そのとき僕はずいぶん長く街を歩き回っていた。季節は冬で、これからさらに寒くなろうとしていた。僕はコートのポケットに両手を突っ込み、マフラーに顎をうずめて、黙々と歩き続けていた。どこか目的地があったわけではない。ただそのときは、とにかくそのように歩き続けていたかったのだ。
果たして僕は希望を失っていたのだろうか? それは自分自身でもよく分からない疑問だった。ある意味では完全な袋小路の中にいるような気もしたし、全然そうではないような気もした。ときにふと人生を肯定していることに気付いたし、ときにものすごくシニカルになっていることに気付いた。
いずれにせよ、とにかく僕は歩き続けていた。午前中から歩き、昼食も取らずにずっと。今は午後三時半で、そろそろ夕方が近づき始めている。街は一面クリスマスの飾り付けに覆われていた。至るところから楽しげなクリスマスソングが流れている。僕はそれを聞きながら、ただ足を動かし続けていた。
たくさんの人とすれ違った。冬だというのに短いスカートをはいた女子高校生たち。颯爽と歩く若いビジネスマン。ピザの配達の人。工事現場のおじさん。
しかし彼らは、僕とは何の関わりもない人々だった。もちろん彼らの方だって僕に関心なんかない。僕はある意味では、彼らとはまったく別の世界を歩いていたのだ。
次第に雪が降ってきた。今年最初の雪だ。この街に雪が降るのはずいぶん珍しい。降ったとしても全然本格的なものではない。すぐに消えてなくなってしまうようなものだ。でも今日に限っては、それは次々と執拗に降り続き、道路を白く覆っていった。
その上に僕の足跡がくっきりと残されていった。なぜかは知らないが、僕は昔からまっさらな雪の上を歩くのが好きだった。まだ誰も歩いていない処女雪。僕の履き古したスニーカーが、その刻印をくっきりと残していく。
そのとき僕の頭にあったのは、かつて暮らした家の内部の情景だった。といってもそこに家族はいない。別に彼らと仲が悪かったわけではないのだが、そのビジョンの中では僕は一人ぼっちなのだ。ただ例外的に以前飼っていた犬だけはいる。彼は本当は数年前に死んでしまっているはずなのだけれど、そのイメージにおいては元気に走り回っている。
僕は広い、畳の客間にいる。そこはもちろん屋内なのだが、なぜか白い雪が降り積もっている。犬が一匹だけいて、楽しそうに走り回っている。僕は隅の方に立ち、ただじっとその光景を見つめている。やがて犬が僕に気付いて、ハアハアと息を吐きながら近寄ってくる。僕はその頭を優しく撫でてやる。
そのとき気付くのだが、その犬はすでに死んでいる。どうしてかは分からないのだが、そう本能的に悟ったのだ。彼は元気にハアハアと息を吐き、飛び回っているが、それでも死んでいる。生きているように見えるが、そんなのはただの見せかけに過ぎないのだ。
そう思うと、すぐその家もまた死んでいることに気付いた。そう、家が死んでいたのだ。それが何を意味しているのかは分からなかったが、僕はやはりそれを本能的に理解した。
そこで生きているは、雪と、僕自身だけだった。あるいは自分だって死んでいるのかもしれない、とも思ったが、どうもそうではなさそうだった。僕の心臓はまだ鼓動を打っていたし、こうしてまだものを――たいしたことではないにせよ――考えることができたからだ。
雪はどんどん厚く降り積もっていった。天井を見ると、そこには暗い夜空のようなものが広がっていた。今そこからたくさんの雪が執拗に降り続いていたのだ。
犬は僕から離れて雪の上を転がっていたのだが、ふと見ると、そこにはかつて僕が好きだった女の子が立っていた。犬が突然そのように姿を変えたのだ。でも僕は特に驚きはしなかった。まあここはまったくの現実、というわけじゃないし。
その女の子は完全に当時の姿のままだった。もちろん彼女は今もどこかで生きているはずなのだが、少なくともそこにいる彼女は死んでいた。あるいは生きることを完全にやめていた。僕にはそれが分かった。そしてだからこそその、十六歳にしか持てないある種の澄んだ美しさを、原形のまま留めていたのだ。僕は彼女の目を見つめ、彼女もまた僕の目をじっと見つめていた。ふと視線を落とすと、彼女は裸足だった。高校の制服を着てはいるものの、足元だけは何も履いていない。白い雪の上で、その足は痛々しく赤くなっている。でも僕は特に同情したりはしなかった。だって彼女はすでに死んでいたのだから。
視線を元に戻すと、彼女はまた姿を変えていた。見ると、次にそこにいたのは僕自身だった。そう、僕自身だ。コートを着て、両手をポケットに突っ込んでいる。そしてなぜか裸足だ。どうしてこうみんな裸足なんだろう、と僕は思う。でもそんなことはもちろん分からない。雪はまだ降り続いている。彼の頭にも、僕の頭にもそれは降り続いている。一体何のために降っているのかも分からない雪が。
彼もまた死んでいた。もちろんそうだ、と僕は思う。だってここはそういう場所なんだから。彼はそこにいて、ただじっと僕の目を覗き込んでいた。僕もまた、彼の目をじっと覗き込んでいた。その目の奥には、ほとんど何も見いだせなかった。希望もなければ、絶望もなかった。穏やかな海のようなものが広がっているだけだ。彼はやがてポケットから片手を出し、僕に向けて構えた。そこには一本のペンが握られていた。黒い、何の変哲もないごく普通のボールペン。それは僕が以前持っていたものとまったく同じだった。たしか間違えて洗濯をして、駄目にしてしまったやつだ。でも今彼が持っているのは全然駄目になってはいなかった。彼はその先端を僕に向け、黙ったままそこに立っていた。彼は一体何をしているんだろう、と僕は思う。どうしてそんな変な格好で突っ立っているんだろう?
