さて、新しい年がやって来ました。2022年(2が多いですね、はい・・・)。いずれにせよ我々はこのようにして一年一年歳を重ねていきます。それはもう、避けられないことです。若返りたいならベンジャミン・バトンになるしかない(あるいはメフィストフェレスと契約するという手もありますが、まあとりあえず・・・)。
僕個人という点で言えば、去年30歳の大台を迎え――というほど大したものでもないのですが――なんだか今までのように下らないことに時間を費やしている場合じゃないよな、と考えている今日この頃です。
時間。そう、時間なのです。20代のときとの決定的な違いは、時間に対する考え方にあると思う。少なくとも僕の場合はそうです。これまで僕は馬鹿正直に直線的にしかものごとを考えられませんでした。目標を設定する。そして現在地を確認する。その二点の間に定規でまっすぐ線を引く。よし。最短距離を取ろうじゃないか。そして今ここの――言葉は悪いですが――クソみたいな状況を早く抜け出すんだ。まわりの奴らと一緒にぐずぐずと時間潰しをしている場合じゃないんだよ。俺はここでこんなことをやっているべき人間じゃないんだ。早く自由にならなきゃ!
それがまあ――要約すれば、ですが――20代の間の僕の精神状態でした。たしかに100パーセントこういった形ではなくて、僅かなりとももっと柔らかい思考をすることのできる部分は残っていたのだと思う。さすがにそうでもなければ、いまだに小説家を目指してアルバイト生活は続けていないと思うから。しかし基本的には、僕は多くの歳月を通して、そのような単純な論理的思考の内部に囚われていた――あるいは自分で自分を閉じ込めていた――のだと思います。四角い枠。地上の価値。以上。終わり。
でも言い訳じゃないですが、そういう考え方って、学校で徹底的に教わるものです。2×2が5とか、7とかになったら困ってしまいますからね。数学的思考。どこに向かいたいのかを設定し、そこに定規で線を引く。あとはひたすら努力をしなさい。そうすれば安泰です。老人になるまで――何も考えないで――生きていくことができる・・・。
何もそれが間違っている、と言いたいわけではありません。人間はなにしろ食べていかなくてはならないのだから。そして基本的には両親の方が子どもよりも早く死にます。だとしたら自分自身の手で、食い扶持を稼がなければならない。というかそうしないと社会も回っていきませんからね。税金が納められなければ、教師の給料も払うことはできない。国も動かない。うん。それは困ったことだ・・・。
一方で個人の視点というものがあります。それは一つ一つの魂の視点と言い換えてもいいかもしれない。その視点は常に動いていますし、プラス――ここが重要――死を内側に抱えています。それはもう、生まれた瞬間ならインプットされているみたいです。まあ当たり前のことですよね。誰も死を逃れてはいない。一時的に逃れたと思い込んだとしても、それは大抵狭い世界の内部に逃げ込んでいるだけのことです。時は今も流れ続けているし、それはつまるところ、すべての人々が確実に死に向けて押し出されている、ということを意味する。見るのか見ないのか、という違いがあるだけです。
そしてそのような二つのパースペクティブが並列に存在しながら、社会というものは――あるいは人生というものは――進んでいくのだと思います。「社会の歯車」的側面と、柔らかい魂を持った「一個人」という側面です。本来そこに優劣の差はないはずだし(正誤も)、そもそも比べることのできない価値基準が並列に存在しているのだと思います。結局金を稼ぐのは手段で、生きるという行為の本質は魂の方に属している。僕はそう考えて生きてきました。
それで何を言いたいのか、というと・・・そう、僕はもっと自分を自由にしていきたいのだ、ということです。これはまあずっと前から思っていたことではあったのですが・・・とりあえず、というかとにかく、このようにして30歳を越えてみて、あらためて感じているのは、やはり形のないものの方がずっと大事なのだ、ということです。直線的思考によって得られるものはやはり地上のものだけみたいです。食べ物、金、他人からの称賛。あるいは純粋に非難を受けないこと。安定、エトセトラ、エトセトラ・・・。
