくもこんな雪の日に、物好きにも走っているな」と思いながら僕のことを眺めていたのではないかと思う。まあそんなことは織り込み済みなので、さほど気にせず走る。途中見えるのはほぼ八割が田んぼである。あとは住宅、さびれた中古車販売店(兼修理場)、かつてヤギを飼っていた不思議な家・・・。高校の近くに行くとさすがにコンビニとか、携帯ショップとか、そういったものが現れてくる。ガソリンスタンドも、葬儀場もある(ばあちゃんの葬儀はここで営まれた。レスト・イン・ピース。グランマ)。久しぶりに見る高校は・・・全然変わっていませんでした。まあ当然か。よく部活でこの辺を「外周」で走ったことを思い出す。コースは正確には違うけれど、まあ同じような田舎道である。車がビュンビュンと――もちろん多いときには、という意味だけれど――通り過ぎていく。あとは森林。いくつかの店。何かの工場・・・。そこにある光景は当時の僕の「なんだかどこにも行けないみたいだな」という気持ちと結びついている。つまり精神的に、ですね。どこか遠くにはもっと栄えている場所があるはずなのだけれど(たとえば仙台とか、東京とか、ニューヨークとか・・・)、俺は今ここを走っている。仲間がいるから孤独ではないけれど・・・それは果たして正しいことなのだろうか? 遠くに行くのは怖いし、自分がそんなところで生きていけるとはあまり思えないけれど・・・それでもここに縛られているのは正しい状態なのだろうか・・・?

 結局大学時代は仙台に行って、そのあと2年実家で「うじうじ」し、ようやく25になる年に東京の外れに出てくるわけですが・・・。こうやって走っていて、当時の感覚をフィジカルに思い出していると・・・自分がこういった道のりを辿らなければならなかった、というのは一種の必然だったんだな、という感慨が湧いてくることになります。その結果もっと立派なものが書けていたらいいのだけれど・・・まあそれはこれからの課題ですね。人はいつだって成長できるはずだ、と思って生きております。はい・・・。

 いずれにせよ言いたかったのは、やはり僕の心がここから出ることを求めていたのだ、ということです。あるいはもっと歳を取ったあとに戻ってくるかもしれないけれど、少なくとも今は東京にいる方がしっくりきます。それは・・・たぶんその場所が「個人が自由に好きなことをやる」という状態に適しているからでしょう。他人のことには干渉しない。自分は自分のことをやる。まあ仕事もいっぱいあるしね・・・。

 田舎の景色は美しいけれど――特に雪が降ったあとは――独特の寂しさがあります。たぶん全世界のさびれた田舎が似たような感情を喚起するのではないかと僕は想像しているのですが・・・。都会には都会の独特の哀しみ、というものがありますが、田舎のそれは・・・うーん。一言では言えないな。絵でも描けたら表現できるような気がするのですが。要するに発展を求める精神が、なんとなく動きを阻害されてしまう、というところにあるのかもしれない。もちろんこれは僕の個人的な実感です。そう簡単に普遍化することはできない。田舎で面白いことをやっている人(やろうとしている人)だってたくさんいるはずです。しかし、にもかかわらず、おそらくは伝統の力だとは思うのですが、そういった古くから続いてきた生活様式とか考え方が・・・こう、いささか「現在」と距離を置いてしまう。その結果・・・灰色の退屈さが生まれることになる。その過程を、僕の精神は目撃していたのではないか、と思うのです。

 途中がんの群れを見て――綺麗にV字型に隊列を組んで飛んでいましたが――「ああ、こいつらにとっては田舎も都会も関係ないんだよな。空さえあれば・・・まあどこにでも行ける。退屈だろうと、退屈じゃなかろうと、別にそんなことは関係ない。故郷への複雑な思いなんてものも――たぶん――ない。ただ自由に飛んで・・・やがて死んでいくんだよな。それはそれで悪くないかもな」とか思っていました。実際にがんになったことはないので本当のところはよく分からないのですが・・・彼らの顔を見ているととても自然に生きているように感じられました。あるいは隊列を崩すやつとかいて、結構苦労しているのかもしれませんが・・・。とにかく。

