僕は最近いつもマスクを着けている。世間がこんな風なコロナウィルスの騒ぎなのだから、まあ仕方ないといえば仕方ない。接客業だし、お客さんにうつしたり、あるいはうつされたりしても困る。それはそれとして、実は僕の顔もマスクである。要するに感染予防のためのマスクを外した下に、またマスクを着けているのだ。このことについては――当然のことながら――誰にも話したことはない。
自分がマスクを着けていることに気付いたのは大学生の頃だった。何か顔がむずむずして、痒くなってくる。授業中も、あるいは昼食を食べているときも、いつもそんな感じがしていた。しかし家に帰ってくると突然止む。そういった日々が続いていた。そんなあるときグループディスカッションの最中に――僕の大学ではそういった授業があったのだ――自分の顎の下の皮膚がめくれていることに気付いた。ほんの少しはがしてみると、もっとずっと奥まで一気にいってしまいそうに思えた。それでそのときは何も気付かない振りをして放っておいたのだが、授業が終わったあとに急いでトイレの個室に行って、ためしにいけるところまではがしてみた。するとずるずると全部はがれ、僕はただののっぺらぼうになった。目も鼻もない。眉毛もない。耳は残っているが、あるものといえば、口と鼻穴の名残のようなものだけだ。僕ははがした皮膚を片手に持ち、もう片方の手でそのつるつるの肌を撫でてみた。それは素晴らしい気分だった。俺はなにものでもないのだ、と僕は思った。なにものでもないがゆえに、どのように定義することもできない。正確にいえば男でも女でもない。自由であるというのはつまりこういうことなのではないか、という気さえした。自分を固定してしまわないこと。可能な限りニュートラルな状態でいること。これが真の自分の姿なのだ、と僕は思った。
その後丁寧にはがした皮膚を貼り付け、何事もなかったかのように日常生活に復帰した。同級生たちはそのことに一切気付かなかった。両親も気付かなかった。ガールフレンドだって気付かなかった。自分が本当はなんでもなしなのだ、というのは僕の大事な秘密になった。そうやってそれ以来生き続けてきた。ときどき人々の目の前でこのマスクをはがしたらどうなるんだろうな、と想像することもある。彼らは一体どのような反応を示すだろう、と。あるいは悲鳴を上げるかもしれない。あるいは大して驚かないかもしれない。え? それで? とか言われるかもしれない。まあそんなのは想像したところで仕方のないことなのだが、いずれにせよその秘密は僕が生き続ける過程において、意外に大きな意味を持っていたみたいだ。
というのもこの社会で生きるということは(つまるところ)様々な役割を果たし続けることの言い換えに過ぎないからだ。いろいろな場面で我々は演技をしている。こういう場合にはこういった演技をする。また別の場合にはこういった演技をする。別に誰かにそう教わったわけでもないのに、我々は忠実に線を辿ることだけを考えている。そういった光景を見ていると――そして正直なところ僕もまた多くの場面においてはその線を忠実に辿っているのだが――ときどきひどく息苦しくなってしまうのだ。そんなことをしていたら貴重な人生の時間をただ体裁を繕うことだけに費やすことになってしまうのではないか、と思うからだ。もちろんそれでいいという人はそれでいいのだろう。でも僕はそうは思わない。仕事をしているときは別だが――これは生活のためにやらなければならないことだ、と割り切っている――可能なら一人でいるときには、僕はオリジナルな僕自身でいたい。
そして僕にとって「オリジナルになる」ということは、つまりこの暑苦しいマスクを脱ぐことにほかならない。社会人になって一人暮らしを始めたとき、心からほっとしたことを覚えている。というのも部屋にいるときには、ずっと素顔のままでいられるのだから。僕は帰ってくるとすぐに顔の皮膚を剥ぐ。そして洗濯ばさみでその薄っぺらのマスクを挟み、室内用物干しに吊るしておく。それはひらひらと揺れながら、翌日の勤めに備えている。僕は部屋の中で本当の自分になり、心からリラックスする。美味しいお茶かコーヒーがあると言うことはない。クラシック音楽を聞きながら(ベートーベン)、古典文学を読む(ドストエフスキー)。うん。完璧な余暇の過ごし方だ。
気を付けるべきは突然やって来る宅配便のドライバーだ。ピンポンとドアチャイムが鳴る。僕は急いでひらひら揺れているマスクを貼り付け、玄関を開ける。配達人の視線が妙に強張っていることもある。あるいは着け方が甘かったかもしれない、と僕は思う。目の位置が少々ずれているかもしれない。まさか上下逆ということはあるまいが、顔のパーツが左右シンメトリーになっていないかもしれない。でもまあ仕方あるまい。突然やって来る方が悪いのだ。
でもそんなあるとき僕は干していた皮膚をなくしてしまう。たしかにここにあったのにな、と僕は思う。仕事の時間になってもそれは見つからない。感染防止用のマスクを付けたところで、目がないことはすぐにばれてしまう。サングラスをすればまあごまかせないこともないが、まさかこの格好で仕事に行くわけにもいくまい。僕は仕方なく風をひいた振りをして休むことにした。「ゴホゴホ。申し訳ありません。朝から三十九度の熱があって・・・」
僕が休むことなんてそうそうないことだから、同僚はなんとかしてくれる、と言ってくれた。「本当に申し訳ありません。ゴホゴホ」と僕は言った。
その日一日、部屋中の隅々を探し回ったあとで、僕は一人椅子の上でぼおっとしていた。マスクはどこにも見つからなかった。あるいは盗まれたのかもしれない。でも一体誰に? 誰がそんなものを必要とするんだ?