そのとき僕は自分が裸になっていることに気付く。まったくの裸だ。ものすごく寒い。雪が僕の身体に次々と降り積もってくる。着ていたコートはいつの間にかどこかに消えている。白い肌が――こんなに白かったっけ?――無防備にもう一人の自分に向けて晒されている。やがて彼が近づいてくる。僕は動くことだってできたのだが、敢えて動かなかった。実をいえば、これから何が起こるのか心底興味があったのだ。
彼はそのボールペンの先端を、そっと僕の胸に付けた。心臓のちょっと上あたりだ。彼はそこに何かを書いていった。何を書いているのかは分からない。僕にはちょうど見えないところだったから。彼はすらすらと、流れるようにペンを動かしていった。僕はくすぐったくて仕方がなかったのだが、それでも我慢して彼が書き進めるのに任せていた。やがてそれを書き終わると、彼はまたじっと僕の目を見て、突然こちらに顔を寄せてきた。そして両肩に腕を回し、口づけをしたのだ。そう、口づけだ。自分自身と口づけをするというのは、すごく変な気分だった。男と口づけをする、というだけでも変なのに、それはまったく同じ顔をした自分自身なのだ。でも僕はただ彼に身を任せていた。ここではそうすることが必要なのだ、と分かっていたからだ。彼はそこで口づけをし、最後にちょっとだけ僕の上唇を噛んだ。そして何かを言った。何かちょっとしたことだ。あまり意味のないこと。でも僕はその内容をすごく知りたかった。もう一人の死んだ僕は一体何を言ったのだろう。でもそれもまた胸の上の文字と同じように――あるいは絵だった可能性もあるのだが――僕には理解することができなかった。僕はそれを、理解という過程を経ずに、そのまま呑み込まなければならなかったのだ。
やがて彼は僕を強く抱き締め、僕らは一つに溶け合っていった。天井からは雪がさらに強く降ってきていた。頑なで、執拗な雪が。僕は死んだ自分自身と一緒に、ただそこに突っ立っていた。
ふと気付くと、僕は一瞬無になっていた。本当の「無」だ。でも幸いなことに徐々に少しずつ自分自身を取り戻していった。あちらこちらからその断片をかき集めて。でもそれは以前の僕とはちょっとだけ違っていた。それほど大きく違っていたわけではないが、ほんの少し変化していたのだ。そしてその変化そのものが僕には大きな意味を持っていた。
僕はまだ歩き続けていた。意識が飛んでいる間に事故に遭わなかったのは幸運だったと言うべきだろう。僕はただ歩道を歩き続け、信号が赤になればきちんと止まり、青になるとすぐに歩き始めていた。僕はそうやって歩き続けながら、わずかな変化を感じ取っていた。それは明らかにあの死んだ自分がもたらしてくれたものだった。その結果自分がどうなるのかは分からなかったが、その移動の結果、ほんの少しだけ熱が生まれ始めていた。それは、そのように移動することによってしか発生することのない熱だった。果たしてそれを「希望」と呼んでいいのかは分からなかったが、少なくとも肯定的な何かではあった。僕はそれを身の内に大事に抱え、ちょっとだけ姿を変えた世界を、ただひたすら歩き続けていた。
そのときふと、まわりを歩く人たちがまったく無関係ではないことに気付いた。彼らの中にもまた――気付いているにせよ、気付いていないにせよ――さっき僕が経験したような謎の世界が身を潜めているのだ。そう思うとちょっとだけ仲間意識を持つことができた。でもだからといってすぐにそのことをしゃべったわけではない。それはまた別の問題だ。
そろそろ帰ろうか、という頃になってふと、自分がまともなボールペンを持っていないことに気付いた。それで近くのコンビニに行って、一本だけ新しい、黒いやつを買った。そして電車に乗って家に帰った。
これはまだ冬の相当寒い時期に書いたものです。今出すのはどうも季節外れだな、とも思ったのですが、ぐずぐずしているとそのうち夏が来てしまうので、とりあえず今のうちに出しておきます。