故郷への帰還、そして再出発

 2023年、1月22日、日曜日。夜。僕は今実家の仏壇のある部屋にいる。ここに母親が布団を敷いてくれたのだ。6年10ヶ月前に八王子に出てくる直前まで、僕はやはりこの部屋で寝起きをしていた(寝起きいた。仕事もせずに、だが・・・)。当時寝ぼけて割った曇りガラスは、僕がガムテープで補修したままになっていた。6年と10ヶ月。これはこのようにして保存されたままだったのだ。補修のやり方が優秀だったということだろうか・・・。

両側からテープを貼るのがポイントです。そのようにして強度が倍以上に増すのです。はい。

 まあそんなことは別にして、これだけ実家から離れていたあとにようやく帰ってきてみると、なんだかすごく変な気がするから不思議なものです。いろんなものの見え方が、たしかに前とは変わってしまっている。僕はちょうどその分東京の外れで――良くも悪くも、だけど――経験を積んできたわけで、その6年10ヶ月分の変化が、かなりダイレクトに「差」として現れて出てくる、というところがあります。たしかに。

 それでもまあこの実家の景色は幼少期から見慣れているので、すぐに馴染んではくるのですが・・・何度も何度も東京で夢で見たせいか、いろんなものの縮尺が少々縮んでいるように感じられて仕方がないのです。おそらくは記憶や夢の中では、幼少期の視点が多くを占めているせいで、物の大きさとか、高さとかが、子供目線で捉えられたものに置き換わってしまっていたのでしょう。だから多くのものが「あれ? こんなに小さかったっけ?」と思えてくることになったのだと思います。まあこれは推測に過ぎませんが・・・。

昔ここには魔女が住んでいるのだと夢想していた。もしかしたら本当にそうなのかもしれませんが・・・。でも魔女っぽい木ですよね。枯れ草も怪しい雰囲気を醸し出している・・・。

 それでも今年93になるじいちゃんが遅くまで起きて僕の到着を待っていてくれて、ニコニコと「あんまり太んねえな」とか言ってくれたりすると・・・まあこちらとしても嬉しくなってきてしまうわけです。昔はバトルもしましたが(精神的なバトルのことですが。はい・・・)。

 本来ならば作家として名を成して自分で車でも買って、それで帰ってくればよかったのですが・・・なかなか現実はそうもいかず、宮田氏と二人でレンタカーに乗って東京から帰ってきました。途中ヒラヒラと雪も舞っていた(福島あたりです)。久しぶりに運転するとなかなか楽しいですね。すぐに飽きて疲れてくる、というところはたしかにありますが(東北道は景色が単調で・・・ちょっとつまらない、気が、する)。

佐野サービスエリアの塔。と空。ここに時々UFOがやって来るらしいです。数万年に一度、ですが。

 しかしまあ星が綺麗です。。それが車から降りて感じた、第一の印象でした。そこまでの道のりで、ほぼ7年ぶりに見た街の景色は・・・良くも悪くも、僕の心を過去の日々へと連れ戻していきました。ここでこんなことがあったよな。ここはもっと別の店があったはずだ。あれ? こんなものあったっけ?

 でもたとえば小さなもの。ガードレールのさびとか。雑草の生え具合とか。帰ってすぐに走りにいって(寒い中10km走りました。懐かしの道・・・)嗅いだ牛の匂いとか・・・。そういった具体的な、自分でもほとんど忘れかけていた個別のポイントたちは、僕に特殊な言語で語りかけているようにも感じられました。俺たちはかつては当たり前のものごとだった。そこにあるのが当然だったのさ。でも今は違う。と君は認識できるはずだ。7年近くの経験の中でそれを学んだはずなのさ。さあ、俺たちを線で繋いでくれよ。そうすれば・・・いずれ何かが見えてくるはずだからさ、と。

 あるいは考え過ぎなのかもしれない。僕はただ久しぶりに帰ってきた故郷を見て、ノスタルジックになっているだけなのかもしれない。でももしそうだったとしても・・・その個別のポイントたちは・・・やはり僕にとって重要な意味を持っているような気がしてならないのです。それをそのままやり過ごすのか、それとも記憶に留めておいて、あとで別の何かに利用するのかは・・・人それぞれですが、僕はできれば後者になりたいと思う。というか作家(志望)がすべきなのは、そのように語りかけられた、特殊な言語を、また別の、人々に理解できるような一般的な表現に移し替えることではないのか、という気がするのです。記憶の中にある感情を――そのを――喚起し、そしてまた別の動きへと繋げていくこと。精神をスタティックな枠組みにはめ込んでしまわないこと。「懐かしい」だけで終わりにせずに、「今ここ」を生きるために記憶たちを有効に利用すること・・・。

