第二次ポエニ戦争

ふと目を覚ますと、隣には第二次ポエニ戦争が眠っていた。私は恐る恐るその肩をつついてみたのだが、彼(あるいは彼女)は全然目を覚まさなかった。一体何が起こっているのだろう、と思ってあたりを見回したが、部屋には普段と変わったところなどまったくなかった。ただ隣に第二次ポエニ戦争が眠っているだけだ。

 

私は妻の名を呼んだ。いつもはそこに私の妻が眠っている。四歳年下の、まだ若い妻だ。でも彼女の姿はどこにもなかった。そこにいるのは第二次ポエニ戦争だけだ。

 

私はゆっくりと身を起こし、キッチンに行った。そしてそこで何杯か水を飲み、少し迷ったあとでウィスキーを飲んだ。だって寝室に第二次ポエニ戦争がいるのだ。酒くらい飲んだってばちは当たらないだろう。

 

時計を見ると午前一時半だった。とすると――と私は頭の中で計算した――妻と一緒に眠りに就いたのが午後十時半だから、その三時間の間に何かが起きた、ということになる。その結果妻はどこかに消え、代わりに第二次ポエニ戦争が眠っていたのだ。

 

私は頭の中で第二次ポエニ戦争がどういうものだったのか、なんとか思い出そうとした。でも全然だめだ。真夜中ということもあって――それに少なからず心を乱されていたせいで――それがどんなものだったのかまったく思い出せないのだ。私は、たとえばトロイア戦争についてはよく知っている。ホメロスを読んだからだ。あとは・・・、そう、第一次世界大戦や、第二次世界大戦についても細かいところまでよく知っている。個人的に興味があって、その手の本をたくさん読んだのだ。

 

でも第二次ポエニ戦争となると、まったくお手上げだった。カエサルがルビコン川を渡ったのがこの戦争だったっけ? しかしそれについて思い出そうとすると、頭の奥がずきずきと痛んだ。普通ではあり得ないくらいに。どうしてかは分からない。あるいはその記憶は、私の中の何か深いもの――普段は表に出てくることのないもの――と密接に繋がっているのかもしれなかった。

 

しばらくそのようにキッチンでぐずぐずしていたのだが、こうして待っていても時間はほとんど前に進まなかった。どうやら時がその歩みを遅くしたらしかった。十分経つのに、いつもの十倍くらいの時間がかかった。これではだめだ、と私は思った。この状況を打破するためには、なんとしてもまた寝室に戻らなければならない。

 

しかし気が進まなかった。私としてはこのまますべてをうっちゃっておいて、そのあとで何か起こるのか見てみたい気もした。あんなものとはできるだけ関わり合いにならない方がいい。でもふと妻のことが頭をよぎった。彼女はどこかに消えてしまったのだ。ほかの部屋にいる気配もまったくない。そこで試しに玄関を覗いてみると、そこにあったはずの彼女の靴がなくなっていた。とすると、彼女はどこかに出ていってしまったのだ。

 

あるいはもう帰って来ないのかもしれない、とふと思った。どうしてそんなことが起きるのかは分からなかったが、なぜかそういう予感がした。私が何か悪いことをしたのだろうか? でも何一つ思い出せなかった。職場で、なんとなく私に気がありそうな女性社員に優しくしたことはある。でもそれだけだ。会社の外で会ったりはしていない。

 

我々は喧嘩すらほとんどしなかったのだ。それがどうしてこんなことになってしまったのだろう。突然。何の前触れもなく。しかし答えはすでに決まっていた。すべては第二次ポエニ戦争のせいだ

 

 

私は意を決して再び寝室に乗り込むことにした。一度ドアの前まで行って、ふと思いついてキッチンに戻り、包丁を持って行くことにした。もちろん彼(あるいは彼女)を殺そうとしたわけではない。あくまで自衛のための武装だ。だってそこにいるのは血生臭い戦争そのものなのだ。一体何が起こるのか分かったものじゃない。

