死んだアルバトロス、および月の上に住む女 (2)

死んだアルバトロス、および月の上に住む女 (1)』の続き

彼はそのあと昼寝をすると言って、一人ソファの方に行った。僕は今聞いた話に心を惹かれながらも、おとなしく自分の部屋に帰った(我々は隣同士の部屋に住んでいた)。自分の部屋に入ると、そこの空気が今朝とは一変していることに気付いた。今日は日曜日で、仕事は休みだ。いつもならそこにある種リラックスした、穏やかな空気が流れているはずだったのだが、今ではピンと張りつめた空気が存在していた。それは明らかにさっきの彼の話が持ち込んだものだった。彼がこんな風に突然僕を呼び出して話をするのは珍しいことではなかったが、今回の話が持つシリアスさは明らかに今までとはおもむきことにしていた。死んだアルバトロス、と僕は思った。そして空白の中に住む女。彼らは一体何を意味しているんだろう?

三十分ほど椅子に座って考え事をしていたあとで、少し外に出て散歩をすることにした。部屋の中をただよう張りつめた空気に圧迫感を感じた、ということもある。でもそれだけではなく、彼のさっきの話を自分なりにもっときちんと消化しなければならない、と思ったのだ。そしてそのためには身体を動かす必要があった。本能的にそう感じたのだ。

それは六月の始めのことで、まだ梅雨つゆはやってきておらず、空は気持ちよく晴れ渡っていた。そろそろ午後三時になろうとしていたが、これからもっと気温が上がっていきそうなほど、太陽は気前よく輝いていた。僕はポロシャツにジーンズという格好で、神田の町を――僕らは二人揃って神田にあるマンションに住んでいたのだ――歩くことにした。

日曜日の古本屋街は意外に混み合っていた。一体誰がこんな本を読むのか、というくらい専門的な書物を扱っている小さな店にも何人かの客の姿が見えた。僕はそういう店に立ち寄っては、わけの分からない本の背表紙を眺め――たとえば中国語で書かれた数学書とか――また外に戻ってきた。もっとも身体はそのように動いていても、意識はあの彼の語った不思議な夢のことに戻っていった。一番の問題は、と僕は思った。あれが僕自身の何かをも刺激している、ということだ。彼は最後に「人生のプライオリティーに愛を置かなければならない」と言った。それはもちろん理屈としては分かるのだが、実際の、物理的な愛、となると僕にはよく理解できなかった。果たして愛とは何なんだろう? 僕は今それを手にしているのだろうか?

そんなことを考えながら歩き続けていたのだが、結局何一つ問題は解決しなかった。まあそれはあらかじめ予想できていたことではあったのだが、僕としてはわずかなりともどこかに前進する必要があると感じていた。どこに、かは分からない。しかしどこかに向けて進み続ける必要がある。

一時間ほど歩いたあとで、僕はふと目についた古本屋に入った。それは洋書専門の店で、狭い通路の両脇には所狭しとさまざまな種類の洋書が並べられていた。その大半が英語だが、それ以外の言語のものもいくつかある。ドイツ語やフランス語、イタリア語、サンスクリット語。サンスクリット語?

まあとりあえず僕はぶらぶらとその店を物色していた。正直いって何か目当てのものがあったわけではない。家にはまだ読み切れていない洋書が何冊もあるし、これ以上その仲間を増やしたいとは思わなかったからだ。しかもざっと見る限り、ここにあるのは僕のよく知らない作家のものばかりだった。ほとんどが安っぽい表紙のSFやミステリーのペーパーバック。と、そのとき段ボールの中の一冊の本が僕の注意を引いた。宇宙人やUFOがきらめく中、その表紙だけが極めてシンプルでかえって人目を引いたのだ。それは薄い水色の背景に、丸いリアルな月のイラストが描かれたものだった。タイトルは『The Woman on the Moon』。月の上に住む女。作者はVirgil Anderson(バージル・アンダーソン)となっている。裏表紙を見ると、1890年に生まれ、1938年に死んだ、とある。アメリカ人のようだった。それほど厚い本ではなかったし、難しい英語でさえなければ比較的短時間で読めそうだった。値段は200円。僕はほとんど衝動的にそれを買った。

レジにその本を出したとき、店主の白髪の老人はちらりと僕の目を見て、何かを言いたそうにした。あるいはこの本に対して何か特別な思い入れがあったのかもしれない。でも結局何も言わなかった。ただ代金を受け取ると、真っ白なビニール袋にその本を入れ、少しだけ頷いて僕に渡してくれた。そして(なんだかよく分からないが)またもとやっていた仕事に戻った。

その店を出ると、僕は一直線に部屋に戻った。今ではその不思議な本のことが意識の大半を占めていたため、死んだアルバトロスのことは一時的にどこかに消え去っていた。もっともそれがまた復活するだろうということは自分でもよく分かっていたのだが。