しかしやはりそれらはすべて手段に過ぎません。僕らが必死に地上にしがみつこうとするとき――どうしてこんなにも絶望的に何かにしがみつこうとするのだろう? 僕らの意識は?――少なくとも僕の観察したところによれば(そして経験によれば)、その対象はすべて地上のものごとです。そしてそれは何も今に限ったことではないみたいです。人間の意識というものが生まれてからずっと、そういった流れは続いてきたみたいなのです。僕らは――僕らの意識は――何かをひどく恐れていて、結果的に目に見えるものにしがみつくことになる。しかし、もちろんそれによって精神的自由を――透明な自由を、ですね――失うことになる。ドグマティズム――教条主義(善悪の基準を単純な形式によって縛ってしまうこと)――が幅を利かせ始めると、長い目で見てやはり人は不幸になるみたいです。いずれにせよ時は流れ続けている、というのが最近僕がずっと考えていることです。
いずれにせよ時は流れ続けている。うん。まあ考えてみれば当たり前のことですが、実を言えばその事実から僕らは目を逸らそうとしているのではないか、と時々思うのです。時の流れ着く先はやはり死です。個人的な死です。あるいは明日かもしれない。明後日かもしれない。5分後かもしれない。いずれにせよ暗黒の死が――まあもしかしたら暗黒ではないかもしれませんが、とりあえず――そこには存在しています。ある程度発達した意識がそれを見ないで済ますことは不可能なのではないかと僕は感じているのです。
そこで有効なのが物語です。直線的な思考ではなく、感情を託すことのできる物語です。そしてそれは――もしそれが有効なものであったら、ということですが――確実に精神の基礎と結び付いています。というか結び付いているべきだ、と僕は感じているのです。僕がやりたいこととは――真にやりたいこととは――この部分のものごとなのではないか、とひしひしと感じています。これは明らかに地上の尺度では計れないものです。2×2が4にはならないものごとです。論理性の間に、何か計り知れない要素が――ルールが――介在してきます。夢のことを考えると分かりやすいかもしれない。夢の中では僕らは不思議な世界を経験します。そこでは地上のルールが歪められている。家だと思っていたのが学校になったり、職場になったり、突然若返ったりします。僕はなぜか高速道路を逆走する夢とか、なぜか富山県を目指す夢とか――山が綺麗に見えます。雪化粧の山々・・・――東京にいると思ったら宮城県の実家にいる夢とか・・・そういうのをたくさん見ます。あるいは狭い穴を一生懸命通り抜けようとする夢とか(その先には大体また狭い通路が続いているのですが・・・)。物語――意識的な物語――が目指しているのは、そのような夢の世界の内部に、意図して入り込むことなのではないか、と僕は思っています。そしてその結果――その試みが成功したあかつきには――僕らは僕ら自身の源泉に僅かでも触れることができるかもしれない。そのように考え、行動することは、むしろ人間の――ある種の人間の――自然な欲求なのかもしれない。なぜなら世界中、古今東西で、神話というものが生まれてきているからです。神話を持たない民族はたぶんどこにも存在しないでしょう。文学だって、日本のものも世界のものも、たくさんあります。そして有効に掬い出されたものは――つまり源泉から、という意味ですが――長い歳月を経た今になっても、生き延び続けているのです。
日本の古典文学についていえば――僕はそれに関する知識をほとんど持たないのですが、とりあえず――やはり〈もののあはれ〉という感覚が常に付きまとってきます。というかそうらしい、と、代表的な作品を齧っただけでも、感じ取ることができます(『枕草子』とか『方丈記』とかね)。それはつまり、今自分がこうしてここに存在しているのは束の間の状態であり、死は避けることができないのだ。俗人たちはその事実から目を逸らしているが、やはり真実を見つめるべきなのだ。ほら、今ここに美しい自然があるじゃないか? その美しさの裏にあるのは死だ。でも死があるからこそこれらのものごとは生きているのだ。私もまた、そのサイクルの――死と再生のサイクルの――一部として組み込まれているのだ。その事実を祝福しようじゃないか。僕は勝手にこう解釈しているのですが、このような感覚を何百年も前の日本人が抱いていた、と考えると、なんだか親近感が湧いてきます。彼らは彼らの束の間の時間性を生きていたし、僕らだって同じことです。生き延びることは容易になったかもしれない。しかしその「質」という点で言えば、果たして向上したと言えるのだろうか? 少なくとも僕個人という観点で言えば答えはノーです。僕はまだ有効に生きていない。