ミューズ(詩神)

その日僕は詩を書いてみることにした。詩を書くなんて生まれて初めてのことだ。いや、全く初めてというわけでもないな。子供の頃夏休みの宿題で書かされたことがあった。でもあれは先生から書けと言われて無理矢理書いたものだった。今僕は自発的に詩を書こうとしている。

 

でも僕は頭で考えた詩が意味を持たないことを知っていた。そういう文章はどこにも結び付かず、どこにも行き着かない。言っていることが明確で、文句なく正しかったとしても、そこには十分な養分が欠けている。僕はこれまでの人生において、書くことよりもむしろ読むことの方に長く(強く)没頭してきた。だからそういうことの按配は、言わば体感として身に染みついていた。

 

だから今詩を書こうと思い立った時、僕がまず始めにやったのは、神に祈りを捧げることだった。詩の神だ。かつて古代ギリシア人は詩を書き始める時にミューズ(詩神)に向かって祈りを捧げた。自分に十分な霊感を与えてくれるようにと。そして、例えばホメロスなんかには実際にちゃんと詩神が降りてきたみたいだ。その結果彼の文章は(と言っても口承の物語なのだが)二千年以上経った今でも生きて、読み継がれている。

 

僕は部屋を暗くし、詩神(ミューズ)に祈りを捧げた。どうか僕に霊感を与えてください、と。僕だって一度でいいからきちんとした詩を書いてみたいんです。なんとかその力をお授け下さい、と。
そして眼を開けると、目の前に詩神(ミューズ)がいた。

 

「やあ、どうも。私がミューズです。はい」
彼はごく普通の格好をした中年男だった。その姿は僕が「ミューズ」という言葉から想像していた姿とは正反対のものだった。そもそもミューズとは女神ではなかったか?

 

「いや、なかなか、長旅をして来たもんで、肩が凝っちゃって」と言って彼は僕の目の前で肩をぐるぐると動かしていた。そして言った。「ここは日本ですよね」
「ええ、そうです・・・」と僕はなんとか声を絞り出した。
「いやあ、日本に来たのはずいぶん久しぶりのことですよ」と彼は言った。「あれは誰だったかな・・・。そうだ、土井どい晩翠ばんすいだ。彼が私を呼び寄せたんです」
「土井晩翠」と僕は言った。
「いやあ、ずいぶん久しぶりだな。はーるーこうろうのー(はる高楼こうろうの)はーなーのえーんー(花のえん)」。彼は突然『荒城の月』を歌いだした。
僕は慌てて止めた。「いや、歌わなくてもいいです」。今は午前一時だ。隣の部屋の住人が驚いて目を覚ますかもしれない。

 

「なんだか気持がよくってね」と彼は言った。「やはり地上は良いですよ」
「普段はどこにいるんです?」と僕はなんとなく気になって聞いた。
「そりゃ決まってるじゃないですか、オリュンポスですよ」と彼は言った。「しかしゼウスとポセイドンが実に短気でね・・・」
彼はそこではっとして僕の方を向いた。「ああ、それであなたは私に霊感を授けて欲しいんでしたよね」
「ええ、まあ」と僕は言った。
「それで、生贄いけにえはどこなんです」と彼は聞いた。
「生贄?」
「そうです。いくらなんでもただで霊感を授けてくれってのはね・・・」と彼は言った。

 

僕は何か生贄になりそうなものが部屋にないか探してみた。でもそんなものはどこにも見当たらない。「一体どんなものならいいんですかね」
「そうだな、古代ギリシア人は牛五頭分くらいは授けてくれましたね」
「牛五頭」と僕はつぶやいた。
「または羊十頭」
「羊十頭・・・」

 

僕は今から自分が肉屋に牛五頭分の肉を(あるいは羊十頭分の肉を)買いに行くところを想像してみた。だめだ、と僕はすぐに悟った。そんな経済的余裕は今の僕にはないし、それに午前一時に一体どこの肉屋が店を開けていると言うのか。
「生贄が無いんなら帰っちゃいますけど、いいですか」と彼は言った。
「いや、ちょっと待って下さい」と僕は言った。なんとか彼を引きとめる口実を考えださなくてはならない。

 

「そうだ」と僕はあることを思いついて言った。「あなた肩が凝っているんでしょう」
「ええ、もう」と彼は言った。「石みたいにコチコチですよ」
「僕は昔から肩もみが得意なんです」
「それが生贄の代わりだと?」と彼は疑わしそうに聞いた。
「いや、そんなつもりじゃないんです。せっかく来て頂いたのだから、くつろいでもらいたくて」
「まあ肩を揉んでくれるというのなら、断る理由はありませんな」と彼は言った。

 

実際のところ、これからどうするのかというプランがあったわけではない。僕には十分な生贄を用意するお金もないし、時間もない。でもとりあえずこんな状態のままミューズをオリュンポスに帰したくはなかった。もしこのまま帰したら、いつか生贄を用意できるようになった時に、彼は僕のところにやって来なくなってしまうかもしれない。神々というのは実に気まぐれなのだ。