 まあなんにせよ、僕は今さら鳥になることはできそうにないので、ひたすら走って帰ってきました。冬の川は非常に冷たそうで、美しかった。田舎に住んでいるとそんなことは当たり前だから、特に注目もしないのかもしれませんが・・・。ここで写真を撮った。

川の上流。ここも夢によく出てくるような・・・気がする。

 この橋は高校時代から何度も何度も渡ってきているので、なんとなく不思議な気持ちになります。あれから10年以上経って、俺はまだここにいる。少しは強くなったんだろうか・・・? 見える景色はほとんど当時と変わりません。でも流れている水は変わっている。「ゆく川の流れは絶えずして・・・」

 前日寒過ぎてうまく眠れなかったので、かなり寝不足気味だったのですが、帰ってから寝ようとしてもうまく昼寝できない。それになんだか疲れ過ぎて昼食を食べる気にもなれない。ということで筋トレをしたり、家族としゃべっていたりしました。その後空腹が異常な地点に達し、家族もびっくりするくらい食べるのですが(普通の食事のあとに自分専用にスパゲッティを茹でて食べた。キャベツとじゃがいもをバター味噌味で炒めた。まあ美味おいしかったです)。それだけ食べてようやく僕の意識を胃は解放してくれる。まあちゃんと14キロも走ったんだから大丈夫でしょう。そうそう太ることはあるまい・・・。

 そのあと持ってきた機材を使って――そう。わざわざ持ってきたのです。MIDIキーボードを――曲作りを久しぶりにやろうとしたのですが・・・眠過ぎて集中できない。まあそんな感じであっという間に二日目は過ぎていきました。そもそもが「やりたいこと」を予定に組み込み過ぎていたので、当然と言えば当然だったのかもしれませんが。

 三日目の朝に散歩をする。近所の小学生の男の子が二人、寒い道路に並んで(たぶん)スクールバスを待っていた。これだけ田舎で、過疎地域になってくると、子供の姿が新鮮である。一人は膝下くらいしかない半ズボンだった。この寒さだというのに! でもまあたしかにあの当時は体温も高いし(たぶん、だけど)、クラスに何人かはこういうやつがいたな、と思い出す。彼らは僕が当時経験したものごとを、やはり同じように一つ一つ辿っていくことになるのだろうか・・・? 似たような光景を見て、似たようなことを考えながら歳を重ねていくのだろうか? そしてここは――この場所は――彼らのぬぐがたい精神的故郷へと変貌していくのだろうか?

家の裏の木。二本並んでいますね。よくこのあたりできじの夫婦が叫んでいた。喧嘩でもしていたのだろうか・・・?

 まあそんなことを考えていました。声はかけなかったけれど(不審者だと思われるから)。いろんな生活があり、同じ場所に暮らしていたとしても、いろんな感じ方があります。想像することはできるけれど・・・まったく同じ形で追体験することはできない。人間の精神というのはそう考えると不思議です。普遍的な部分はたしかにあるのだろうけれど・・・「経験」そのものはその人だけに属しています。そしてそれが積み重なって・・・やがて死にます。記憶はどこに消えるのだろう? 脳の奥だろうか? それとも特殊な海のような場所があるのだろうか? たとえばばあちゃんはその86年の生涯において、どんな光景を溜め込んできたのだろう? そこに僕がアクセスすることは許されていないのだろうか・・・?