部屋に帰り、グラスに一杯水を飲んだあとで、その本を読み始めた。電子辞書を片手に置いて。幸いさほど難しい単語は出てこなかった。もちろんそれでもなんのことやら分からない個所は結構あったのだが、そういうところは適当に読み飛ばして、分かるところから類推することにした。それはタイトルの通り、月の上に住む女の話だった。

彼女はもうずいぶん前から月の上に住んでいる。かつては地球上で暮らしたこともあったのだが、そこでのあまりに忙しい生活に嫌気がさして、また月に戻ってきた(ちなみにその移動方法は明記されていない)。そしてそこから地球上で起こるさまざまな物事を、ただじっと眺めて暮らしてきたのだ。

彼女はおそらく二千歳以上にはなっているはずなのだが――イエス・キリストの生誕を見た、という記述があった――月にいるため、身体はほとんど年を取らない。そこにある特殊な光が、彼女の肉体を若いまま保っているのだ。彼女には食事を取る必要もない。その光さえ浴びていれば一切空腹を感じることもなく、いくらでも長く生き続けることができるからだ。

あるとき彼女は大規模な人殺しの場面を見た。そのような争いはこれまで何度も目にしてきたから、さほど珍しいものではなかったのだが、今回のものはその規模が違った。多くの機械が利用され、毒ガスなんかも使用された。たくさんの若い男たちが――それに巻き添えになった女や子どもなんかも――次々に死んでいった(作者の生きていた年代からして、これはどうやら第一次世界大戦を示しているものと思われる)。彼女はこれまでにも増して興味深くその光景を見下ろしていた。人々は何かを求め、そのためにかえって何かを失っていった。勝った者がおり、負けた者があった。でも彼女は知っていた。結局は遅かれ早かれ、みんな同じように死ぬのだと。

そんな中、一人の男の姿が目に付いた。それは若い詩人で、前線にいながらもせっせと詩を書いていた。それは月に住む女についての詩だった。彼はその美しさを称え、自分も早く死んでそちらに行きたいと願っていた。このような意味のない地球上の争いごとから逃れるには、それが一番であるように感じられたのだ。

彼はまるで自ら死を求めているかのように、果敢に敵軍に攻め込んでいった。しかしなぜか死は訪れなかった。二歩離れたところにいる味方の頭が吹っ飛んだ。毒ガスを吸って、半死はんし半生はんしょうの状態をさまよった。しかしそのような状態になってもなお、結局はもとの健康な肉体に戻るのだった。俺は死から見放されているのかもしれない、と彼は思った。そのような姿が珍しかったので、彼女は彼のことをずっと目で追っていた。戦闘は激しさを増し、彼は次こそは、という思いで、新たな詩を書いていた。

その晩、彼女は彼の夢の中に入り込んだ。月の光に乗れば、そういうことが可能なのだ。彼はその夢の中でも詩を書いていた。彼女はそこに現れ、彼にたずねた。

「あなたは自分から死を求めているように見える。それはどうして?」と。

彼は答えた。「僕はですね、その姿の中に何かがあるような気がするんです。平和で、何も起きない日々なんて退屈なだけです。もちろんこんな戦争下らないことは認めます。人々は生きる意味のようなものを失っていて、ただ暴れたがっているんです。まあこれは僕の個人的見解ですがね。いずれにせよ、だったらこの機会を利用してやろうと思ったんですよ。あるいは結果的には死ぬかもしれない。でもその直前までは、死にぎりぎりまで近付いた本当の生が味わえるかもしれない、と」

「でもあなたはまだ若いでしょう」と女は言った。

「そうです」と彼は言った。「でもまわりを見てごらんなさい。人間は年を取るとどんどん駄目になっていきます。何か大切なものを失っていくんです。あんな風になるくらいなら、僕は早いうちに死んでしまおうと思っているんです」

「それで良い詩は書けたのかしら?」

「それが全然駄目なんですよ」と彼は言い、手に持っていた手帳を眺めた。そこには所狭しと文字が書き連ねてあったが、彼は顔をしかめてそれを地面に放り出した。「一体何が駄目なのか自分でもよく分からない。だってそこら中に死が溢れているんです。昨日は親しい友人が三人殺されました。僕は敵の兵士を二人撃ち殺した。にもかかわらず、何もひらめかないんです。僕の頭に浮かぶのは、ただ月の上で暮らす美しい女のことだけ」

彼はそこではっと気付いたかのように彼女のことを眺めた。そこにいるのが自分が詩に書いていた通りの姿をした女であることにようやく思い至ったのだ。彼はしばらく唖然として、身動きすら取れずにいたのだが、やがてなんとか口を開いた。

「あなたは・・・そうか、きっと月からやって来たんですね。今晩はずいぶん綺麗に輝いていたから。僕はあなたのことをずっと前から知っていたような気がします。あなたのことを考えているととても幸福になることができた。でも問題は、そこに動きがない、ということなんです。月の世界は静かで、美しい。そこにいるあなたもまた美しい。でもそれだけなんです。そこに本当の生はない。月は遠くから鑑賞するものであって、人が生きる場所ではない。違いますか?」

