僕はコンビニでバイトをしているのだが、昨日こんな客が来た。
「えっと、あのう……63番のタバコを、一つ……」
「あの、身分証明書はお持ちですか?」
「え? 俺?」と彼はひどく驚いたように言った。「いや、持ってねえっすよ。いや、まいったな」
「だってほら、学生服着ているし、外の高校生のグループと一緒にやって来たから。あの、うちの近所の高校でしょ?」
「いや、俺ってほら……たしかにその高校っすけど、ほら、2回留年しちゃってるんで、今年の6月に20歳なってるんすよ。いや、なんというか、お恥ずかしい話ですがね」
「でも学生証くらい持っているでしょ」と僕は言った。もう片方のレジも稼働してはいるのだが、夕方のピークでどんどん混み始めている。真ん中の通路には列ができ始めていた。
「いや、俺ってほら、いろんなところにいろんなもの忘れちゃうんで。この間なんてズボンはいてくるの忘れてきたくらいですから。ハッハ。警察に捕まって気付いたんですよ。ヘッヘ」
「でも身分証がないんじゃあ……証明できないじゃないですか? 20歳だって」
「いや、大丈夫っすよ。ほら、俺ってすんげえ馬鹿だから。母ちゃんにも子供の頃から言われてるんですよ。お前は父親に似て馬鹿だって」
「でも馬鹿なだけでは20歳だと証明できないですよ」
「いや、俺ってトクベツなんで。ほら、トクベツな馬鹿なんで。ええっと、ほら、なんか質問してみてくださいよ。俺ってめちゃめちゃ馬鹿だって分かるから。ああ、2回留年しても仕方ないやつなんだなって分かるじゃないすか」
「なんか分かるような分からないような……」と僕は言ったが、ほかのお客さんたちがジリジリしながら待っているので、仕方なく彼に質問してみることにした。「1足す1は?」
「ええっと……」と彼は言いながらひどく難しい顔をした。頭をポリポリと掻く。「それってあれっすよね。小学校の1年生で習うやつっすよね。でも俺あんときなんも聞いていなかったからな……。ええっと……イチタスイチ……。いちたすいち……。それってあの、メソポタミア文明と関係ありますか?」
「ええっと……ないと思うね」
「ほんとっすか? いや、まいったな。イチタスイチ……それってあれっすか? 誰かの名前っすか?」
「いや、ほら、算数の問題だよ」
「ああ、そうか、算数か! なーんだ」と彼は言って、満面の笑みを浮かべた。「いや、そうじゃないかと思っていたんすよ。なんか数字っぽいなって。ええと、1足す1ですよね。つまり、1と1を足せばいいんだ。でも〈足す〉ってなんだっけ。あのう、それって……メソポタミア文明と……」
「関係ない!」と僕は言った。「それは冗談を言ってるんじゃないよね?」
「いや、マジっすよ。ほんとっすよ。信じてくださいよ! 俺ってほら、昔からなんか悪いことがあると疑われるんすよね。小2の頃なんか、近所の火事が俺のせいにされて……」
「犯人じゃなかったんだよね?」
「いや、疑わないでくださいよ。俺じゃないっすから。俺ってほら、すげえ馬鹿だからいろいろほっつき歩いていて……」
「分かった。問題を変えよう。ええと……日本の首都は?」
「え? シュト?」と彼はポカンとした顔をして言った。「ああ、首都っすね? 俺にも分かりますよ。それ。イヤッッホウ! 簡単だ! 俺にも分かるぞ! それってあれっすよね。つですよね。つ!」
「つ?」と僕は言った。「僕にはちょっと……君の言っていることが分からない……」
「ほら、つっていう街があるじゃないすか?」
「それは三重県の県庁所在地だよ」
「ああ、そうか! 惜しいな! でもすごくないっすか? ミエ県なんて一度も行ったことないのに、県庁所在地を知っているなんて!」
「じゃあアメリカの首都は?」
「ハワイ」
「ちょっと惜しい」
「いやあ、惜しいのってなんか嬉しいな。ワクワクしないっすか?」
「何が?」
「いや、あとちょっとだったってところが……」
「君が馬鹿なのは分かったけどさ、このままだとずっと高校卒業できないんじゃないの?」
「いや、それがっすね」と彼はニヤニヤしながら言った。「実は俺の弟がシュウサイで、補習のレポートとかやってくれるんすよ。それで俺はなんとか3年まで漕ぎ着けたってわけで。ハッハ。でも俺って自分の名前の漢字もよく分かってないんすよ。すごくないすか? よくこれで生きてこれましたよね?」
「でもさすがに何か得意なことはあるんじゃないの? 勉強以外に?」
「ええっと……それは人助けっすかね」
「人助け」
