ナイフ

 このナイフは私の命を狙っている。私はそれを知っている。そしても――当然のことながら――それを知っている。

 私はもう思い出せないくらい前からこの台に縛り付けられている。この忌々いまいましい台に。両手両足は一ミリたりとも動かない。首だけは多少の余裕があるが――おそらく気道を塞がないためだろう――かといって左右の状況を見渡せるわけではない。

 私に見えているのは灰色の天井と、無機質な蛍光灯、そして紐のようなもので吊るされた一本の鋭いナイフだ。それはたぶん天井のどこかとつながっているのだと思う。肝心の部分はまぶし過ぎてよく見えないのだが、少なくともどこかにいる誰かがそうしようと思えば、一瞬で私の心臓めがけて落ちてくるのだろう。

 私は以前本でこのような状況を読んだ記憶がある。一体いつ、どこでだったのかは覚えていないのだが、こういう絶望的な状況に置かれた男についての文章を読んだことはたしかだ。その人物は結局死に至ったのだろうか? あるいはなんとかして抜け出すことができたのだろうか? 私にはどうしてもそれが思い出せない。記憶は混濁し、深い森の奥へと消えている・・・。しかし、本質的にいえば、そんなことは問題ではない。問題はこの状況を生き延びられるかどうか、ということにあるのだから。

 一体どうしてこんなことになったんだろう、ともう百回目くらいに考える。あるいは私は何か犯罪を犯したのだろうか? たとえば人を殺したり、女性をレイプしたり、物を盗んだり、放火をしたり・・・。そういう可能性はまったくないとはいい切れなかったが、いかんせんその記憶が一切なかった。あるいは私は悪い人間なのかもしれない。四肢の自由を完全に奪ってしまわなければ周囲の人間が安心できないような。でももしそうだとしたら、いっそのことひと思いに殺してしまえばいいのだ。その方が私にしても彼らにしても、ずっと楽な解決策であるはずだ。

 もしかしたら、とこれは今思い付いた仮説なのだが、彼らは私を苦しめようとしているのかもしれなかった。その、私がしでかした犯罪――あるいは犯罪に類する行為――に対する一種のサンクションとして。でもそれにしてはいささか状況が突飛過ぎる、と私は思う。官憲かんけんの姿も見えないし、たとえば弁解の機会を与えられることもない。ただ単にナイフが私の命を狙っているだけだ。

 あるいは私に見えないだけで、今誰かが――それは複数である可能性が高いのだが――この状況を子細に観察しているのかもしれない。そう思うとなぜか背筋に寒気が走った。何も知らないでいるのはこの私だけで、たとえばガラス越しに集まった観察者たちの目には、なにもかもが明確に映っているのかもしれない。

 でも少しすると、そんなことももはやどうでもよくなってしまった。観察者がいるにせよ、いないにせよ、結局のところ私にできることは何もないのだ。ただこんな風にして手足を縛られ、呼吸を続けているだけ・・・。

 そのときある不思議なことに気付く。どうして今までそのことに気付かなかったんだろう? それはつまり、どれだけ経っても尿意がやってこない、ということだった。普通生きている人間であれば、ある一定の時間が経過すると、膀胱ぼうこうからにしたい、という自然な欲求が生まれるはずだ。しかし私には一向に尿意というものがこない。もちろん便意だってない。これは一体何を意味しているんだろう?

 頭上にあるナイフの刃先を睨みながら私が考えついたのは、一つの非現実的な仮説でしかなかった。あわれな私の頭脳にはそういったとぼしい考えしか思い付くことができなかったのだ。それはつまりこういうことだった。

 

 つまり私は何かのたとえとして、こういった状況に置かれているのだ。たとえば常に命を狙われていることの具体的な--つまり視覚化された--一つのケースとして。少しでも動くとナイフが落ちる。手足の自由は利かない。過去についての記憶もない・・・。

 それは突拍子もない仮説ではあったが、なぜか今の私にはしっくりくるような気がした。つまり私は生身の人間ではなく、ただのフィクションの中の登場人物に過ぎないのだ。それもおそらくは使い捨てにされる、さほど重要ではない登場人物だ。

 私はその作者を憎んだ。本当にそんな人物がいるのかどうかも分からなかったが、とりあえず「いる」と仮定してもいいような気がした。というか、そもそも頭を使って考えを巡らせることのほか、何一つできないのだ。仮説を組み立てることくらい許されてもいいだろう。

 きっとその作者には文章的才能がないに違いない、と私は思った。なにしろディテールというものが徹底的に不足しているのだから。彼が書かなければならないのは、せいぜい三つくらいのものだ。灰色の天井。台に縛られた男。そしてナイフ。

 その先はその男に延々と話をさせればいい。奇妙な状況に置かれた男が、延々としゃべり続ける。彼は自らの置かれた状況についてさまざまな仮説を立てるが、そのどれ一つとして正しくはない。作者はそれを知りながらもなお、彼に意味のないおしゃべりを続けさせる。なぜならそこに一種の歪んだ好奇心を抱いているからだ・・・。もちろんそんな文章を読む人間がもし本当にいたとしての話だが。