 

私はそっと寝室のドアを開けた。不意打ちを受けても対応できるように、しっかりと包丁を構えて。でも何事も起こらなかった。そこはさっき私が出てきたときと何の変わりもなかった。いつも通りの寝室だ。しかしベッドの上を見たとき、そこにいるのがもう第二次ポエニ戦争ではないことに気付いた。そこにいたのはまさに私の妻だった。四歳年下の、まだ若い妻だ。

 

私は包丁を右手に握ったまま、ただ茫然として彼女を見つめていた。一体何が起こったのだろう、と私は思う。さっきまでたしかにここに第二次ポエニ戦争がいたのだ。私は自分の目でそれを確認したのだ。そしてそのために包丁まで持ってきたのだ。一体何が起こったのだろう

 

そのとき妻がもぞもぞと動き、何やら寝言を言った。そしてゆっくりと目を開けた。

 

「何をしてるの?」と彼女はまだ半分眠ったままの状態で言った。

 

私は包丁を構えたまま突っ立っていたのだが、慌ててそれを背中に隠した。

 

「いや、なんでもないよ」と私は努めて冷静を装い、言った。「まだ眠っていて構わない」

 

彼女はまたもぞもぞと何かを言い、その平和な深い眠りへと戻っていった。

 

 

私は近くにあった椅子に腰かけ、ただ茫然とそのベッドを眺めていた。あるいは私が幻想を見ていたのだろうか? ただ私の頭がおかしくなっていただけなのだろうか?

 

でもそうではあるまい、という強い予感があった。私は第二次ポエニ戦争の匂いをこの鼻で嗅いだのだし、それにあんなに近くで見たのだ。あれは本物だった。混じりけのない、まったくの純粋な第二次ポエニ戦争だった。

 

そのとき床に妻の靴が転がっているのが見えた。さっき玄関からなくなっていた靴だ。とすると、と私は思った。やはり彼女はどこかに行って、今そこから帰って来た、ということになる。やはり私の頭はおかしくなっていなかったのだ。

 

そのときふと背後に何かの気配を感じた。殺伐さつばつとした気配だ。間違いない。これは明らかに第二次ポエニ戦争の気配だ。私はまた包丁を構え、すぐ後ろを振り返った。でもそこには誰もいなかった。ただ真っ白い壁があるだけだ。

 

私はわけが分からなくなってしまった。一体彼(あるいは彼女)の目的は何なんだろう? このように私の生活と、そして意識を撹乱かくらんすることが目的だったのだろうか?

 

「それは違う」と突然どこかで声がした。それは太い、男の声だった。私はその声がどこから聞こえてくるのか、まったく把握することができなかった。「私は意味があってここに来たのだ」とそれは言っていた。どうやら第二次ポエニ戦争本人がしゃべっているらしい。

 

「どんな意味があるのです?」と私はとりあえず訊いてみた。

 

すると「こんな意味さ」と言って、突然彼は私の腕をがっちりと掴んだ。というかそのように感じたのだ。相変わらずその姿は見えなかったが、彼はたしかにそこに存在していた。私は身を動かそうとしたのだが、今では完全に彼に抑え込まれてしまっていた。右手に握っていた包丁が、コトリと音を立てて床に落ちた。その音を聞いて、眠っていた妻が目を覚ました。

 

 

彼女はぱっちりと目を開け、ベッドから上半身を起こした。そしてこちらをじっと見つめた。

 

「なんでそんなものが落ちているの?」と彼女は訊いたが、私は返事をすることができなかった。第二次ポエニ戦争が私の口を封じていたからだ。

 

彼女はやがてベッドから床に下り、ゆっくりと歩いてその包丁を拾った。そしてしげしげとそれを見つめた。

 

「これで何をするつもりだったの?」と彼女はかすれた、ひどく小さな声で言った。

 

私は相変わらず何も言うことができなかった。

 

そのとき突然どこかでまた第二次ポエニ戦争がしゃべった。

 

「彼はこれであなたを刺そうとしていたんだよ」と彼は言った。

 

果たしてその声がきちんと彼女に届いたのかどうかは分からない。しかしその趣旨ははっきりと伝わったようだった。彼女は目を見開き、じっとこちらを見て、ただそこに立ち尽くしていた。一方の私はといえば、まったく身動きが取れず、椅子の上にだらんと腰掛けていた。こいつはなんでこんなことをしているんだろう、と私は心底不思議に思った。こんなことをして一体何を得るというのだろう?