そのときピンポンと玄関のチャイムが鳴った。僕はあまりに茫然としていたため、素顔のままだということにも気付かずに、ドアを開けてしまった。そこには今まで一度も見たことのない荷物の配達人の姿があった。白いマスク――感染防止用の普通のマスク――を着け、黒縁の眼鏡をかけている。配送業者の帽子を被っている。彼は一切驚いた様子を見せずに荷物を手渡した。「サインは要りません」と彼はペンを探そうとした僕に向かって言った。まるでお前のサインなんか何の意味もないのだ、と言わんばかりの口調だった。僕はその比較的小さな荷物――段ボールに入っている――を受け取り、部屋に戻った。
部屋に戻ると何かが違っていることに気付いた。空気がついさっきまでとは明らかに変わっている。より重さを増している、とでもいえばいいだろうか。僕はその時点では配達人に素顔を見られたことに気付いていなかったのだが、もはやそんなことを考えている余裕もなかった。これからどうやって生きていったらいいのだろう、とそればかり考えていたからだ。明日までにマスクが見つからなかったら、僕はもう仕事に行くことはできないだろう。そうするとどうやって日々の糧を得る? どうやって食っていったらいいんだ?
そんなことを考えながら無意識に箱を開けた。するとそこには探していた僕のマスクが入っていた。僕は驚きながらも、心から安堵した。僕自身の見慣れた顔がそこからこちらを見つめていた。透明な目と、盛り上がった鼻。そして唇。
僕はそのマスクをためしに自分に取り付けてみた。ああよかった。これで当面仕事の心配はしなくて済む。今すぐにでも会社に電話して、午後から出勤しますと言ってみようか。
でもすぐに何かがおかしいことを悟る。そのマスクはあまりにもぴったりと僕の皮膚にくっついてしまっていたのだ。僕は焦ってはがそうとする。まさか。これはあくまで一時的なマスクに過ぎないのだ。仕事の間だけ、外に出ている間だけ着けている外面に過ぎないのだ。これは僕の本当の顔ではない。
でもどれだけ頑張ってもそれははがれなかった。顎から血が滲んできただけだった。僕は何度も何度も引っ掻いた。でももっと血が出てきただけだ。僕は深い溜息とともに、諦めてその状況を受け入れることにした。まったく。だとすると俺はもう一生本当の自分には戻れないのかもしれない。
そのときまたドアのチャイムが鳴った。ピンポン。僕は仕方なく椅子から立ち上がり、玄関に行った。するとそこにいたのはさっきの配達人だった。「どうかしましたか?」と僕は言った。彼はしばらく無言でそこに立っていたあとで、おもむろにマスク――感染防止用の白いマスク――と帽子、そして眼鏡を外した。そしてその下の皮膚もまた顎の方からベリベリとはがした。彼は完璧なのっぺらぼうだった。鼻の穴と、口の名残のようなものがあるだけだ。僕はぞっとした。何かを言おうとしたが、何も言えなかった。彼は言った。
「さっきのは僕のマスクだったんです」と。「あなたは間違ったマスクを着けている。でもそれはこれから一生外すことができません。あなたはその顔で一生生きていかなくてはならない。僕はそのことを伝えにきたんです」と。
彼はそれだけ言うと、そのまま立ち去ってしまった。僕はなんとも言えない気持ちになって、部屋に戻ろうとした。でもそのとき何かおかしなことに気付いた。ちょうど外を通りかかった老人に顔がなかったのだ。彼はただののっぺらぼうになっていた。その後ろにいる子どもの集団も全員がのっぺらぼうだ。僕はサンダルをつっかけ、急いで外に出てみた。車を運転している中年男も、犬も、鳥ものっぺらぼうだった。ただ僕だけがマスクを着けていた。人々は指差して僕を笑った。「あははははは」と彼らは声に出して笑った。「あの人はまだマスクを着けている」と。「あれで格好良いと思っているのだろうか」と。
僕は心から恥ずかしい思いをしながらも、もっと状況を確かめるために街を散策してみた。スーツを着たサラリーマンも、OLも、ホームレスも、みんなのっぺらぼうだった。警察官さえのっぺらぼうだった。彼らの一人が僕を呼び止めた。「ねえ、ちょっと」と彼は言った。「それをはがしてみてください」と。
「でも」と僕は言った。「どうしてもはがれないんです」と。
すると彼は大声で笑い出した。「ハッハッハ」と。おかしくておかしくて仕方がないみたいだった。彼は無線で同僚にそのことを伝えさえした。「マスクがはがせないんだってさ」と彼は言った。すると同僚もまた大声で笑った。彼はわざわざその音声を僕に聞かせた。「ほら、聞いてみてくださいよ。こんなに笑っている」。ハッハッハ、という笑いの大合唱のようなものがそこからは聞こえてきていた。世界中のみんなが僕を笑っているみたいだった。僕はいたたまれなくなって、そこを逃げ出した。
