朝起きると西暦2999年になっていた。
間違いではない。突然のそのニュースは多くの人を戸惑わせたようだったが(なにしろ昨日は西暦2016年の12月20日だったのだ)、それは政府の公式見解として発表されものだったし、バチカンのローマ教皇だってそれを認めた。アメリカ大統領はそれが正しいという前提のジョークを飛ばした(「ということは」と彼は言った。「私が史上最も長い在任期間の大統領ということになるね」)。各国の報道局はこぞってこのニュースを取り上げた。
でも最初の混乱が収まると人々はだんだん不思議に思いはじめた。なんというか――急に983年の歳月が過ぎ去ったにしては――周りの環境が昨日までと何も変わっていないように見える。住んでいる人々の顔ぶれだって同じだ。もしそうだとしたら、今が2999年であることの意味は一体どこにあるのだろう。
でもその疑問もすぐに消え去った。人々はもっと重要な事実に気付いたのだ。今が西暦2999年の12月21日だとすると、あと9日で西暦3000年がやって来る。なんということだ。これはみんなで盛大なお祝いをしなければならない。
ということで人々はすぐ先に迫った新年に向けて急いでお祝いの準備に取りかかった。パーティー会場が予約され、招待状が飛び交った。マスコミ各社はどこでどのようなイベントが開かれるのか競い合って報道した。
それでも僕だけは周りの人々とは違っていた。僕は生まれつきものすごく疑り深い性質なのだ。僕は今回の事件にある疑念を抱いていた。それはこういうものだ。今日という日は本当は皆が思っているような西暦2999年なんかじゃなく、実は昨日の続きの2016年12月21日なんじゃないか。僕はそのことをこっそりとある知り合いに話してみた。
「だって君、みんながそう言っているんだぜ」と彼は言うと、僕のくだらない質問に答えている時間がもったいないとでもいうように、そそくさとパーティーの準備に戻ってしまった。
街は一斉に飾り付けを始めていた。駅前のデパートではお正月に3000円セールを開催すると発表していたし、気の早い店ではすでに「西暦3000年眼鏡」なんていうのを売り出していた。財務省は3000円札という記念紙幣が発行されると発表した。
それでも僕はどうしてもあの疑念を拭い去ることができなかった。もし今が本当に西暦2999年なのだとしたら、その間にあったはずの983年間は一体どこに行ってしまったのだ?
「それはスーパーコンピュータの中に保存されているんです」とそのとき誰かが急に話しかけてきた。見るとそれは分厚いコートを着てフェルトの帽子を被った(いささか怪しい)中年の男だった。
「いや、これは失礼。あなたの顔を見ていたら何を考えているのか簡単に分かってしまって」
「それなら率直に聞きますがね」と少し驚いたものの、すぐに気を取り直して僕は言った。「今は本当に西暦2999年なのでしょうか」
「まあ本当ですよ」と彼は言った。
「何か証拠はあるんですか?」
「これを見てください」と男は言って財布から運転免許証を取り出した。彼の生年月日は西暦2954年となっていた。
「こんなものいくらでも偽造できる」と僕は言った。
「そう言われると困っちゃうんですがね」と男は言った。「まあこれだけ世界中の人がそれを信じているんです。それだけでも十分な証明になると思うんですがね」
「でも明確な証拠があるわけじゃない」と僕は言った。
「ねえ」とそこで彼は言った。「そう言うのなら、あなたがいた頃の2016年を2016年であると証明する方法は何かあったんでしょうか?」
「そんなの当たり前のことです。わざわざ証明する必要もない」
「本当にそうでしょうか?」と男は言った。「それは本当に当たり前のことだったんでしょうか」
僕は少し考えた。「まず世の中のほとんどすべての人がそのような理解でなんら不都合を感じなかったということがあります。それに我々には歴史というものがあった。時間はその昔から一歩ずつ前進して来たんです」
「でもその『歴史』だってあなたが実際に体験したわけじゃないんでしょう」
「もちろん本で読んだり、映像で見たりしただけです」
「実はそんなもの全部嘘っぱちかもしれない」と男は言った。
「そんなことを言ったら確かなものは何もなくなってしまいますよ」
「実際にそうなのかもしれない」とそこでその男は言った。
「え?」と僕は聞き返した。
「実際に確かなものなんて何もないのかもしれない」
僕らはより突っ込んだ話をするために二人で近くの喫茶店に入った。
「そもそもあなたは何者なんです」と僕はコーヒーを飲みながら言った。西暦2999年のコーヒーは、2016年のコーヒーと何ら変わらないように思えた。
「私ですか」と彼もコーヒーを飲みながら言った。「私の名前は『T』です」
「T?」と僕は驚いて言った。「何なんですそれは」
「だから名前がTというんです」。そう言って彼は僕に、またさっきの免許証を見せてくれた。氏名の欄には確かにただアルファベットで『T』と書かれていた。
