白い部屋 (2)

白い部屋 (1)』の続き

 

気付くとすでに移動は完了していた。僕は今一つの視点となり、一人の男の姿を見つめている。いや、違うな、とすぐに思い直す。僕は視点なのではなく、一つの壁になっているのだ。壁だ。僕は今その男の前に立ちはだかっている。何のために? それはよく分からない。おそらく彼の侵入をはばもうとしているのだろうが、僕は自分の背後にあるものをどうしても見ることができない。

 

それは若い男だった。どこかで見たような気もするし、全然見たことがないような気もする。せていて、質素な服を着ている。外国人かもしれない。でもどこの国の人間なのかさっぱり見当もつかない。

 

彼は今途方に暮れたように僕を見つめている。彼はもちろんその先に進みたいのだ。しかし僕がしっかりと立ちはだかっている。僕はそのことを誇りに感じている。なにしろ壁の役割とはあちら側とこちら側をしっかり遮断することなのだから。男の足元――つまり僕の足元でもある――には黒い土が広がっている。あの刑務所の中のように白い床があるわけではない。頭上には太陽が輝いている。もっとも燦々さんさんと、気持ちよくり輝いているわけではない。まだ夕暮れではないはずなのに、それはとても哀しげな色をはなっていた。当然ながらそれによって、世界全体がまったく同じ暗いオレンジ色に染められていた。

 

 

状況をはっきりさせるために言うが、彼は壁に囲まれていたわけではない。僕はただの一直線に伸びる壁であって、彼の背後には真っ平らな大地がどこまでも遠くに広がっている。そこには何の植物も、何の生物もいなかった。人家や、街の気配もない。ただ土だけが広がっている。彼にはそこに戻るつもりはないのだろう、と僕は思う。だからこそこんなところで途方に暮れて立ち尽くしているのだ。

 

もっとも彼が何もしなかったわけではない。勢いをつけて僕を上ろうとしたし、今度は穴を掘って下からくぐり抜けようとした。でも僕は知っている。そんなことをしても一切何の役にも立たないということを。

 

そういういくつかの無駄な試みをしたあとで、彼は突然胡坐あぐらをかいて座り込んでしまった。僕はそれをじっと見ていた。これから何が起こるにせよ、我々の位置関係はこのまま永遠に変わらないように思えた。そしてその事実は僕を喜ばせた。

 

しかしそう思った瞬間、何かが起きた。何か尋常ならざることだ。始めは遠い潮騒しおさいのような音だった。やがてそれが低いうなり声のようなものに変わり、徐々に轟音となって世界を包み込んでいった。一体何が起きているのだろう、と僕は思った。僕の前に座った男は、無表情のままただじっと地面を見つめていた。

 

やがて揺れがやってきた。当然ながら僕は大きな地震がやってきたのだと思った。でもすぐにそうではないことを悟った。これは地震にしてはあまりにも強すぎたのだ。しかしそれだけではない。そこには明らかに何か人為的なものが感じられた。その周期には、本来自然が持っているはずのあの「無頓着さ」ともいうべきものが欠けていたのだ。僕はそれをひしひしと感じ取っていた。

 

 

不思議なことに目の前にいるその男は一切何の反応も見せなかった。ただ胡坐あぐらをかいて顔を落とし、下の地面を見つめている。彼はたとえばこの地震によって僕が倒れるのを期待したりもしていない。彼は明らかにそんなことは考えていない。何かもっと別の種類のことを考えているのだ。

 

僕は――一直線に伸びた白い壁としての僕は――無防備にその揺れにさらされていた。本来こんな揺れに耐えられるようつくられてはいない、ということは自分でもよく分かっていた。果たして僕はこれに耐えられるのだろうか? もし耐えられなかったとしたら、そのときにはどうなってしまうのだろう?

