プロローグ
2018年10月19日、金曜日。自宅にて。
秋になるといつも死のことを考える。それはおそらくあの乾燥した風の中に、冷やりとする冬の気配が潜んでいるからだろう。うだるような暑さが終わり、湿気を含んだ重い空気の層を割って、どこからかその風は忍び込んでくる。それは大体九月の下旬くらいにやってくる。そして僕は思うのだ。今年も夏が死んだのだと。
もっともいつまでもその感覚が残っているわけではない。最初の風が吹いてからおおよそ一週間でその感覚は消え去る(あるいはより恒常的なものとして身体の奥に沈滞する)。いずれにせよ、一度そうなるともうそれを意識的に思い返すことはあまりない。おそらく「季節が変化する」という過程そのものの中に、その特殊な要素が含まれているからだろう。だから一度秋に慣れてしまえば、夏が消え去ったことの記憶は――死の感覚とともに――どこか遠くの引き出しにしまい込まれてしまうことになる。
実際のところ「冬」ということでいえば、この今暮らしている東京都郊外の街よりも、僕の実家のある東北地方の方がずっと厳しい。クリスマスと正月という二大祝日が控えているとはいえ、それを除けば冬にあまり心楽しいことはないのかもしれない。しかしあのきりっと澄んだ空気には何かがあった。何かとても透明なものだ。もしこの矛盾に満ちた人生において、何か真に純粋なものと相対する機会があるとすれば、それは田舎の冬景色にほかならないのではないか、とさえ思えてくる。まだ誰も踏んでいない白い雪原。ところどころキツネの小さな足跡が見える。遠くから灰色の大きな雲がやってくる。風はとても冷たい。音はない。本当はあるのかもしれないけれど、少なくとも僕にとってはない。あたりは完全に静まり返っている。そういう景色だ。
もっとも僕はもう二年半もあそこに帰っていない。いつか帰ることになるのかどうかも分からない。だからこれはただのノスタルジックな思い出に過ぎないのかもしれない。おそらく誰もが心の奥に持っているような。
そう、死のことだ。少なくとも今は秋で、冬はまだやってきていない。やってきていないことについてあれこれ考えるのは人間の業だ。犬は――まあ猫だっていいわけだが――そんなもののことは考えていないだろう。とりあえず今ここに意識を引き戻さなければならない。
この間マック・ミラー(Mac Miller)が死んだ。まだ26歳だった。彼のことを知っている日本人はたぶんあまりいないのではないか、と想像するけれど、どうやらアメリカではかなり人気のラップシンガーだったらしい。僕は個人的にはラップやヒップホップはあまり聴いてこなかった人間だけれど、You tubeのTiny Desk Concertで彼のライブを観て、結構面白そうじゃん、と思った(ちなみにTiny Desk ConcertというのはアメリカのNPRというラジオ局が制作している動画で、結構名の通ったミュージシャンも出演したりする)。動きも歌い方も独特で、もちろん音楽も特徴的だった。基本的にはラップなのだが、その裏で演奏されるベースが格好良い。別の曲のミュージックビデオも多数アップされていた。
しかしその動画を見た数日後に同じものを観てみると、コメントの欄に”R.I.P, Mac” というようなことが書かれていた。R.I.P.というのはRest in Peace(安らかに眠れ)ということで、誰かが死んだときの決まり文句のようになっている。最初は冗談かな、とも思ったのだが、ネットで調べてみると、(おそらく)薬物のオーバードーズによりロサンゼルスで死去、とあった。彼は1992年の1月生まれだから、学年としては(なぜかいまだに学年単位で考えてしまう)同い年ということになる。僕の方が三カ月ほど早く生まれたわけだが、そんなことは今となってはあまり大した違いではない。
いずれにせよ彼がこんな風に死んで僕はかなり大きなショックを受けた。その存在を知ってまだ二、三日しか経っていなかったにもかかわらず、だ。その唐突さには何か心を揺さぶるものがあった。今回の場合のように原因が(おそらく)本人自身にある、というのはいささか特殊なケースかもしれないけれど、志半ばの26歳の人間が突然亡くなるというのは、そう簡単に受け入れられることではない。我々の生活は、基本的には「これからもずっと生き続ける」という前提の下に成り立っている。それにもちろんいつもいつも死のことを考えてばかりいたら何一つまともなことなんかできなくなってしまう。しかし、にもかかわらず、忘れた頃になってそれは突然姿を現すのである。まるで我々の意識の裏をかくかのように。