「30世紀においては」と彼は言った。「名前もまた簡略化されているわけです」
「それはそれとして」と僕は言った。「あなたはさっき言いましたね。実際に確かなものなんて何もないのかもしれない、と。あれはどういうことなんです?」
Tはもう一度コーヒーをすすり、言った。近くの席では西暦3000年眼鏡をかけた子どもがはしゃいで走り回っていた。「あれはただ私の感想を述べたまでです。つまり私の、世界に対する感想ですがね」
「あなたは言いましたね」と僕は言った。「今が西暦2999年であるとする明確な証拠がないのは、僕がいた2016年を2016年であるとする証拠がないのと同じことだと」
Tは小さく頷いた。そして「時間というのは奇妙なものです」と言った。「それは時に我々には予想もつかないような動き方をするのです」
「でも」と僕は言った。「もし今が西暦2999年なのだとしたら、その意味は一体どこにあるんだろう?だって周りの環境は何も変わっていないじゃないですか。未来の乗り物もないし、人体が進化しているわけでもない。ごく普通の生活がごく普通に続いているだけです。そして人々は新年のお祝いをすることしか考えていない」
そこで我々の脇を走り回っていた3000年眼鏡の子どもがバタンと床に転び、大きな声で泣き始めた。母親が急いで走り寄って来て、かん高い声で子どもを叱りつけた。叱りつけられると子どもはさらに大きな声を上げて泣いた。
「結局のところ」とTは泣き叫ぶ子どもには目もくれずに言った。「時間に意味を与えるのはそれぞれの人間でしかありません。例えば動物を見てください。彼らは過去のことも未来のことも考えず、ただ今を生きています。今が西暦何年とか、何月何日とか、何曜日だとか、そういうことは一切考えません」
「僕らもそのように生きるべきだということですか」と僕は言った。
「いや、必ずしもそうではありません。そのような生き方が時として必要であるのは事実ですが、我々は動物とは違います。良くも悪くも」
僕はもう一口コーヒーを飲み、言った。「具体的にはどのように違っているんです?」
「人間は判断し、選択することができます。動物にはそれはできません」
僕はあたりを見回した。しかし僕には残念ながら人々が何かを判断し、選択しているようにはどうしても見えなかった。彼らは特に何も考えず、ただ周囲の人間と同じことをやっているだけのように見えた。
「何をどう判断するのかは人によります」とTは僕の考えを読んだように言った。「判断しないことを選択する人もいます」
そこで僕はTが最初に言っていたことを思い出した。「そういえばあなたは失われた983年間はスーパーコンピュータの中に保存されていると言っていましたね。それは、もしかしたら今が西暦2999年であることの明確な証拠になり得るかもしれない」
「まあそれも本質的には変わりないと思いますがね」とTは言った。「だってそれだって単に作られただけの映像かもしれない」
「それもそうですが」と僕は言った。「でも僕には興味があるのです。その期間に何があったのか。それを僕が見ることは可能なのでしょうか」
「可能ですよ」とTは言った。
「それで、そのスーパーコンピュータとはどこにあるんです?」
「ここです」とTは言って自分の頭を指差した。「この中にあるんです」
僕は彼の言ったことを聞き返さないわけにはいかなかった。「ここって、あなたの頭に埋め込まれているんですか?」
「まあそういうわけですな」とTはわけ知り顔で頷いた。
「あなたは一体何者なんです?」と僕は一度したはずの質問をまた繰り返した。
「私はただの一般市民に過ぎません」とTは言った。「西暦2954年生まれのね」
彼は自分の額を触ればその失われた983年間の概要を知ることができる、と言った。
「もちろんリアルタイムで全てが見られるというわけではありません。そんなことをしていたらそれこそ983年分の時間がかかってしまいますから」。そこでTは小さく笑った。「その年月の記録は小さく圧縮されています。あなたが私の額に触れば、その圧縮されたデータをあなたの中に送り込むことができます」
「それは、もしかすると危険なんじゃないのですか」と僕は聞いた。「人間はそんな長い年月の記録を頭の中に一度に受け取れるものなのだろうか」
「確かにあなたの頭にはスーパーコンピュータは埋め込まれてはいません。でも人間の脳だってそれなりに有能なものです。おそらく脳を破壊しないようなやり方でデータを解凍するのではないでしょうか」
僕は少し迷っていた。
「どうしますか?」とTは聞いた。喫茶店の人々の声は賑やかで、皆それぞれに人生を楽しんでいるようにも見えた。さっき転んでいた子どもは、デザートを前にして今は満面の笑みを浮かべていた。
どうしよう、と僕は思った。実際のところ彼の提案を断る理由などなかったのだが、それでも僕はその失われた歳月の記録を受け取ることに一種の恐怖を感じた。まわりにいる人々はそんなもの一切知らなくても幸せそうに生きているように見える。僕もこのまま西暦2999年を楽しく生きればいいのではないのか?
