死んだアルバトロス、および月の上に住む女 (1)

「昨日死んだアルバトロスの夢を見た」と彼は言った。「そいつは紛れもなく死んでいた。首からだらだらと血を流してね」

「ちょっと待って」と僕は言った。「アルバトロスって、つまりアホウドリのことだろ?」

「そうだ」と言って彼は頷いた。「まあつまりアホウドリのことだ。でも俺的にはそれは『アルバトロス』だったんだ。一目見てそう思った」

僕はただ頷き、その続きを待った。

「それで、そのアルバトロスは死んでいた。しかし完全に死に切っていた、というわけじゃない。そいつはまだ死んでいる途中だったんだ。おそらく98パーセントくらいまでは死んでいたのだと思う。でもあと残り2パーセントくらいは生きていた。俺にはそれが分かった」

「それで、君は何をしていたんだ? ただそこでじっと見ていただけ?」

「そうだ」と彼は言った。「俺はそこにいて、そのアルバトロスが死んでいく様子をただ眺めているんだ。馬鹿みたいにな。でも正直いって、それは美しい光景だった。そいつの首にはナイフか何かでつけられた深い切り傷があった。そこから鮮やかな赤い血が流れている。ほとんど虫の息になりながら、そいつは必死に呼吸を続けている。でも明らかに力はどんどん尽きてきている。残っていた2パーセントの生命は、徐々に1パーセントになり、0.5パーセントになった。俺は今か今かとその最後の瞬間を待っていた。なあ、俺は思いがけず興奮していたんだよ」

彼はそこで一度間を取った。そして壁に掛けられた時計を見た。その秒針はチクタクと執拗に動き続けている。彼は先を続けた。

「しかし、だ。そこである事実に気付く。アホウドリが本当に死に至る直前のあたりで、た。俺はそれに気付いて愕然がくぜんとしてしまう。そんなことが本当にあり得るのか、と。でもそれは本当に本当のことだった。俺の全身がそれに気付いていた。その事実とはつまり、、ということだったんだ」

僕は一瞬それについてどんな反応をすればいいのか分からなかった。でも一応何かを言っておいた方がいいだろうと思って、とりあえず質問をした。

「でも君は人間だろう」と僕は言った。

「そのとおりだ」と彼は言った。「でもね、その夢においてはそれはさほど確かなことじゃなかったんだ。俺の人間性というか、そういうものが、だ。俺は今まさに自分が死にかけている場面を目撃しているんだ、と思った。首からだらだらと血を流してね。それはまったくの真実だった。俺はそれを感じることができたんだ。

しかしそうなると一つ問題が生じることになる。それは『じゃあ今このアルバトロスを見ている俺は一体何なんだ』ということだ。俺は自分の姿を見ようとする。でもうまく首を動かすことができない。だから自分がどんな格好をしているのか見ることができないんだ。俺は馬鹿みたいに突っ立って、そのアホウドリが死んでいく様を見つめている。あたりは真っ暗で、光の気配すらない。音はなく、ただそのでかい鳥の呼吸が聞こえるだけだ。それだって今まさに消え去ろうとしている。これは何なんだろう、と俺は思った。これは一体何を意味しているんだろう、とね。でも俺には何も分からない。だって自分が何なのかすら分からないんだ。そんな人間に一体何が理解できる?

でもそのときついに最後の瞬間が訪れる。それはいともあっけなくやって来るんだ。そのアルバトロスはついさっきまではほんのわずか生きていた。でも今では完全に死んでいる。死んだアルバトロスは、本当の死んだアルバトロスになったわけだ。しかしそうなるともうそいつに意味なんてない。ただの死体に過ぎない。誰かに喰われようと、そのまま腐って土にかえろうと俺の知ったこっちゃない。俺の興味はもう完全に失われてしまったんだ。

そう、もちろんさっきの直感を忘れたわけじゃない。あのアルバトロスは俺自身だ、ということだ。とすると、俺はもう死んだことになる。なあ、どうして死んだ人間があれこれものを考えられるんだ? そんなのおかしいじゃないか。

でも俺は気付くんだが、そのとき俺はもう何も考えてはいなかったんだ。ただ『考えている』と思っていただけ。グルグルと同じところを回り続けている。そんなのは生きた思考とは呼べない。

そのときさっきまでアルバトロスがいた場所に空白が生じていることに気付く。そう、そこにはもう何もなかったんだ。ついさっきまであんなにでかい鳥がいたのにな。そこにはちょうど同じ大きさの空白が生じていた。周囲を覆う暗闇の中に、真っ白な穴がいていたんだ。俺はじっとそれを見つめていた。そのときそこに一つの人影が見えた。それは一人の女だった」