でも彼女はそんな話は聞いていなかった。つかつかと彼の方に近寄ると、その手を取り、そのまま地球の秘密の場所にある「死者の穴倉あなぐら」へと連れていったのだ。彼女は死んだ人間が実際にどうなるのかを彼に見せたかったのである。

死者の穴倉はものすごく大きな穴で、漏斗ろうと状の形をしている。壁沿いには細い通路が続いていて、人々はそこを歩きながら徐々に中心へと近づいていく。詩人と彼女は宙に浮いた状態でその光景を見下ろしていたのだが、何万という人々がぞろぞろと歩いていく様は圧巻だった。もっともその一番底に何があるのかは暗くてよく見えなかったのだが。彼はその行列の最後尾のあたりに、つい昨日死んだばかりの仲間の兵士を発見した。

「おい!」と彼は叫んだが、その兵士は見向きもしない。目は死んだようになって――というかおそらくすでに死んでいたのだが――ただ前を行く人の背中しか見ていない。何も考えず、何も感じない。彼らが機械のような存在になり下がってしまっているのは明らかだった。彼は訊いた。

「彼らはこれからどうなるのです?」

「ドロドロになるのよ」と彼女は言った。「天国もなく、地獄もない。ただドロドロになるだけ」

「そのあとは?」と彼は訊いた。「そのあとはどうなるんです?」

彼女はそれを聞くと、彼の手を引いて、その漏斗ろうと状の穴の奥へと入り込んでいった。彼らのすぐ外側にはたくさんの死者たちがいたが、彼女はそちらには一切目を向けなかった。彼らは人々がドロドロに溶けていく最下層に達し、そこからさらに奥へと潜っていった。詩人は息を止め、目を開けたまま周囲の状況に目を凝らしていた。あたりは暗く、身体中にその死者が溶け込んだというドロドロがまとわりついたが、彼女はスピードをゆるめなかった。やがて下の方に何かが見えてきた。

それは白い何かだった。その白さは周囲の暗さに対してひどく際立って見えた。彼女は迷わずそこに近づいていった。それは一見すると完全に丸いもののように見えたのだが、よく見るともぞもぞと動き、細かく形を変えていた。彼女は彼に向かって言った。「これは空白なのよ」と。

彼はそれに魅せられていた。俺はこれを求めていたのだ、とさえ思った。そこにはまさにそういう気配がただよっていた。この世にはない何か、彼がずっと求め続けながらこれまで決して得ることのできなかった何かがそこにはあるような気がした。彼はそこに手を伸ばそうとした。それに触れさえすれば、本当の救いのようなものが得られると思ったからだ。でもそのとき彼は自分の腕が存在しないことに気付いた。腕だけでなく、脚や頭もなかった。というのも彼自身もまた周囲を取り囲むドロドロの中に完全に溶け込んでしまっていたからだ。ただ一人彼女だけが無傷でそこに浮いていた。そしてそのもぞもぞ動く空白に手を触れた。

「なにもかも」と彼女は最後に言った。「結局は空白に過ぎないのよ」

そしてどこかに消えた。

詩人は目を覚まし、しばらく茫然としていた。自分が詩に書いた月に住む女が夢に現れたのは、驚くべきことだった。それもあんなに鮮明な姿で。でも実際のところ彼は彼女の顔をよく思い出すことができなかった。どうしてだろう、と彼は思う。あんなに近くでしゃべっていたのに。

そのとき彼は自分の中に空洞が生じていることに気付いた。完全な円形のようでありながら、実はもぞもぞと動き続けている。彼はそれをひしひしと感じ取っていた。そしてこう思った。、と。これまで彼は自分の中にはもっと価値のある何かが存在するのだと思っていた。たとえば光輝く宝石のような。しかし実際にあったのはこのわけの分からない空洞に過ぎなった。それもまわりを死者たちのドロドロに囲まれた空洞だ。それがあの夢に見た「空白」とほぼ同じものであることは明らかだった。あるいは、と彼は思った。あの死者の穴倉あなぐらも、実は俺自身の中だけに存在するものだったのかもしれない。

その空洞は彼の中に不思議な感覚をもたらした。もはや死への憧れも、本当の生への渇望も存在しなかった。俺は空白に過ぎないのだ、と彼は思った。ほかのすべてのものと同じように。そしてそう思うとなぜか自然に肩の力が抜けた。今まで重要だと思っていたさまざまな物事が、今では価値のないガラクタに見えた。俺はこれから空白として生きていこう、と彼は思った。それもきちんとした空白だ。今日も激しい戦闘があるが、なぜか自分はその中でも生き残るのではないか、という思いがあった。だからこそ彼女は俺にあんな光景を見せたのではなかったか。

、と最後に彼は思った。今ではその顔は真っ白な空白に覆われていて、細部を思い出すことはできなかった。俺はもう一度彼女に会わなければならない。でもどうやったら・・・。

新たな詩を書くことでその姿を再現できるかもしれない、と思ったのは、戦闘開始の直後のことだった。

死んだアルバトロス、および月の上に住む女 (3)』へと続く

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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