 まあなんとかトライしてみようと思います(時間はかかるかもしれないけれど)。なぜならそうしないことには、僕はあの頃のグズグズグダグダしていた自分と同じままだ、ということになってしまいそうだからです。外側に何かを求めるのではなく、自分からアクションを起こすこと。それこそが今の自分にとっての、最大の楽しみになるのではないか? 苦しみはたしかにあるけれど・・・それはまあ前提としてそこにあるのであって、受け入れてしまえば大したことないものです。あの頃のような「不毛さ」に比べればですね・・・。当時は――仕事もせずに本ばかり読んでいた僕は――自分に何かが生み出せるかもしれないなんて考えたこともなかった。それは傲慢なことなのだと思い込んでいたのです。いや、実際に傲慢なのかもしれない。僕なんかよりももっとうまく文書を書ける人たちは確実にいっぱいいるはずだからです。しかし、僕自身の人生、という観点で見たときに、やはり僕は自分の魂のために何かを書かなければいけなかったのだと思う。そしてそのためにいろんな経験を積む必要があったのでしょう。今ならそれが分かります。あの当時には分からなかったけれど・・・。はい。

 とにかく僕はここにいて、過去の自分と向き合わされているような気がしています。あらゆるものに、あらゆる染みに、あらゆる傷に・・・僕の幼少期の記憶が染み付いてしまっているのです。それは・・・いささか複雑な気分です。要するにここにあるものごとが――ここで見たものごとたちのが――僕のほかのものを見るときの「基準線」になっているということだと思います。まあ誰だってそうだろうとは思うのだけれど、小さい頃から二十歳はたち頃まで積み上げた経験たちというものが、その後のあらゆる行為を評価する軸になってしまう、というところがあります(もちろんそこにある程度の変化の余地はあるわけですが・・・)。僕はもう少し自分は自由な思考を持っているのだと思っていたのですが・・・たとえば東京で生活していたとしても、そこで見るものごとは「あ、あの実家の光景と似ているな」とか。「地元の町のあそこに雰囲気が似ているな」とか。「この人はあのときに見たあの人に似ているな」とか。「ここは地元と比べて、これくらい違っているな」とか・・・。良くも悪くも、この故郷の景色に潜在的に支配されているみたいです。それは考えてみれば・・・少々窮屈な状態だとも言えるかもしれない。でもそれはもちろんこの田舎の町が悪いというわけではなくて、あくまで僕個人の問題です。町は町だけれど・・・そこで暮らしているうちに「町」というものに変わっていきます。そこに記憶の「積み重ね」が生まれ、感情が否応いやおうなく付着し、ある人は死に、ある人は生き残り・・・。主観世界と客観世界が絡み合った、いささか複雑な状況が生まれることになります。「故郷が好きだ」とか、「故郷が嫌いだ」とか、一言で片付けてしまえれば楽なんだろうけれど・・・僕にはとてもそんなことはできそうにありません(そしてほかの多くの人々もまた、似たような感情を抱いているのではないかと想像するのですが・・・)。いずれにせよ、ずいぶん久しぶりにやって来たこの場所の雰囲気を――そして個別のものたちが発散する一種の存在感を、その哀しみを、その不毛さを・・・――きちんと吸収して帰ることが重要だという気がしています。正直なところ、こちらの町(宮城県の外れの方ですが)に対する複雑な関係に比べれば、東京に対する僕の姿勢はシンプルです。生きる手段としての場所。それ以上でもそれ以下でもない。そしてなんとなく、東京という場所はそういったドライな関係性に適した場所のような気がします。手段はいっぱいあるからね。それをどう利用するのかは君たち次第だよ、というような。常に変わり続け・・・さまざまな人々が行ったり来たりする。東北からも九州からも関西からも、ほかの地域からも・・・。