 そう考えると、身体中に怒りが湧いてきた。尿意も感じず、身体の自由すらないにもかかわらず、怒りだけは人並みにあるのだ。それは私の全身を覆い尽くし、体温を二度ほど上昇させたあとで、すっと引いていった。まるで波が一斉に遠くに引いていくみたいに。

 ふう、と一度私は溜息をついた。するとその風によって吊るされたナイフがほんの少しだけ揺れた。もう一度溜息をついた。ふう。するとまた少しナイフは揺れた。

 私はその小さな揺れを眺めながら、こう思っていた。たとえ身体は不自由だったとしても、思考の上においては自由になることができるのではないか、と。

 そのことについては――恥ずかしながら――これまで一度も思い至らなかった。私は自分が置かれた状況を解明するのに忙しくて、それ以外のことに思いを巡らせることができなかったのだ。でも今、この小さく揺れるナイフ――私の命を狙っているナイフだ――を見ていると、なんだか物語を語りたくなってきたのだ。それが一体どんなものなのかは分からない。そもそも過去のない男に何かお話を語ることなんて可能なのだろうか? でもまあ、やってみない手はあるまい、と私は思う。だって時間ならそれこそいくらでもあるのだから。

 私はとりあえず私について書いている作者を憎むのをやめ、自らの思考の流れに身を浸すことにした。それは思っていたほど難しいことではなかった。もし身体が不自由なら、その不自由さに身を任せればいいのだ、と私は思った。無理にここから出ようとしてはいけない。あきらめる、という作業が、ここでは大事になってくる。

 私は目を閉じ、広い草原を吹き渡る風の姿を想像した。太陽は中空に浮かび、一人の少女の姿を映し出している。彼女は今十二歳くらいで、白い綺麗なドレスを着ている。頭には自分で編んだと思われる花の輪っかを載せている。そこに一人の羊飼いの少年が現れる・・・。

 私はその想像の世界の中に身を浸していった。草花の匂いが周囲を満たしていた。風はどこまでも中立で、意思というものを持たなかった。二人は連れ立って高台の丘に上り、そこでお互いの秘密について話し合う。彼女は自分の妹についての秘密。そして少年は・・・。

 そのときナイフが揺れていることに気付いた。私は知らぬ間に半目を開けていたのだが、今までずっとほとんど動かなかった――溜息で揺れていたのは本当にごくわずかだった――ナイフが大きく揺れ始めていたのだ。でも私はそんなことは一切気にしなかった。今さらどうしてこんなもののことを考える必要がある。きっとこけ脅しなんだ、と私は思う。そもそも尿意すら感じない人間を殺して、一体何になるというんだ?

 私はさっきの想像の続きに戻る。でも何かがおかしいことを悟る。晴れていたはずの空はどんよりと曇り、ずっと視界の中心にいたはずの少女の姿がない。いるのは手に何かを持った少年の姿だ。よく見るとそれは少女が頭にかぶっていた花輪だった。一カ所がちぎれ、彼の手の下でゆらゆらと揺れている。そのとき再び風が吹いた。今度のは中立的ではなく、きちんと意思を持った風だった。少年は自分の足元の盛り上がった地面を見つめている。そこには掘り返されたあとがある。彼はをその下に埋めたのだ。

 丘の下のほうで羊たちがメェーと鳴く。牧歌的な声だ。でもその光景は全然牧歌的ではない。やがて彼は丘を下り、そこで待っていた羊たちの群れのところに行く。一頭の子羊が人なつっこそうな声を出して彼に寄っていく。でも彼はふところから一本のナイフを出して、その羊をズタズタに引き裂いてしまう。断末魔の叫びのようなものがあたりに響き亘る。夕暮れが迫り、周囲をあやしく照らしている。少年は奇妙なほど冷静に、その羊の肉を裂いていく。私はただそれを見つめている。白い毛があたりに飛び散っている。もちろん赤い血もまた。

 やがて少年は子羊の心臓を手にする。それはついさっきまできちんと鼓動を打っていたのだ。彼は無表情にそれを眺めると、やがて大きく口を開けて一息に呑み込んでしまう。ゴクリ、という音があたりに響き亘る。彼はその作業を終えてしまうと、まるで茫然としたように大の字に横たわる。上空にあるのは厚い雲と、不毛な風だ。どこかで誰かが歌う声が聞こえてくる。それは私には例の少女の声のように感じられたのだが、実際のところは定かではない。少年はそれに耳を澄まし、一滴だけ涙を流す。それは透明でありながら、どこにも辿たどり着かない涙だった。やがて彼はそのまま寝入ってしまう。完全な夜がやってこようとしているが、もはやそんなこともどうでもいいみたいだった。彼は小さな呼吸を繰り返しながら、おそらくは過去の何かを思い出していた。それは幸福な記憶だったのだろうか、と私は思う。でももちろんそんなことは誰にも分からない。やがて深い眠りが彼を覆った。宇宙よりも深い眠りだ。

 しばらくして朝がやってきたとき、彼の胸には鋭いナイフが突き刺さっていた。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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