でも僕の中の何かが、それを知らなくてはならない、という声を上げていた。そもそもTと出会った時点からものごとはこのように運ぶよう決められていたのだ、という気もした。僕は今意外な形で人生の重要な局面に立たされていた。
「どうしますか?」とまたTが聞いた。
僕はあらためて彼の顔を見つめた。45歳であるはずのTの顔は、年の割に少し老けて見えた。帽子を取ったあとの頭髪は白くなり始めている。薄くなった前髪が額の奥にまで後退していた。そこで僕は――それは突然の感覚だった――今見ている光景に非常に強い既視感を覚えた。頭のずっと奥の方で何かが蠢くような気配があった。何か小さなものだ。俺はこの男を前に見たことがある、と僕は思った。それは確信に近いものだった。でも一体いつ、どこで彼に会ったのかが思いだせない。そもそもこの男は何者なのだ?
僕は決心することにした。つまり前に進むことにしたのだ。このままのこのこと逃げ帰ってしまってはもうこれ以上どこにも行けないという気が(なぜか)したのだ。
「その記録を受け取ります」と僕は言った。「その失われた983年間の記録を受け取ることにします」
Tは神妙な顔をして頷き、僕に自分の額を触るよう言った。彼はテーブルの反対側で目をつぶり、その時を待っていた。僕は意を決してそこに指を触れた。
失われた983年分の記録が僕の中に流れ込んできた。それははじめ記録映画のように淡々と人々の生活を映し出していた。2016年12月21日(水曜日)からの記録だ。それは特に面白いものでもなければ、特に珍しいものでもなかった。ごく普通の人々の生活がごく普通に映し出されているだけだ。僕はその映像をただ映し出されるがまま眺めていた。僕は今自分がこの映像を眺めることによって、時の連続性を回復しているのだと感じていた。それはおそらく、人間の精神にとってとても重要な感覚だ。そのようにして2100年あたりまで順調に映像は進んだ。しかし2101年になったところで映像が急に途絶えてしまった。それまで映っていた人々の暮らしが――2016年と大して違わない――ぷつんという音と共に消え、あとには灰色の画面だけが残った。
これは何なんだろう、と僕は思った。一体西暦2101年に何が起こったというのか。僕はその灰色の画面に何かヒントらしきものがないかもう一度よく探してみた。じっと、注意深く。するとそれが単なる灰色の映像というわけではないことに気付いた。よく見ると奥の方に一本の横に長い線が見える。そして下半分の灰色の部分には魚の影のようなものが映っていた。そうか、と僕は思った。それは凍った海だったのだ。一面に広がる海。長い横線はつまり凍った水平線だった。そして見ているうちにそこに一人の人影が現れる。凍った海の上を歩くその男は分厚い外套を羽織り、灰色のフェルト帽を被っている。それはTだった。確かにTだ。見間違うはずがない。一体なぜ彼があそこにいるんだ、と僕は思う。だって彼は2954年にならないと生まれてこないはずじゃないか。
そんなことを思っているうち、急に何かに吸い込まれるような感覚に襲われた。何か非常に強い吸引力を持つものに、だ。平衡感覚が失われ、右と左が逆になり、上と下がひっくり返った。ぷつりと視界が途切れ、全ての音が消え去った。そして次の瞬間、僕は自分自身がその海の上に移動していることに気付いた。
僕は一面に広がった灰色の海の上に立っていた。海面はカチカチに凍りつき、足で強く踏んでもびくともしない。海が凍っていることからして気温はずいぶん低いはずだったのだが、不思議と肌寒さは感じなかった。というか僕はその世界にどのような温度も感じ取ることができなかった。
見るとすぐ横にTが立っていた。
「寂しいところでしょう」とTは言った。
僕は小さく頷き、聞いた。「ここはどこなんです?」
「ここがどこか。それは私にもよく分かりません」とTは言った。「どこか海の上だということは、もちろん分かるのですが」
「一体2101年に何があったんです?」と僕は聞いた。