 僕はここにあるものごとと同時に、過去の自分自身とも向き合わされています。少しは強くなったのだ、と信じたいけれど・・・どうだろう、実際には。よく分からないな・・・。でもやって来る途中で思っていたのは、やはり自分にとってはこの町を外から眺めるという行為が絶対に必要だったのだろうな、ということです。「自明性」という閉じられた枠組みは、やはり実際に外に出てみないとその意味がよく理解できない、というところがたしかにあるみたいです。旅行者として出るというよりは・・・実際に外の全然違った環境のもとで長く暮らしてみること。そのことによって――少なくとも僕の場合は、ですが――自分にとって何が足りなかったのかが見えてきます。僕は・・・たぶんここに――つまり故郷の町に、ということですが――いるときは、精神的な発展を求めていたのだと思うな。きっと。うん。ただお金を稼いで生活していければいい、というだけの話ではなくて・・・自分自身を発展させ、強くしていきたかった。そしてそのためにはどうしても外の空気を吸い込む必要があったわけです。誤解されると困るのですが、これはすべての人に当てはまる法則ではありません。当然のことですが。故郷の町に残って、辛抱強く働いて、そこで精神的な充実感を得る、という人もきっといると思います。あるいは全然死ぬまで帰らない、という人だっているでしょう(実際には少ないか・・・)。まあなんにせよ、これは僕の個人的な実感であって、汎用性はあまりない、ということです。その辺をご理解頂ければ幸いです。だから僕が東京に帰るからといって、こちらを軽視している、というわけにはならないはずです。というかむしろ存在感が大きいからこそ――文字通り僕の人間としての「基礎」を成しているわけですが――そのためにこそ、離れる必要があると感じているわけです。そうしないと自由に進むべき方向を選び取ることができないからです。そう、です。僕が求めているのは・・・。

 人間の生涯は短いもので、僕自身だっていつまで生きられるか分かりません。だからあまり場所に縛られたくない、という思いも生まれてくるのかもしれない。でももう少ししたら、やっぱり故郷でこの新鮮な空気を吸って、地に足を着けて、きちんと生きていきたい、と思うかもしれない。だからその辺はケースバイケースです。自分をニュートラルに保って・・・そのときの感情に正直になること。それがすべてであるような気がします。シンプルだけれど・・・シンプルになることは時にとても難しい。でもまあ目指すところはそこです。そして今この瞬間に限っては・・・僕は故郷の光景を心の奥にしまいながら、別の場所で「自由」を――精神的自由を――目指す、という方向に至りそうです。もちろん「経済的自由」もまた欲しい、というのは正直なところですが。

 結局日曜日はコロナウィルスの検査やら何やらで、バタバタして、出発が遅くなってしまった。でもとにかく宮田氏と共に、午前十一時半くらいに八王子を出て、高速に乗って、ひたすら北上して――途中で持ってきた巨大なおにぎりを食べましたが――仙台で降りて母方のばあちゃんに会って、そんで帰ってきました。五時間から六時間は運転していたな。宮田氏と久しぶりに会っていろんな話をしていた。精神的なこと、仕事のこと、故郷への感情・・・。

再び佐野サービスエリア。ここで巨大なおにぎりを食べた。

 彼はランニングシューズを忘れる、という失態を犯したので――旅行にトラブルはつきものですが――古川インターで降りて、ゼビオに行って、彼はランシューを買った。きちんと足の測定までしていた。ここはしょっちゅう両親に連れられて来ていたところだったので・・・ここにもまた数々の記憶が染み付いている。国道沿いの巨大な駐車場があるショッピングセンター。こういう光景を見ると、否応いやおうなくレイモンド・カーヴァーの小説を思い出すことになります。ショッピングモールにパン屋があって、そこのパン屋がケーキを受け取りに来ない客に迷惑電話をかけます。しかしそのお客さんは子供が交通事故に遭って病院に行っていたのです。誕生日ケーキを食べるはずだった男の子は集中治療室に入っている・・・。そのような状況の中の感情のを、カーヴァーのシンプルな筆は感傷にさずに書いていきます。彼自身あのような――いささかさびれた田舎町のショッピングモールのような――あまり面白いとは言えないような、あるいは退屈でさえある光景たちを、記憶の奥の方にいっぱい溜め込んでいたんだろうな、ということがよく分かります。彼は僕が生まれる前に亡くなっていますが、それでも共感を覚えることができます。田舎者つながり、というか。でももちろん田舎者じゃなくたって精神的な「不毛さ」とか、それが発する灰色の雰囲気とかは、みなさん誰だって経験済みだと思います。人はみんな今を生きている透明な存在ですが・・・どうしても「退屈さ」から逃れることはできないみたいです。ある程度の年齢を越えたら努力してそこに挑戦していかなくてはならないのではないか、と僕は感じ始めているのですが・・・。