 とまあ答えの出ない疑問をもてあそびながら、また家に帰ってきました。実家で昔と同じように朝食を食べていると、本当にこの6年10ヶ月の東京暮らしなんて嘘だったんじゃないかとふと思えてきます。あれは夢みたいなもので、俺は実はずっとここで継続して暮らしていたんじゃないか、と・・・。

 でもやはり実際に時は経ったのだし、その取り分を取っていきます。僕らにできるのはその中で少しでも成長しようと努めることみたいです。はい。強くなればきっともっと自由になれる領域が増えるはずだと信じて生きてきました。そしてそれは・・・まあある程度までは事実だと思う。僕は自分のスタイルというものを築きつつあります。願わくばそれが「お金」に結びつけばいいのだけれど・・・。

雪に覆われた・・・庭です。風情があると言えないこともない。場合によっては・・・。

 宮田氏と合流し――彼が車で迎えに来てくれたのですが――じいちゃんや家族にさよならをして、一路海を目指します。米とか野菜とか(これは仙台のばあちゃんにもらったやつ)、いろいろと積み込んで、出発。途中お土産を買っていく。新しくできた道路を通って、東に進み、南三陸町志津しずがわ、というところまで行きます。一時間ほどの道のり。僕らは実は小学校5年生と、中学校2年生のときに、ここで「合宿」みたいなやつをやった。いったい何を目的とした「合宿」だったのかは謎だけれど・・・(一体感を強めるため? あるいは集団生活に慣れるため? あるいはただのレクリエーション?)、まあいずれにせよそこで友達とワイワイ騒いで、地引じびきあみとか、あるいはバナナボートに乗ったりして(転覆した人たちもいましたが)、楽しんで帰ってきたのであります。集団で体操かなんかをやらされた嫌な思い出もありましたが(シーツの畳み方がすごく厳しかったことを覚えています。はみ出てはいけないんだ。)、まあ十数年経っていると(というか20年か。まったく・・・)、その恨みも今では消えています。その施設の駐車場に行って、戻ってくる。いや、その前だかあとに、津波の被災地の跡地にできた、「南三陸さんさん商店街」というところに行って、またお土産を買いました。奥には震災遺構として残されている「旧防災対策庁舎」、というものがあり(骨組みだけ残っているのですが。ぐにゃりと曲がってしまっている)、震災後12年近く経って、初めてその近くに行ってきました。たしかニュースとかではよく観たのですが・・・。実際に目の前にすると言葉を失う、というところがあります。ここで亡くなった方々は最後に何を思ったのだろう、と想像してみる。しかし・・・本当に何を思っていたのかなんてきっと誰にも分かりませんよね。小高い丘がさらに奥の方にあって、献花代には花が置かれていました。そこからは太平洋が見渡せます。海は広くて綺麗だ。でも・・・時に残酷になってしまう。僕は海の近くで育った人間ではないので、その辺の複雑な気持ちはうまく理解できないのですが。なんとか想像してみることはできます。寒い中そこで少し景色を眺めて、また車に乗り込みました。

南三陸町旧「防災対策庁舎」。ここで多くの方々が亡くなった。30人ほど屋上に避難していて、波が引いたら残っていたのは10人だけだったそうだ。白い、ごく普通のコンクリートがここを覆っていた。でも津波が全部もぎ取っていってしまったみたいだ。
くま研吾さんが設計した中橋なかはし。木と鉄でできていて、なかなか独特な形状をしている。不思議な雰囲気を醸し出している。
献花台(あるいは慰霊碑)。その奥に太平洋が見えます。

 あとはひたすら南下します。常磐じょうばん道を通って、茨城県の大洗おおあらい海岸へ。途中サービスエリアで持ってきたおにぎりを食べる(またおにぎりである。梅干しを入れた)。母親がおかずを詰めてくれたので、それも宮田氏と一緒に食べる。イートインで食べたのだけれど、奥の食堂の方ではトラックドライバーと思われる男たちが昼食を食べていた。あるいは別の業種の移動中の「働く男」たち。女性は少なかったかな。まあいずれにせよ平日の昼間なので、観光しているような人はあまりいない。みんな実務的に、食事をかき込む。それぞれがそれぞれの人生の中で、この道を通り抜けているのだ。当たり前のことではあるけれど・・・僕にはさほど当たり前には思えない。みんな生から死へと移動していく最中にあって、このパーキングで顔を合わせたのだ。それは一種の奇跡であるようにも思える。でももちろんそんなことは口には出さない。ただ心の奥に留めておく。僕も移動しているし、地球そのものもまた移動している。感情はどこかに消えるが・・・あるいは記憶は残るかもしれない。どこに、かは分からないけれど。おそらくは。