残された時間は僅かだというのに――これはどちらかというと姿勢の問題なのですが、とにかく――本当の意味で死を受けれていないのです。その結果本当の生からも引き離されてしまっている。これは良くない、と僕は自分に対して言い聞かせます。これは良くないぞ、と。今までだったら(つまり20代の間だったら、ということですが)、直線的な思考の中で、とにかく筋トレをすればいい。そうすれば筋肉は付いて、あいつら(つまり普通の生活を送っている普通の人たちです)みたいにだらしない身体にはなるまい。とにかく走ればいい。そうすればそれくらいのカロリーを取ったってばちは当たるまい(長い間食べることが僕の一番の楽しみだった。まったく・・・)。とにかく新人賞に送って、賞を取りさえすればいい。そうすればこのバイト生活から抜け出して、自由になれるはずだ。そこから自分の本当の人生が始まるのだ。自明のことじゃないか? エトセトラ、エトセトラ・・・。
それはたぶんあながち間違ったことではないと思う。でも姿勢という点において、根本的に傲慢なところがあります。それが僕を怯えさせるのです。というか結果的に自分自身の大事なものを奪ってしまっていたのです。その姿勢が、です。どういうことかというと、僕は直線的な思考によって、今ここにあるはずの「意識の空白」ともいうべきものを、埋めてしまっていたのだと思います。計算、計算、計算・・・。いろんなことがイコール(=)で結ばれています。そうすれば何もかもが分かったような気になれる。でもそんな思考で書かれた物語を一体誰が読みたいと思うでしょう? 結局は地上にしか辿り着くことはできません。なぜなら地上のルールで書かれているからです。身体は安逸にソファの上に横になって、手のひらの上で主人公たちを好き勝手に苦闘させているようなものです。もちろんそういったフィクションが好まれる――売れる、という意味ですが――ことは分かってはいますが、そういった姿勢からは真に重要なものは生まれてきません。というか僕はそのことにすでに気付いてしまっているのです。結局のところ自分自身を危険な領域におかなければ、真にスリルに満ちたものは書くことができないでしょう。まずは自分を――今ここに生きている自分を――相対化しなければならない。要するにそういうことなのだと思います。
ええと、それでですね・・・。何を言いたかったんだっけ・・・。そう、いずれにせよ時は流れ続けている。そして死は真実のものです。それは我々をいつでも見つめています。ないと思い込んでいるときですら、どこかには必ず存在しているのです。僕はそれを知っています。というかみんな知っているはずなのです。生きて、この世の空気を吸っている人々は、ということですが。
そしてそういう観点に立つと、やはり計算できないものの方が大事なのだ、という結論に達することになります。目に見えるものにしがみついていると、そういったものを感じ取る余地のようなものがどこかに消えてしまうのです。意識が本来保持しているべき空白、と僕が言うのはそういった部分のことです。僕らはそれを妄想で、あるいは恐怖で、あるいは計算で、埋めてしまうべきではないのでしょう。それは僕が30歳になってひしひしと感じ取っていることです。少なくとも一日のうちの何パーセントかは、空白のために取っておく必要がある。何もみんながそれをやらなければならない、というわけではないのですが、少なくとも僕は個人的にそういった要求を心のどこかから感じ取っているのです。というか感じ取ってきたのです。二十歳くらいの頃から十年間、ずっと。
そう、僕の中の一部は執拗に声を上げ続けていたのでした。しかし僕はそれに有効な逃げ道を与えることができなかった。少なくとも少しずつその「余地」のようなものを広げようと努力はしてきました。それはたぶん間違いのないことだと思う。地上への「しがみつき」をちょっとずつなくしていって、意識を自由にすることのできるスペースを与えること。もしそれが成功したならば、僕の中の何かが――それは深い部分にある何かなのですが、その実体が何であるのかはよく分からない――今、ここで、自由に動き回れるかもしれない。それを「文章」という形で取り出せば小説になるだろうし、「音」という形で取り出せば音楽になるでしょう。視覚的イメージで取り出せば絵になるのだと思います。僕は思うのですが、優れた芸術的絵画は時間の概念を越えています。何か永続的なものを確実に内部に含んでいる。一瞬なのだけれど、長い。