国道沿いのショッピングセンターの景色。床のタイルの禿げ具合がなんとも言えず良いですね。

 いずれにせよ午後7時半くらいに帰ってきて、八王子のお土産のカステラを渡して(コロナは無事陰性でした。よかった・・・)、亡くなったばあちゃんの仏壇に線香をあげて・・・そのあとで氷点下の中外を一時間ばかり走ってきました。かつて走っていたコース。仕事もせずに、本ばかり読んでいたけれど・・・運動だけはしていた。そのコース。ただ夜だから外の景色はあまり見えない。腕と胸にライトを付けて・・・走る。ものすごく寒い。もう完全に東京の気温に慣れてしまっていたので、東北の冬は寒いですよ。本当に・・・。耳が痛くなってくる。それでも星はものすごく綺麗だった。オリオン座と冬の大三角形が僕を見下ろしている。もちろんカシオペア座も・・・。寒すぎていつもよりペースを上げて走っていた(上げないとどんどん体温が下がってきちゃうので)。途中すれ違った(あるいは追い越していった)車は全部で7台くらいしかいなかったような気がする。日曜日の夜だから誰も歩いていたりはしない。自転車の人もいない。もちろん当然のことなのだけれど・・・長く東京にいたあとで帰ってきてみると・・・あらためて人の少なさに驚かされることになります。まあ平日の日中ならさすがにもっと人はいるはずなのですが。

 走り終えたあとで、両親が用意してくれていた寿司を食べました。美味おいしかった。そして三陸の牡蠣かき・・・が入った牡蠣汁。牡蠣なんて食べたのはいつ以来だろう、まったく・・・。こうしていろんな話をしていると、だんだん昔の感覚が戻ってくる、というところがありました。レンタカーを借りて(トヨタのハイエースでしたが)、家族に手伝ってもらって東京に引っ越してきたのがつい昨日のように思い出されます。本当に昨日だったんじゃないか? 八王子のCOCO’ S(ココス)でめしを食ったのが7年近くも前だなんて・・・なかなか信じられない(そういえばあのときは桜が満開に咲いていたな・・・)。

 でもまあやはり時は経ったのでしょう。どのような自然科学者も、神様も(たぶん)、時を取り戻すことはできません。我々はきっと前だけを向いて生きていくべきなのでしょうね。消えてしまったものを嘆いているよりは(たとえば犬が死に、ばあちゃんが亡くなっていました。僕のいない間に)、今そこにある時間を有効に使うこと。それこそが重要なのでしょう。そしてそのためには自分を可能な限りニュートラルに保っておく必要があるみたいです。。それは「言うはやすく、行うはかたし」の典型的な例ですが、まあとにかく。

 具体的に面白かったのは――あるいはそんなことを面白がっているのは僕だけかもしれないのですが、とにかく――たとえば古川のゼビオで、「ああこの人たちは全員宮城県人で・・・そのことに特に疑問を感じずに生きているんだな」と感じたこととか(当たり前のことではあるのですが)、じいちゃんのちょっとした方言とか(「ぬくいからこっちさござい」→「暖かいからこっちに来なさい」という意味です)、昔使っていた茶碗で今この瞬間にご飯を食べている自分自身とか・・・まあそんな取るに足らないようなことたちです。はい。要するに概論として言えば「自分がかつて自明だと思っていたものごとはやはり自明ではなかったのだ」ということの再認識、ということになるのではないかと思います。人間はいろんなものごとを経験して、いろんな記憶を溜め込んで、それをかてにして――あるいはその落差を認識しつつ――徐々に徐々に成長していくべき生き物なんだろうな、と感じている今日この頃です。はい。もちろんそこには前進しよう、発展しよう、「今ここ」からさらに世界を広げていこう、という意欲は不可欠のものとなっていくはずなのですが。

堤防の裏の川。ここは僕の夢によく登場する。夢の中ではコンクリートで舗装されていて(たぶん別の場所で見た水路と混じっている。記憶が)、大抵巨大なカジキマグロの魚影が見えている。僕は先輩とか友達と一緒にそれを釣り上げようとするのだけれど・・・カジキの本体を見たことは一度もなかったような・・・気がします。あれは何の象徴だったんだろう?