「そうなんすよ。俺、これまで3回賞状もらってるんすよ。踏切の中で転んじゃったおばあちゃんを間一髪で助けたりとか。ビルから飛び降りようとしていた男の人を説得して助けてあげたりとか。あとはあとは……なんだっけ? そうそう、行方不明になっていた子供を見つけたんすよ。すごいっすね、俺」
「うん、すごいよ。たしかに」。僕はそこで真ん中の列を見た。たくさんの人々がジリジリしながら待っている。「ねえ、タバコはまた今度にしたら? 身分証が見つかったら持ってきてよ」
「いや、俺ってほら、もうすごいニコチン中毒なんで、タバコがないともう頭おかしくなっちゃうんすよ」
「今以上に?」
「なんすかそれ? ひどいなあ」
「2足す2は?」
「えっと、4……じゃなくて……ヨン……ジュン! ペ・ヨンジュン! ほら、正解だ!」
「君本当は分かっているんだろ?」
「ええっと、何のことかなあ……」
「スリランカの首都は?」
「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ……じゃなくて……ああ、ああ……そう、アンタナナリボ! アンタナナリボ! ひゅう!」
「違う。アンタナナリボはマダガスカルの首都だ。というか君はスリランカの首都を知っていたな? 全部演技だろう? 君は本当は馬鹿じゃない。そのふりをしているだけだ。目的は何だ? 君は何者なんだ?」
「フッフッフ」と彼は笑いながら突然カツラを取った。ツルツルの頭皮が現れる。列に並んでいたお客さんたちは眩しそうに目を細めていた。彼は自分のおでこに指を当て――まるでエネルギーを溜めているみたいに見える――次にその指を僕のおでこに当てた。何かの儀式みたいだった。僕はどうしたらいいのか分からず、動きを止めている。「私は精霊じゃ。お前さんのためにやって来たんじゃ」
「意味が……分からない」と僕は言う。
「ここは夢じゃ。あんたは夢を見ておったんじゃ」
「いや、そんなはずは……。だってここはコンビニで……」。まさにそのとき列に並んでいたお客さんたちが一斉に蒸発した。プシュッという音と共に、跡形もなく消えてしまったのだ。別のレジにいた同僚も消えている。あたりはものすごく静かだ。
「わしはあんたの夢にお邪魔したんじゃ。それでちょっとからかってやっただけなんじゃよ」
「でもどうしてそんなことを……」
「いいか?」と彼は言った。「わしが言いたいのはただ一つのことじゃ、馬鹿になれ! 馬鹿になれば人生ハッピーじゃ。馬鹿にもなれないやつは……」
「なれないやつは?」と僕は言った。
「こうしてやる!」と彼は言った。そして突然ズボンを脱いだ。そして後ろを向き、僕に生のお尻を向けた。それはものすごくツルツルしていた。光を放っている。ものすごく眩しい……。
「真実はあまりにも眩しすぎる。だから人間の目では見えんのじゃ」
「じゃあ……どうしたら……」と僕はたまらずに目をつぶりながら言った。
「想像するんじゃ。真実の光を背中に浴びて、暗闇を見るんじゃ。そこに見るべきものが映っておる」
「僕は……いったい、何を……」
そこで突然バチン、という音が聞こえ、光が一気に消え去った。見えるのは暗闇だけだった。本物の暗闇だ。自分がどこにいるのかも分からない。ここは……コンビニじゃ……ないのか? だんだん不安になってくる。重力が変な風に作用している。なんだか上に引っ張られているみたいな……。自分が誰なのかも分からなくなってくる。僕は今……肉体を持っているのだろうか? 本当に?
「考えるな。踊れ! 踊れ!」という声が聞こえた。僕は踊った。あらゆる触手を動かしながら(なぜか自分には数千本もの触手があると思い込んでいた)踊り続ける。ドン、ドン、ドン、という太鼓のような音が聞こえてくる。いったい誰が鳴らしているのか……。
でもそんな思考も消える。僕はクラゲのようになって、暗闇で踊っている。馬鹿になれ、馬鹿になれ、馬鹿になれ……。そして目が覚める。
僕はベッドの上で「1足す1」について考えている。それはものすごく難しい。考えれば考えるほど混乱してくる。イチ……タス……イチ? それは言語というよりは、一種の呪文のように聞こえる。イチ……タス……イチ……。その答えは……。光だ。直視することのできない光。僕はその光を浴びて、闇を見る。なぜならそこが生きるべきスペースだからだ。そこに救いはあるのか? 僕には分からない。何も、分からない。本当の自分の名前が何であるのかすらも……。
「それでいいんじゃ」とどこかで精霊の声が聞こえる。
僕は小さく頷いた。