 

僕は座イスに座ったミューズの肩を揉んだ。彼の肩は彼が自分で言っていたようにたしかにコチコチだった。こんな肩凝り見たことがない。それは尋常のレベルを遥かに超えた肩凝りだった。神的しんてき肩凝りとでも言えばいいのだろうか。きっと神々の一員としてオリュンポスで暮らす、というのも傍目はためほど優雅なものではないのだろう。僕ははじめはゆっくりと軽く、そしてだんだんとリズムに乗りながら力強く肩を揉んでいった。

 

彼は気持ちよさそうに呻き声を漏らした。
「ああー、うん、良いねこりゃ。最高だ」
「良かったら腰も揉みますよ」と僕は言った。
「本当?いや、悪いね」

 

彼はベッドにうつ伏せになり、僕は今度は彼の腰を揉んだ。あまりに気持ち良かったのか、彼はあっという間に寝入ってしまった。彼が寝入ってしまうと、やがて僕は腰を揉むのを止め、改めて彼をじっと眺めた。これがミューズか、と僕は思った。なんだか我々とほとんど変わらないみたいだな。彼を起こしてしまうのは気がひけたので、僕はその後一時間くらい一人で本を読んでいた。

 

一時間後、彼がはっとして目を覚ました。そして言った。
「今何時です?」
「午前二時です」と僕は言った。
「いや、これはまずい」と彼は言った。「つい長居してしまった。これじゃあフライトに乗り遅れてしまう」
「フライト?飛行機に乗るんですか?」
「いや、つまり魂のフライトです」と彼は言った。「特別な通路を伝う特別な戦車に乗ってギリシアまで帰るんです。この座席がね、また狭くて堅いんですよ」
そう言うと彼は身支度を整え、目をつぶって何かを唱えた。すると彼の姿は急に透明になっていってしまった。

 

「それじゃあ、どうも。気持ち良かったですよ」と彼は言っていた。
「あの、やはり霊感は頂けないのでしょうか・・・」と僕は最後にあきらめきれずに言った。
「ああ、そうだった」と彼は消え去りながら言った。「まああなたにはずいぶん楽にさせてもらったし、霊感を授けてあげても良いんですがね。何しろ時間が・・・」
そう言いながらも彼はどんどん透明になっていった。

 

「そうだ」と彼は最後の最後に言った。「いいですか。レナード・バーンスタインとクリスティアン・ツィマーマン、ベートーベンのピアノ協奏曲第四番。ウィーンフィル。1989年の録音。分かりましたか?」
「レナード・バーンスタインとクリスティアン・ツィマーマン、ベートーベンのピアノ協奏曲第四番。ウィーンフィル。1989年の録音」と僕は早口で繰り返した。「でもそれがどうしたんです?」と僕は焦りながら聞いた。

 

彼はもうほとんど透明になりかけていた。「そこに私の言いたいことがだいたい要約されています」と彼は言った。「じゃあ、さよなら。また今度」。彼は手を振ったあと、僕に投げキッスを送り、どこか遠くに消えて行った。きっとこれから特別な戦車に乗ってギリシアに向かうのだろう。

 

次の日、僕は彼が言った演奏のCDを図書館で見つけ、借りてきて部屋で聞いた。確かにそこには何かがあった。ミューズが言いたかったことは、確かにそこに要約されていた。僕は頭ではない別の部分でそれを理解し、受け入れた。
それはこういうことだ。

 

通り抜けること

 

通り抜けるためには出口が無ければならない。出口があって初めて僕らはどこかに通り抜けることができる。

 

通り抜けること

 

僕は机に座り、詩の第一節を書き始めた。通り抜けること。出口を塞いでしまわないこと。リズムに乗ること。肩の力を抜くこと
もちろんそれは言う程簡単ではない。でも僕の頭の中ではバーンスタイン指揮するウィーンフィルとツィマーマンが演奏を続けていて、それが詩を書くことを助けてくれた。

 

 

僕は自前の詩を書きながら知らぬ間に何かを通り抜け、そして結果的にどこかに辿り着いた。僕は一つ大きく息をつき、自分の書いたものを改めて見返した。
「悪くない」と僕は言った。でもまだまだ改良の余地はある。僕は早速書き直しに取りかかった。

 

僕は書き直しをしながらあの奇妙なミューズ(詩神)のことを考えていた。今では僕も理解できるようになっていた。きっと詩的霊感というものは、誰かに与えてもらうものではなく、自分自身の中に求めるべきものなのだろう。彼はそれを教えてくれたのではなかったか。まあもしかすると、本当にただ単にフライトに乗り遅れそうになっただけなのかもしれないけれど。

 

どちらでもいいや、と僕は思った。今は詩を書くことに集中しよう。それ以外の楽しみなんて、(多分)今の僕にはないのだから。

 

しかしそれにしてもあれはすごい肩凝りだったな。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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