その不思議さが、ときに僕らの心を打ちます。それはきっと文章も一緒なのでしょう。これまで世界中で数多くの文学作品が生まれてきたのだろうけれど、いまだに生き残っているものには何か永続的なものが含まれています。それはおそらく、人間の精神にとって普遍的な価値を持つものなのでしょう。イコールで結ばれていない言葉。物語――あるいは詩――という形でしか取り出すことのできなかった言葉・・・。言うまでもなく言語は意識のツールであるわけですが、その意識というものを我々は実はあまり理解していないのではないか、と僕は感じています。明らかに僕らの盲点に、何か大事なものが潜んでいるような気がしてならないのです。僕はそれを掘り出していきたいし、掘り出していかなければならない、と感じています。そういう観点で言えば、20代だろうと、30代だろうと、さほど変わりはないのかもしれない。特にその先にあるものがもし本当に永続的なものだったとしたら、ですが。
なんだか同じようなことをずっと書いているみたいですが、今ここにいる自分が正直に文章を書こうとすると、こういう内容になってしまうみたいです。すみません。嫌だったら全然読む必要はない。なにしろ時は今も流れ続けているのですから。
P.S. しかしよく考えてみれば一人で部屋にこもって小説を書く――書き続ける――ということほど不健康なこともないみたいですよね。お正月といえば家族と一緒に過ごして、まったりと身体を休める――あるいは餅を食う――というのが世間一般の流れなのかもしれない(お客さんを見ていてそう思いました)。しかし意識という観点で言えば、実のところ毎日が新年のようなものだと僕は――ひねくれ者の僕は――思ってしまいます。心持次第で、今日という一日を特別な日にすることは可能なのだと、心のどこかでは信じています。それにはもちろん孤独に、精神の奥の奥の方まで潜っていく必要はありますが。今それを試みているところです。はい。
そしてこれはまったく関係のない話なのだけれど、アメリカでもオミクロン株が流行っているみたいで、NFLの世界でもたくさんの感染者が出ています。食事中にアメフトを観るというのが僕の唯一の息抜きみたいなものだったのですが、こうも離脱者が続出すると、なんだか観ていて痛々しいというところもあります。あれだけの大男たちも病気には勝てないか・・・(というか無症状でも隔離されちゃうんでしょうね。きっと)。ニューオーリンズ・セインツの新人クォーターバックは、そうやって突然大役を(マンデーナイトフットボール。全米中継である)任されたわけだけれど、プロの世界の洗礼を浴びて、なかなか活躍できませんでした(めちゃサックを食らっていた)。まあオフェンスラインにも離脱者が続出していたみたいだから、仕方がないか・・・。ドルフィンズは元気なイルカみたいに生き生きとしていたのにね。タンゴバイロアは稀少な左利きのクォーターバックで、見ていて楽しいです。たしかハワイ生まれだったと思う。不思議な名前ですね。タンゴバイロア(Tagovailoa)・・・。
バッカニアーズのトム・ブレイディはたしか44歳になるはずだけれど、いまだに衰えていません。ブリッツを仕掛けられても(ディフェンスがリスクを追って襲いかかってくるわけですが)、涼しい顔をして、憎いまでに正確なパスを次々に通します。ブレイディとグロンク(ロブ・グロンカウスキー)のホットラインはペイトリオッツ時代からのものですが、まあ観ていて楽しいです。相手チームからしたら厄介だろうけれど。
ブレイディのすごさはほかのチームのクォーターバックと比較するとよく分かります。彼本人だけのゲームを観ていても、正直何がすごいのか分かりにくいということもある(僕はそうだった)。というのもあまりにも易々とパスを通してしまうため、アメフトって、まあこんなに簡単なものなんだ、と思い込んでしまうところがあるからです。しかし本当はそうではありません。ブレイディがすごいのです。そしてもちろん彼を守るオフェンスラインも。アメフトのオフェンスラインほど「縁の下の力持ち」という言葉が似合う人々はいないのではないかと僕は思っています。とにかくひたすら全力でクォーターバックを守る。あるいはランニングバックのための道を開ける・・・。実を言うと、その「道を開ける」という感じが僕は好きです。一試合を通して、ごく稀に、ランプレーでロングゲインを達成することがありますが、そのときのオフェンスラインの顔が一番生き生きとしていると思う。行け! どこまでも行け! という感じ。チームで一番の大男たちが務めるポジションですが、それだけに見ていて迫力があります。ときどきフォルススタートを取られてみんなに白い目で見られたりすることもありますが・・・それくらいは許してあげなくちゃね。NFLのディフェンスラインには屈強な野獣みたいな人たちが多くいるのですから(ラムズのアーロン・ドナルドはたしかにすごかったな。大抵二人がかりで守られていた)。