「女?」と僕は驚いて言った。「それはどんな女だい?」

「若い女だ」と彼は言った。「というか、たぶんそうなのだと思う。それは黒い服を着た女だった。彼女は俺の方をじっと見て、そして何かを言いたそうにしていた。でも何も言わない。俺もまた彼女のことをじっと見つめていたんだが、そこにはある不思議な感覚があった。それは、、というものだ。でも俺はこれまで一度も彼女の姿を見たことはない。それはたしかだったんだ。

そんな中、やがて彼女が動き出した。よく見ると彼女は右手に鋭いナイフを持っていた。それは暗い世界の中、キラリと銀色に光っていた。彼女はその刃を自分の首の部分に当て、そして躊躇ちゅうちょなく深い切れ目を入れた。けい動脈どうみゃくのあたりだ。なぜそんなことをしたのかは分からない。その表情にはほとんど何の変化もなかったしな。でも俺には本能的に分かった。彼女はきっとこれをやらずにはいられなかったんだ。

その傷口からは鮮やかな赤い血が噴き出してきた。それはドクドクと流れ、徐々にそこにあった空白を埋めていった。俺はただじっとそれを見つめていた。相変わらずそれしかできなかったんだ。俺は馬鹿みたいにそこに突っ立っていて、そして最後の最後の瞬間にようやく悟るんだ。、と。そして目が覚めた」

僕は今の話について何かを言おうとしたのだが、どうしても適切な言葉が出てこなかった。たしかにこれは単なる夢に過ぎなかったが、明らかに彼はもっと別な種類のものとして捉えていた。だとしたら僕に一体何をいえるというのだろう?

「それで、目が覚めてどう思った?」とだけ、しばらく経ったあとで彼に訊いた。

「そうだな」と彼は言って、少しの間考えていた。「うん、なんというか、それほど悪い気分じゃなかった。こんな不思議な夢を見たのは初めてだったが、俺はその骨子をうまく掴めたような気がしたからだ。その骨子とはつまり、、ということだ」

「彼女はどうなったんだろう? 彼女もまた死んでしまったのだろうか?」

「おそらくそうなるのだろう」と彼は言った。「でも少なくとも俺が見た限りではまだ生きていた。生きて、だらだらと血を流し続けていたんだ。その目は驚くほど澄んでいた。あるいはそれは死に極限まで近付いていたからなのかもしれない。だからこそ世の中の余計なものではなく、もっと本質的なものを見られたのかもしれない」

「でも彼女がその目で見ていたもの、っていうのは、つまり君のことだったんだろ?」

「そうだな」と彼は言った。「彼女はそこでおそらく俺の本質を見ていたんだ。自分自身では見ることのできない本質だ。俺はそういう感覚を得ていた。だから目が覚めたあと、俺は彼女のあの目の中に一体何が映っていたのか思い出そうとしたんだ。目を凝らせば見えたはずだからな。それが分かれば、俺は自分自身の本質を客観的に観察することができる、ということになる」

「でもきっと思い出せなかったんだろう」と僕は言った。

「そうだ」と彼は認めた。「何も思い出せなかった。俺が覚えているのは、ただその目が恐ろしく澄んでいた、ということだけなんだ。子どもや、動物が持っているような純粋な目を、さらに透明にしたような目なんだ。どんどん奥に吸い込まれていきそうな目だ。あんな目はおそらくこの世には存在しないはずだ。なぜならそんなものをさらけ出していたら、あっという間に悪いものがやって来て、それをけがそうとするだろう。それは、つまりそういう目だったんだ」

「そして君は彼女を愛していた」

「そうだ」と彼は言った。「俺は彼女を愛していた。しかしそのことに気付くために、彼女自身が極限まで死に近づいていなければならなかった。それは皮肉なことだ。どうして俺はこれまでそんな簡単なことに気付かなかったんだろう?」

彼はそう言って頭を抱え、しばらくの間何かを考え込んでいた。時計の針はチクタクと律儀に時を刻み続けている。時刻は今午後二時を回ったところだ。

「それで」と五分ほど経ったあとで僕は言った。「君はこれからどうするつもりなんだ?」

「そこが問題なんだ」と彼は言った。「あれは非常に大事な何かだった。単なる夢なんかじゃないんだ。ある意味では真実の情景だったわけだ。だとすると、俺は根本的に何かを入れ替えなければならない、ということになる」

「何か?」と僕は言った。

「つまり人生のプライオリティーのようなものだ。俺はそこに別の何かを置き替えなければならない」

「それは何だと思う?」

「それはつまり愛だ」と彼は言った。そしてその日の会話はそこで終わりを告げた。

死んだアルバトロス、および月の上に住む女 (2 )』に続く

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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