僕はどこかに助けを求めたかった。でもどこにも行くべき場所を思い付けなかった。ガールフレンドが働いている保険会社に行くこともできる。でもそんなところに行ったところでどうなる? また笑われるだけだ。どうしてこんなことになっちゃったんだろうな、と僕は思う。今朝まではいろんなことがうまくいっていたのに。
でもそこで悟る。真実を悟る。本当はいろんなことはうまくいってなんかいなかったのだ。僕はあくまで自分の目に蓋をしていただけだったのだ。思えば大学生の頃、この皮膚がはがれた瞬間から何かがおかしくなっていたのだ。僕はその事実ともっと真剣に向き合わなければならなかったのだ。それを僕は都合の良いように解釈して、ただ放っておいたのだ。これで真実の自分に近付けるのだ、と。
僕は途方に暮れていた。涙を流したいような気分だったが、涙をどこから流せばいいのかが分からなかった。というのも今僕が着けているのは間違ったマスクだったからだ。涙の流れをそれが止めてしまっている。僕は自分の顔が固まってしまっていることに気付く。もはやニュートラルな自由な自分なんかじゃない。退屈な、つまらない、固定された人間だ。もはや存在している意味もないような。
僕は海に飛び込むことを決意する。そこから歩いて十分ほどのところに海はあった。汚い、淀んだ、都会の海だ。それでも飛び込んで死ぬ分には何の問題もない。道中人々は僕を指差し、そして笑い続けた。ハッハッハ、と。「おい、あれを見てみろよ」と一人の男が言った。「あんな顔をして。あれで格好良いとでも思っているのかね? 俺ならあんな顔をして生きるくらいならすぐに死ぬね。今すぐに、だ。それはまず間違いのないことだ」
海に着くと、僕はその勢いのまま飛び込もうとした。もはや生きている意味もない。本当の自分に一生なれないのだから。どれだけ長生きしたって何の意味もない。金を稼いだって何の意味もない。それは薄暗く、哀しい日々となることだろう。狭い檻の中に閉じ込められて生きるようなものだ。一生自由になることができないのだ。
でもそのとき、海の上に何かが浮かんでいることに気付いた。それは夥しい数のマスクだった。おそらくは街の人々が一斉に脱ぎ捨てたものだ。たくさんの目や、鼻や、唇が、こちらを見つめていた。それらはすべての海面を覆い尽くしていた。グルグルと渦を巻き、渦を巻きながら徐々に腐敗していった。ものすごい腐臭が鼻を突いた。僕はただじっとそれを見ていた。それは不思議と心が落ち着く光景だった。腐っていく人々のマスクは取るに足らないもののように思えた。しかし、にもかかわらず、我々はそれを不可欠のものとする社会を形作ってきたのだ。僕は笑おうと思った。これらすべての状況を笑い飛ばしてしまおうと。そうすれば少しは気持ちが楽になるような気がしたからだ。でも笑うことはできなかった。もはや口が動かなくなっていたのだ。それはカチカチに固まってしまっていた。そこで反対に泣こうと思った。でもやはり涙は出てこなかった。涙の源泉が、何かにせき止められているようだった。
それで僕は無表情のまま、その場に立ち尽くしていた。一羽の鳥が空を飛び、そして海面のマスクの上に着地した。プカプカとそれは浮いていた。不思議なことに、その鳥はのっぺらぼうではなかった。ごく普通の鳥だ。それはまるで歌うように鳴いた。今まで一度も聞いたことのない鳴き声だった。僕はじっと耳を澄ましてそれを聞いていた。一陣の風が吹いて、世界を通り抜けていった。僕は自分の人生のことを振り返っていた。でもそれは「人生」というよりはむしろ、色褪せた記録映画のようにしか見えなかった。もはや誰も興味を持たないような。僕は一度目を閉じ、また目を開けた。目だけはかろうじて動いた。マスクはまだ腐り続けていた。人々の笑い声が街の方からこだましていた。今まで俺は夢を見ていたんだ、と僕は思った。見たいものだけを見て、それがすべてだと思い込んでいたのだ、と。でもここにあるものは何だ? これは真実だ。腐っていくマスクたち。その上にいる一羽の鳥。僕は自分がどのように生きていけばいいのかも分からない。顔に貼り付いた一生取れないマスク。
僕は最後にもう一度それを取ろうと試みた。ほとんど何の期待も込めずに。でも予想外にも、それは簡単にはがれた。しかし今度は皮膚だけでなく、その下にある意識もまたはがれ落ちてしまった。僕は完全ななんでもなしになった。自由でもなければ、不自由でもなかった。生きてもいなければ、死んでもいなかった。やがて夜がやって来た。本当の夜だ。鳥はまだそこで鳴いていた。僕はどこにも行けずに、ただ空白のことを考えていた。真っ白な空白のことを。