 大洗海岸で気持ちよくランニングでもしようという計画だったのだけれど(そのために宮田氏は新しいランシューまで買ったのだが)、雲行きが怪しい。今年一番の寒波がやって来ているとニュースでは言っていた。しとしとと雨が降り、それが雪に変わり、またみぞれに変わり・・・。高速を降りた頃にはもうほとんど日は落ちていたのだけれど・・・天気が回復しそうな見込みはない。というかよりひどくなっているじゃないか? 「最高の天気だ」と冗談混じりに言っていたのだけれど・・・さて、ランニング。どうしよう?

 「ゆっくら健康館」というところにようやく着いたのが夕方の6時くらいで、その頃には雪は積もり始めていた。ものすごく寒い中なんとか着替えて、無理矢理走りに出ることにする。まったく。もちろん歩行者なんてほかにはいない。みんな車である。宮田氏と一緒に走る。それほどペースは上げないけれど・・・すぐにシューズがびしょびしょになってしまう。2、3センチは積もっていたんじゃないかな。まったく。太平洋側だというのに・・・。

 これは今までで一番寒いランニングだったと思う。どこを走ってもびしょびしょ。海の方に行きたいけれど、どれが海なのかも見えない。公園らしき場所に着く。そんなわけないと思いつつ、その先が凍った海のように見えて仕方がない(なにしろ雪が積もっていたので。そして暗かった。結局ただの土でしたが。ふう・・・)。そこで周回コースを設定して(一周1キロほど)、なんとか距離を稼ぐ。宮田氏の腕につけたアプリで現在の走行距離を知ることができる。目標は10キロである。まだ5キロ。まだ6キロ。風がもろに顔面に吹きつけてくる。フードをかぶってもまだ寒い。顔が死んでしまいそうなくらい寒い。どこにも逃げ場はない。ただ走るのみである。まったく。なんでこんなことをやっているのだか・・・。

 でもこれをやり切ればきっと人間的に強くなれるはずだ、と言い聞かせてなんとか走る。疲れてくるとなんだかなにもかもが嫌になってくる。晴れていればこんな距離なんということもないはずなのだけれど・・・。いかんせん道が悪過ぎる。水たまりのようなものにはまってしまう。足が凍りつきそうなくらい寒い。手がかじかんでくる・・・。

 幸い雪や風がちょっと収まる瞬間があって、そこは(比較的)楽なポイントだった。無理矢理足を前に踏み出していく。こういうときのコツは先のことを考え過ぎないことだ。一歩一歩に集中すること。二歩先は考えないこと。この一歩。この一歩のことだけを考えるんだ。そう、意識はときに先を見過ぎるのさ。それで要らぬ心配をしてしまう。そんなことは時間の無駄だ。エネルギーの無駄だ。俺は今を生きているんだ。風が冷たいことも忘れるんだ。この一歩にだけ意識を集中しよう・・・。

 なんとかかろうじて車に帰り着き——あとでアプリを見たら11キロ以上は走っていました——着替えを持って急いで・・・健康館へ。そこの温泉に浸かりたい。今はそれしか考えられない・・・。でも手がかじかみ過ぎて、靴紐くつひもほどくこともできない。二重に結んでいた、ということもあるのだけれど・・・。そのあと受付で小銭を出そうとしたのだけれど、これもなかなかうまくできない。指が動かないのだ・・・。ちなみに受付のおじさんは「本当にこの雪の中走ったんですか?」と言って驚いていた。まあ走りましたよ。ちゃんと・・・。

 まあ温泉は気持ち良かったです。熱い湯をかけると指も元に戻ってくれました。茨城のおじさんたちはものすごくなまっていて、おしゃべりが聞いていて面白かった。僕からすると(つまり東北の片田舎の人間からすると)、「関東」イコール「東京に近い」というイメージがあるので、関東地方なのにこんなに訛っているというのは・・・ちょっと可愛かった。もはやうちの田舎と同じくらい訛っている。「雪だ雪だ」というのが「」という感じになるし、あとはイントネーション。ちょっと尻上がりで、これはたぶん茨城独特のものなのだと思う。栃木にはしょっちゅう行っていたけれど(部活の遠征なんかで)、茨城にはちゃんと来たことがなかった。なかなかいいところです。茨城県。次はもっと天気の良い日に大洗海岸を走りたいな。