 

「それはね」とそこですぐさま私の気持ちを読んで彼は言った。「私には君に真実を見せる必要があったんだ。だからこそこんなことをしているんだよ。そうして初めて君は〈第二次ポエニ戦争〉の資格を引き継ぐことができる」

 

引き継ぐ? と私は思った。どうして私がそんなものを引き継がなければならないのか?

 

「そう決まっているんだ」とそこでまた彼は言った。「君はそこから逃れることはできない。そういう運命なんだ。そしてそれが〈戦争〉ということの意味なんだ」

 

今私の妻は、包丁の刃先を私に向けてじっと立っていた。彼女が何を考えているのかは分からなかったが、何かが彼女の意識を支配しているようだった。何か、普段の彼女とは違ったものだ。それは目を見れば明らかだった。もっと薄暗く、もっと血生臭い何か。荒々しい何かだ。目がらんらんと輝いているのが分かる。彼女は何も言わぬまま、その刃先を私の心臓目がけて突き刺した・・・。

 

 

そのとき何かが起こった。私と包丁との間に、何かが入り込んだのだ。それは目には見えないが、とても固い何かだった。それは自らの中に包丁を埋め込ませ、そのまま刃先をぽきりと折ってしまった。その刃先はそのままどこかに消えていった。彼女は刃の折れた包丁を眺め、しばらく茫然と立ち尽くしていたが、やがての部分をポトリと床に落とした。そしてまるで何事もなかったかのように後ろを向き、ゆっくりとベッドに戻っていった。

 

私は自分の中に自由が戻ってくるのを感じた。試しに指先を動かしてみると、それは以前のようにきちんと動く。しかしそうなったところで、今の私には動く元気というものがなかった。私の心は、まるで使い古された雑巾のようにぼろぼろで、疲れ切っていた。もう目を開けていることすらままならなかった。だからそのまま目を閉じて深い眠りに落ちることにした。頭の中ではまだ第二次ポエニ戦争の声が響いていた。

 

いいかい、明日から君が第二次ポエニ戦争なんだ・・・。

 

 

 

翌朝目を覚ますと、私は第二次ポエニ戦争になっていた。理屈も何もなく、ただそうなっていたのだ。私はそれを受け入れ、そして生きるほかなかった。それが私の運命だったのだ。椅子から立ち上がり、カーテンを開けると、朝の優しい光が一斉に部屋に入り込んできた。私は自分の身体の中に、ある種の乱暴なエネルギーが湧いているのを感じることができた。古代のエネルギーだ。

 

私はそれを感じながら、ただ外を眺め続けていた。そこから見えるのは、細い道路と、電線だった。特に美しくもなんともない。できればない方がいいようなものだ。しかしその二つとも、今では新しく生まれ変わっていた。私にはそれが分かった。やがて妻が起き出してきて、私のすぐ後ろに立った。そして言った。

 

「ねえ、昨日すごく変な夢を見たの。自分が〈第二次世界大戦〉になる夢。そんなのって考えられる? 自分が戦争そのものになるの。その一部とかじゃなくてね。全体になるのよ。そしてあなたを包丁で刺し殺そうとするの。あんな変な夢を見たのって初めてだったな」

 

私は頷き、そうだね、それはものすごく変な夢だ、と言った。そして新しい自分のために、新しい朝食を取りに台所に行った。

 

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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