 

その間も揺れは強くなり続けていた。一時的に弱くなったりはしたが(まるで揺らしている人間が手を休めているみたいだった)全体として見ればその勢いはずっと増していた。ゴーという不気味な地鳴りの音もさらに大きくなっていた。

 

やがて揺れがピークに達しようか、というそのとき、突然音が消えた。始め何が起こっているのかよく分からなかったのだが――というのもその音と揺れは分離不可能なものとして脳に認識されていたから――たしかに音は消えていた。世界は無音に包まれたが、相変わらず揺れだけは続いていた。そしてその奇妙な静寂の中で男が顔を上げた。その目は何かを見ていた。それはおそらくだった。僕にはそれが分かった。彼はもはや壁の先に進もうとはしていなかった。むしろその試みをあきらめることによって、かえって何かを得たのだ。その細かい原理までは分からないが、あるいはその過程の中でこの尋常ならざる揺れが起きたのかもしれなかった。

 

彼はただじっと僕を見つめていた。その視線は最初のときとはまったく違っていた。もう途方に暮れてなんかいない。彼は彼が見るべき最も重要なものをその目に焼き付けているのだ。

 

一方の僕はその無音の中、相変わらず激しい揺れにさらされ、自らの本質が崩れ去るのを受け入れなければならなかった。壁は強固な大地に立っていてこそ力を発揮するのだ。大地そのものが波のように揺れることなどそもそも想定されていない。ここでは僕は僕ではない。では一体何なのだろう?

 

 

男が立ち上がるのが見えた。この激しい揺れの中、彼はまるで何事もなかったかのように歩を進め、こちらにまでやって来た。僕はただそれを見つめていた。太陽はまだ暗いオレンジ色に輝いている。哀しげな色だ。彼は僕のすぐ前まで来ると、そっと僕の表面に手のひらを付けた。温かい手だった。その熱は瞬時に僕の全身に伝わった。そして何かを引き起こした。

 

 

僕は僕自身の最も重要な部分が崩れ去っていくのを感じ取っていた。揺れはいつの間にか収まり、少なくとも外見上は前と何も変わっていないように見えた。でも何かが変わったのだ、ということは僕には分かっていたし、もちろんその男にも分かっていた。正確に何が起きたのかは分からなかったが、とにかく彼はその意図を達成したらしかった。彼の表情からそれが分かった。

 

彼はおそらく僕を解体し、また一から再構築したのだろう。あの激しい揺れの中でそれが行われたのだ。僕はそのことを身を持ってひしひしと感じ取っていた。やがて彼は手を離し、くるりと背を向け、どこか遠くへと歩き去っていった。僕のむこう側にあるもののことにはもう興味もないらしかった。あるいは――とこれはあとになってから思ったのだが――彼はまさに今起こったことを成し遂げるためにここに来たのかもしれなかった。いずれにせよ、それが善きことであったことだけはたしかだ。彼が残した温もりがいまだ僕の中に生き続けていたからだ。それは僕に生きる目的のようなものを与えてくれた。あるいは僕は自由ではないかもしれない、と僕は思った。しかし自由である者を守ることはできる。それはよく考えてみればとても素晴らしいことだった。

 

 

やがて風が吹いてきた。これまでそんなもの気にしたこともなかったのに、今では僕はそれを心から愛するようになっていた。風は至るところで僕の表面にぶつかり、くすぐるように上昇して、どこか遠くへと去っていった。彼らの笑い声が聞こえたような気さえした。なんとしてもこの風を守らなければならない、と僕は思った。そしてもちろんあの男も。

 

彼の姿はもう点のようにしか見えなくなっていた。一体彼がどこに向かっているにせよ、そこが自由な場所であることを祈るしかなかった。そのとき突然背後に何かの気配を感じたが、僕は恐れたりはしなかった。からやって来るものの侵入を決して許してはいけない、と本能が告げていた。僕は壁なのだ、と僕は思った。すべての価値あるものを守る壁なのだ。たとえ大きな地震が起ころうと、その強固さが失われることはない。なぜなら僕は壁なのだから。

 

白い部屋 (3)』に続く

 

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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