 そこからホテルにチェックインしたのが8時45分くらいかな。予定よりだいぶ遅くなってしまった。この寒さということもあって、なかなか良い食事どころが見つからず、結局はモツ煮を持ち帰りで買って、残りはローソンで好きなものを買うことにした。僕は走ると大量の炭水化物を必要とするので、大盛りのご飯を二つ。あとはおにぎりとか、食パンとか・・・。それを温めて宮田氏とホテルに戻る。

 いやあ、疲れた一日だった。おかしいと言えばおかしいのだけれど・・・きちんと走り切った、という達成感は少なくともある。あんな状況で救急車を呼んだら顰蹙ひんしゅくものだからな・・・。コンビニのシューマイは結構美味うまかった。モツ煮もまあまあ美味かった。腹が減っているからなんでも美味おいしいと言えばそれまでなのですが・・・。

 ここでも文章を書いたり、音楽を作ったりしたいと思っていたのですが・・・もちろん疲れ過ぎてそんな余裕はなく、やがて眠りに就きました。そういえばホテルの受付の女の子は(二十代半ばくらいだと思うのだけれど)、イントネーションがちゃんとで、なかなか微笑ほほえましかった。本人は標準語を喋っているのだけれど・・・なんとなく尻上がりになっちゃうんですね。僕はその辺の言葉の地域差がすごく好きな人間なので、是非直さないでいてほしい。そういえばローソンに行く途中で聞いた歩くサラリーマンたちの言葉もちゃんと「イバラギ」弁だった。東京からそう離れていないのに――そういえば泊まったのは水戸市内です。ちなみに――こんなにローカルな雰囲気を醸し出しているなんて・・・。すごく素敵です。ぜひ自信を持ってください。茨城の皆さん。僕はとてもこの土地が好きです。

 翌朝の朝食で、「納豆すくい放題」というのがあって、もちろんたくさん納豆を食べた。たぶんホテルの朝食バイキングが久しぶりということもあって、テンションが上がっていたのでしょう(まるで小学生みたいですが。はい・・・)。ご飯大盛り二杯くらい食べた。里芋も4個食べた。サラダも大盛りで・・・。そしてネギとか生姜とか、とか、温玉とか、そういったものをぶち込んだ納豆を食べる。あまりに食べるので宮田氏は驚いていた。「そりゃ大食いだよ」と・・・。

 普段運動をして結構食べているので、きっとその量に胃が慣れてしまっているのでしょう。ランニングをして、バイトをしていればあっという間にその分のエネルギーなんか消費してしまうのですが(でもまあさすがにこのときほどは普段は食べない。もうちょっと節制していると思う)、今回は旅行です。でも旅行中につい食べ過ぎてしまう、というのはきっと僕だけではないと思う。意識が「特殊モード」に入っているというか・・・。まあ今は特別だからいいだろう、みたいな。せっかく水戸に来たんだし、納豆を食べないでどうする、と思ったのは事実ですが。はい。

 その後ちょっとした買い物をして――新しい職場で必要となるものを買ったのですが・・・。それに宮田氏を付き合わせてしまった――一路東京に戻ります。ちなみに車の中に置きっぱなしだった前日の濡れたウィンドブレーカーとか、帽子とか、ランシューとかは、カチカチに凍っていました。これは笑った。ホテルの従業員のおばさんに聞いたところによると、水戸も一年に一回くらいはこれくらい積もるそうです。あとは「言葉がなかなか独特ですね」というような話をしたら、恥ずかしそうに(でも結構嬉しそうに)「あるドラマで茨城はとても言葉が汚い、というようなことを言われて・・・」と話してくれました。すごく誇張された茨城弁を使っていたそうです。そのドラマでは、ですね。でもそれはそれとしてこれが茨城なんだから良いじゃん、という感じで「開き直る」というのか、「自虐的である」というのか・・・。その辺のはにかんだイバラギ性のようなものが僕には好感が持てました。都会に染まるな! イバラギ県!(その女性は明らかに「イバラギ」と発音していた。だから僕もそれにならう)