僕個人で言えばラインバッカー(LB)というポジションに興味があります。ディフェンスを統率する。パスプレーではスペースを埋め――あるいはマークに付き――ランプレーでは前方のギャップを埋めるために全力で突進します。そしてタックルを決める。そもそもが「騙し合い」みたいなスポーツではあるのだけれど、だんだんトリックプレーがうまく決まらなかったときのディフェンスの反応が面白くて見入ってしまうようになります。やはりどんなスポーツでも守備が良いとゲームが締まってきますね。ポンポンと点が入り過ぎると、ちょっと大味になって面白くなくなるケースが多い。まあそれは好き嫌いもあるかもしれませんが・・・。
失礼しました。アメフトに興味のない方はきっと何のことか理解できないでしょう。でもなかなか観ていて面白いです。ワンプレーワンプレーに集中して見入ってしまいます。アメリカ人はああいう方が好きなのかな。サッカーとかラグビーみたいにずっと続くんじゃなくて、野球みたいに一時停止がある方が。でも一概にも言えないか。アイスホッケーやバスケも人気だしね・・・。
まあいずれにせよアメフトは面白いということです。フィジカルコンタクトが多くて、怪我人が結構たくさん出るのだけれど――GMはそれを見越してチーム編成をしなければいけないのだろうな、きっと・・・――まあ少なくとも気楽にテレビで――ネットで――観ている分には楽しいです。今年のスーパーボウルにはどこが出るのやら。またマホームズ対ブレイディ(カンザスシティー・チーフス対タンパベイ・バッカニアーズ)を観てみたいという気もあるし、ほかのチームもそろそろ観てみたい・・・。まあ自分のことをやりながらだからなかなか観戦の時間も取れないのですが、こういう楽しみがあるのってそれはそれで良いことですよね。たぶん(この間スーパーにバッカニアーズのジャージーを着ている夫婦がいました。危うく声をかけてしまうところだった。たぶん話が合っただろうな・・・〈ちなみにブレイディのファンみたいでした〉)。
さらなる追記:そういえば僕の同郷の――と勝手に思っている――岩出山高校出身のヤクルトのピッチャー今野龍太投手が、昨年末に契約を更改しました。大幅アップだったそうです。よかったね。今野投手。一度戦力外になって、ヤクルトに拾われて、そして一年を通して投げ抜きました。最初は負けパターンの使われ方だったけど、次第に勝ちパターンの一画を占めるようになりました。これはすごい。そして日本一にまでなった。まったく・・・。そういえばヤクルトのマスコットのつばくろうがFA宣言をしていましたが、どうなったのか。まずはダイエットをするべきではないか、というのが僕の意見ですが・・・。
いつも楽しく読ませていただいています。私も小説を書いているので、物語が夢の世界の内部に意図的に触れるというのは、何か人間には物語が必要な一面があるのかなと思いました。最近映画を観たのですが、ファンタジーですが、登場人物やストーリーが現実離れしていて、やはり物語は人を惹きつける気がしました。最近、物語を空想してから書くようになりました。元々空想癖があったので、ならば物語を空想しようということで、書いています。
Hayakawaさん。どうもコメントありがとうございます。
そうですね。人間には物語がやはり必要なのかもしれない。必要ない、と思っていても、潜在的には求めているのではないか、という節〈ふし〉があるような気がします。
もっとも最近は、もっと〈現実〉というものの見方について考えるようになってきています。視点が変われば、やはり今まで当然だと思っていたものごとが、別の様相を呈するようになってきます。より流動性を増す、というか。まだまだこれからですが、歳を重ねながら、僕は自分の偏見を打破していかなくてはならないのでしょう。その先にこそ本当の自由が待っているような気がするのです。怖いことですが、真に怖いことの先にしか、成長はないような気がする。こんなのはただの個人的な実感ですが、とりあえず。