追記:まあそれでもなお、やはり帰ったら僕はあちらの(つまり東京の)自明性の中に戻るわけです。小世界から別の小世界に移る。まあ言ってみれば同じようなものです。でもその二つの世界の違いを認識しているだけで・・・少々「姿勢」というものが変わってくるような気がしています。しばらくは違和感を抱き続けるはずだとは思うのですが(特に二月から新しい職場に移るので、それも関係している・・・)。

 僕が思うのはその「違和感」を、つまり自明性の欠如を、病理的なものとしてではなくて、もっとポジティブなものに転換していくべきなのではないか、ということです。強固に構成された世界観を壊すのは勇気の要ることですが・・・それをしないとおそらくは精神的発展というものは見込めない、ような、気がしています。まあ僕が今回ここにやって来たのも、新しくアルバイトを見つけてきたのも、そのような変化を求める気持ちの「現れ」だったのではないか、と感じている次第なのです。心の中ではまた新しいルーティーンを早く設定して(いつ起きればいいのか、いつ食事を取るのか。どれくらい取るのか。どれくらい走ればいいのか。筋トレは何を何セット何曜日にやるのか。エトセトラ、エトセトラ・・・)、早く安定した状態で小説を書きたい、と切望していることも事実です。たしかに荷造りでバタバタしているときには、俺は本来はこんなことをやっているべき人間ではないんだ、とか思っていました。本当はもっと集中して、自分自身の文書を書いているべき人間なのだ、と・・・。それはたぶん間違っていないと思う。僕の中のプライオリティーの最上位には「自らにきちんと集中すること」というものが置かれるべきだと思うからです。それでもなお、ときには自分のシステムを壊さないといけない。「自明性」を揺さぶらないといけない。違う匂いのする空気を嗅がなければならない。違う道を走らなければならない・・・。まあ「飽きていた」と表現してしまえばそれまでなのですが・・・。なにしろ面倒くさいことを考えるのが好きな人間なので、このような文章を月曜日の朝に書いていた、というわけです(最初の部分は夜に書いていたのだけれど、やがて眠ってしまった。そのあと布団の中で寒すぎて起きた。まったく。東京じゃここまで下がらないよ・・・)。

 ちなみに今回の帰省の前に、ピーター・バラカンさんのラジオ番組「Barakan Beat」にリクエストを送ったところ、めでたく読んで頂けました。これは嬉しい(パチパチ)。正直なところジェフ・ベック(Jeff Beck)が亡くなり、そしてなんと高橋幸宏さんが亡くなったあとの回とあって難しいかなと思っていたのですが・・・読んで頂けて少々恐縮であります。ピーターさんは昔YMOの通訳をやられていたはずなので、本当にいろいろな感情が渦巻いていたとは思うのですが・・・。ちなみに僕がメールを送った時点ではそのお二人のほうはまだ届いていませんでした。ジェフ・ベックもよく聴いていたミュージシャンではあったのですが・・・。

 2023年、1月15日(日曜日)の回で、リクエスト曲はBlind Faithの”Can’t find my way home”でした。ピーターさんは最後に「無事にふるさとに辿り着くことを祈ります」と言ってくださいました。なんとか二人で運転して(僕は久しぶりで緊張しましたが)、無事辿り着きました。でも問題はちゃんと東京の日常に帰り着くことと、そこでどのように生きるのか、ということですよね。ただいろいろ考え出すと切りがないので、まずは「今ここ」のことだけを考えることにします。文章も書いて、ランニングもして、DAZNでアメフトの試合も観なきゃならないし・・・なかなか忙しいですね。いずれにせよみなさんが良き日々を送られていることを祈ります。僕は僕のことをやろう。では、失礼。

堤防の近くの塔(何のための塔なのかよく分からない。洪水になったときのための避難所なのかな?)。小さい頃ばあちゃんとか姉弟きょうだいとか、いとこたちとか、いろんな人とここに来てのぼった。尖っている棒みたいなやつは回すと取れます。取っていいのかどうかは分からないけれど。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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