車には雪が積もっていました・・・。宮田氏の帽子はカチカチに凍っていた。
水戸の路面の氷。なかなか素敵です。ひどく歩きにくかったけれど。

 首都高を宮田氏に運転してもらって、徐々に徐々に都会に僕らは近づいていく。田舎から、都会へ。ごちゃごちゃしたわけの分からない世界へ。でもさほどネガティブな気持ちはありませんでした。むしろ・・・ここで俺は何かをしなくちゃならないんだよな、とか思っていたくらいです。ただ生き延びるだけじゃなくて、もっとポジティブに、何かをクリエイトすること。それができるはずだ。ここから何かが始まるんだ。これは再出発なんだ・・・。

 と、いうことで帰ってきました。さすがにその日はお昼を抜いて(甘酒とみかんだけは摂りましたが)、夕方に川沿いを――いつもの道を――10キロほど走った。それでまた腹も減ってきました。その日の空は異様に澄んでいて、三日月が綺麗に見えました。富士山も見えたかな。なんだかまだ意識がふわふわと浮いているような感じでしたが・・・その翌日にバイトに行って、翌々日もバイトに行って、今まで通り働いていると、あっという間にルーティーンに戻ってきます。人間というのは不思議なものだよな、と今この文章を書きながら思っているところです。ときどき無性に慣れ親しんだルーティーンから離れたいと思うのに――そのために旅行をするわけですが――やっぱり普段の日常に帰ってきてみるとホッとする、というところがあります。まあそのバランスを取るのが大事なのでしょうが・・・。

 これからの目標はまず二月からの新しい職場に慣れることと、その中で新たなルーティーンを設定すること。そして自分の中の「何か」をもっと有効に表現できるようになることです。はい。

 僕はたぶん今まであまりにも「遠慮ぶか」過ぎたのだと思います。なんとなく実感としてそう思うのです。実家に帰ったことで僕は自分のルーツを辿り(良くも悪くも、ですが)、少しだけ勇気を回復したような気がします。あそこはあそことして存続していくのだけれど・・・俺は俺のことをここでやらなくちゃならないよな、とあらためて感じた次第であります。ここは人が自由になるための場所です。僕はあまり遠慮なんかせずに、もっと自分のやりたいことにチャレンジするべきなのでしょう。今年で32歳になります。想像していた32歳とは違うけれど・・・少なくともまだ生きてはいる。大事なのはそのことです。僕は自分の中のグルーヴを――その方法はなんであれ――有効に生きなければならない。形だけ整えてごまかすのではなくて、本当に、自分の納得できる形で生きなければならないのです。なぜなら魂をごまかすことなんか、本当は不可能だからです。しかしその「源泉とのつながり」のようなものは・・・まず数字で測ることができません。自分が自分の実感を通して、身体を持って感じ取るしかないのです。僕はまあ、そういった方向にこれから向かっていくことになりそうです。偽善とか、あるいはそれに対する安易な反抗とか、そういった形ではなくて、もっと建設的な温もりのある作品として、結実させていきたいと考えているのだと思います。

 と、いうことで、この辺で失礼しようと思います。人間はいろんなことを考えて、いろんなことをやって生きているものだけれど・・・やはり最後に重要になるのは最もシンプルなものごとなのだと僕は感じ始めています。「」。不毛さを埋めるのは――灰色の退屈さに打ち勝つためにも、ですが――そういったなまの感覚だけなのではないかと感じています。今ここを生きること。言うはやすく行うはかたし、ですが。

 皆さんの日々が充実したものであることを祈ります。僕は僕のことを頑張ります。それでは。

最後にまた田んぼ。特に意味はありませんが・・・。はい。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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