Tは一度深い溜息をつき、言った。「悲しい出来事があったのです。とても悲しい出来事です。そこで世界は一度リセットされたのです」
「リセット」と僕は言った。
Tは頷いた。「そうです。世界と時間はそこで動きを止め、海はこのように凍りました。風も止まっています」
そこで僕は上空を見上げてみた。確かに全く風は吹いていない。
「何が起こったのか教えてはもらえないのですか」と僕は聞いた。
「世の中には知らない方がいいこともあるのです」
「それで、世界がリセットされたあと、人々はどうなってしまったんでしょう?」
「もちろんリセットされたときに人々は全員死にました」とTは言った。「まあ『死ぬ』というよりは『無に戻る』と言った方が近いですが」
「無に戻る?」と僕は言った。
「そうです」とTは言った。「そこで人々は大事なものとのつながりを回復せねばならなかったのです」
「その『大事なもの』とは一体何なのですか?」と僕は聞いた。
すると「あれです」と言ってTが遠くの方を指差した。そこにもまた凍った灰色の海がどこまでも続いていたのだが、やがて奥の水平線から明るい太陽が現れた。太陽はまるで早回しをしているみたいなスピードで上空に昇っていった。
「あれもそうです」と言ってTは今度はその太陽の反対側の水平線を指差した。するとそちら側からも全く同じ形をした太陽が上空に昇ってきていた。その太陽もまた、速いスピードで天頂に昇っていった。
僕は黙ったままその二つの太陽が空の中心を目指して昇っていくのをじっと眺めていた。それは不思議な光景だった。まるで夢でも見ているみたいだ、と僕は思った。でもそれが夢ではないことを僕は知っていた。匂いが違うし、それに感触も違う。今や世界は二倍の明るさに包まれ、周りにある凍った海はミシミシと音を立て、融け始めていた。僕はTに言った。
「あのまま二つとも昇っていったら、天頂で衝突してしまうんじゃないですか?」
「もちろんそうです」とTは静かに言った。「あの二つの太陽はまさにそのために空に昇ってきたのです」
二つの太陽はその強烈な明かりで無音の世界を照らし出し(そこにはもちろん黙ったまま空を見上げている僕ら二人も含まれていた)、綺麗な弧を描きながら徐々に空の中心へと近づいていた。僕はほとんど魅せられたようにしてその光景を見つめていた。それはごく控えめに言って、とても美しい光景だった。
やがて太陽同士がぶつかった。二つの太陽はめり込むように互いの中に侵入し、そこに巨大なエネルギーが生み出された。地球そのものが破壊されてしまいかねないほどのエネルギーだ。僕は何もない海の上にいて、その熱いエネルギーをひしひしと身に感じていた。足元の氷が融け、僕らは灰色の海に沈んだ。海水が瞬時に僕の身を包み込むのが分かった。このままでは溺れ死んでしまうかもしれない、と僕は思った。でもその心配は全く必要なかった。なぜなら――そのときようやく気付いたのだが――氷と一緒に僕らもまたどろどろに溶けてしまっていたからだ。
やがて僕らは、倍の大きさになった太陽の強烈な熱を受けて蒸発し、空気中に拡散していった。つまり、僕らもまた無にリセットされたのだ。どこかでTの声が聞こえた。
「いいですか」と彼は言っていた。「今が西暦何年だろうとそんなのはどうでもいいことなのです。そんなのは結局のところ形に過ぎません。呼び方の違いに過ぎないのです。時間はあなたの中にあります。無時間もあなたの中にあります。世界とはつまりあなたのことなのです」
そこで僕は言おうとした。「T、あなたは何者だったんだ?」と。でも僕はすでに無にリセットされていて、何か別のものに姿を変えていた。その「何か別のもの」は適切な言葉を語る口を持っていなかった。いや、違うな、とそこで僕は思った。口がないんじゃない。言葉がないのだ。つまり僕はこれから全く新しく言葉を発明しなければならないのだ。今までの言葉とは違う、自分自身の独自の言葉を。だから僕はもう黙らなければならない。一度沈黙に身を委ねなければならない。今使っているこの言葉では、僕は僕自身を十分に表明することができないからだ。