本はそこで終わっていた。彼がその後激しい戦闘を生き延びたのかどうかは僕には分からない。ずいぶん奇妙な話で、荒唐無稽だといってもよかったが、いくつかの場面は不思議と強く印象に残った。死者たちのドロドロとその奥にある空白。「なにもかも結局は空白に過ぎない」とあの女は言った。詩人の青年は極限まで死に近づくことで、本当の生を見いだせると思っていた。しかし実際に死の底にあったのは単なる空白に過ぎなかった。彼は結局空白として生きていこうと決める。きちんとした空白だ。
でも僕には「きちんとした空白」というのが具体的にどんなものを指すのかよく分からなかった。空白とは、ただ何もない状態というだけではないのか? そのような人生は彼に満足を与え得るものだったのだろうか? 小説の続きが書かれていない以上、その点については想像するしかなかったが、あるいはそこで彼は次の段階への一歩を踏み出したのかもしれない、という思いもあった。それはおそらく、形あるものを求める状態から、形のないものを求める状態への移行だ。
「愛を人生のプライオリティーに置かなければならない」という彼の――つまり僕の友人の彼の――言葉がそこでふと浮かんできた。愛と空白、と僕は思った。それは似たようなものでありながら、おそらく同一ではない。にもかかわらず、それらはまったく同じところに源を発しているようにも思える。いずれにせよ、その二つに共通していえるのは、決して手で掴むことができない、ということだ。
そんなことを考えていると、突然激しい睡魔に襲われた。時刻はまだ午後九時前だったが、そんなことには一切関係なく僕の意識は休息を求めていた。あるいは――とあとになってから思ったのだが――そのときそれ(つまり僕の意識)が求めていたのは、もっと別の種類の何かだったのかもしれないが。
僕はふらふらとした足取りでベッドに行き、そこに横になった。目を閉じると、あっという間に眠りが訪れた。僕はどんどん意識の深みへと下りて行き、その一番底に達した。そういう感覚があった。僕は自分が眠っていることを知っていたが、一方でそこにおいてほぼ完璧に覚醒していた。ふと目を開けると、すぐそこに死んだアルバトロスの姿があった。
アルバトロスはだらだらと首から血を流していた。おそらく誰かにナイフで切りつけられたのだろう。鮮やかな赤い血が白い羽毛にべっとりと貼り付いている。しかしそのような状態にあってもなお、その鳥は生命の最後の残滓をバタバタと羽ばたくことによって盛大に消耗していた。そんなことをしたらエネルギーを無駄に使うだけではないのか、と思ったが、僕には止めようがなかった。彼(あるいは彼女)に触れることが正しいことだとは思えなかったからだ。
アルバトロスはいかにも「アホウドリ」という名前をつけられそうな間の抜けた顔をしていたが、本人はそんなことにはお構いなしに羽ばたき続けていた。羽ばたけば羽ばたくほど傷口から血が流れ出てきた。しかしいつまで経っても空に浮かび上がる気配は見えない。そんな力はもう残されていないのだ。
そのときその背後に一人の女の姿が見えた。それはあの月に住む女だった。一目見ただけで僕にはそれが分かった。彼女はそこにいて、そのアルバトロスの無益な試みをただじっと見つめていた。彼女は一体何をしているのだろう、と僕は思った。
そのときあることが起きた。アルバトロスの首が取れたのだ。それはぽきりと折れ、そのまま地面の中に消えていった。首が取れてもなお、彼(あるいは彼女)はバタバタと羽ばたき続けていた。飛ぶこともできないのに、激しく、何度も。そのとき背後にいる女の首もまた取れてしまっていることに気付いた。いや、取れているのではないな、とすぐに思い直した。さっきまで顔があったはずの場所に、真っ白な空白が存在していたのだ。それが邪魔をして、彼女の顔が見えなくなってしまっている。
それは異様な光景だった。無頭のアルバトロスが羽ばたき続け、彼女の顔は真っ白な空白に覆われている。アルバトロスの首が取れた部分からは、羽ばたくたびに血が噴き出してきた。それはいささか不自然なくらい大量の血だった。あるいはこのように羽ばたくことによって--つまりポンプのような要領で--身体の底から絞り出しているのかもしれない。やがてその噴き出した血が彼女の顔の部分の空白を覆っていった。たくさんの血液が空白の中に入り込み、その白い色は徐々に見えなくなった。今や赤い血が空白を埋めたのだ。
そのときヒューという風のような音が聞こえた。どうしてこんなところで風が吹くんだ、と思ったが、すぐにその理由が分かった。僕自身が風になっていたのだ。僕はその深い夢の底において、肉体を持たないただの風になっていた。アルバトロスはいまだ羽ばたき続け、女の顔の部分には赤く染まった空白が存在している。僕は一瞬にしてそこを離れ、より高いところに飛んでいった。ヒューという音がまた聞こえてきた。なにもかも空白に過ぎないのよ、と女が言った。遠くの方に誰も住んでいない月の姿が見えた。そこで生きることはひどく孤独な営為であったに違いない。愛とは一体何なんだろう、と僕は思った。でもその答えはいまだよく分からないままだった。