僕はあのときその肌触りをたしかにこの身に感じた。Macが死んだのはほとんど地球の裏側だったのだけれど、そんなこととは一切関係なく。そこにはきっと音楽を通した共感というものが関わっているのだと思う。彼は26歳で、本来ならこれからもっと多くの良い音楽を生み出していけるはずだった。でもその流れは完全に止まってしまった。我々はただ残された音楽から、彼の感じていた孤独や、喜びや、哀しみなんかについて想像するほかない。そして決定的な事実。これから僕は歳を取っていくが、彼は永遠に若いままだ。
にもかかわらず、今ではもうその感覚を忘れかけている。彼がいなくなってしまった、という秩序に、徐々に意識が慣れ始めているのだ。もっともそれも必ずしも悪いことではあるまい、とも思う。生きている人間は、なにしろ生き続けることを考えなければならないのだから。しかし死がある種の本質を照らし出す、ということも往々にしてあり得る。真実の裏には大体いつも死が潜んでいるものだから。僕らは自前の死を後ろのポケットにでも忍ばせておくべきなのかもしれない。
と、いうことで、最近ずいぶんMac Millerの音楽を聴いていた。といっても全部You tubeで観ただけなのだけれど。”Nikes On My Feet” とか”Cruisin'” とか格好良かった。”Self Care” もいいな。もしよかったら観てみてください。
ここまでは一種の近況報告。というかただ単に気持ちを整理するためだけに書いた。もっともいつもいつもこんなことを考えているわけでもない。アルバイトをして、走って、飯を食って、あとは小説を書いている。いつもほとんど同じことをしている。
いずれにせよ秋が来て、僕はなかなか悪くない気分に浸っている。秋は自分の季節だ、という感じがなぜかする。あるいはそれは自分が十月生まれだからなのだろうか(今年で27になる。ああ・・・)。ほかの人たちは、同じように自分が生まれた季節を自分のものだ、と感じるのだろうか? まあそんなのはその人次第だろう。当然のことだ。
なんにせよ、僕はとりあえず日々少しずつ進み続けている。あるいはそう思いたいだけかもしれないけれど、たぶん進んでいるのだと思う。ときどきあまりに遅すぎて後退しているような気分になる。でもとりあえず目の前のやるべきことをこなしていく。なにしろそれしかすることがないのだから。考えてみればこれはすごく地味な生活だ。かつて想像していたものとはかけ離れている。しかしそういうコツコツした努力の先にしか見えないものもあるのだろう、と固く信じている。だからこそこうして延々と生き続けてこられたのだ。そういう点についてはあるいは少しくらいは成長したのかな、と思うこともある。今まで僕はおそらくそういう地味な物事から逃げまくっていたのだろう。そして一瞬にして手にできる真理のようなものを求めていたのだと思う。もちろんそんなものがこの世に存在するとしての話だが。
もっともいまだに一気に状況が好転するのでは、と期待していることも事実だ。しかしもしそんなことが起きたとして、きっとただの外面的なことに過ぎないだろう、ということも知っている(たとえば新人賞を受賞すれば経済的には少しは楽になるけれど、それで突然文章力が増すわけではない)。良くも悪くも、あくまで僕は僕のままだろう。なんにせよ、今は自分を信じて前に進んでいくしかない。うまく展望が開けなかったとしても、だ。
そしてLive Magic(ライブマジック)だ。そもそもこれが本題だったのに、ずいぶん回り道をしてしまった。作家志望の業というべきか。余計なことを書き過ぎてしまう。ライブマジックとはピーター・バラカン氏が監修する音楽フェスティバルで、年に一回この時期に開催される。今年で5回目になる、ということだ。場所は恵比寿ガーデンプレイス。僕は今回珍しくアルバイトの休みをもらって、この二日間(10月20日と21日)のライブに参加することにした。本当は執筆に集中するべきだとは思うし、チケットだって決して安くはなかったのだけれど、どうもこれを逃したら1年間ほとんどどこにも出かけないんじゃないか、という気がして、重い腰を上げることにしたのだ。それにここ最近、僕のほとんど唯一の楽しみは、ピーターさんのラジオ番組を録音し、それを聴きながら川沿いを走ることであった。生ピーターさんに会えるということも、もちろん今回のライブの楽しみの一つだ。
出演者はさまざまである。外国と日本から、それぞれピーターさんが良いと思うミュージシャンが集められている。一応メインとなるのはJon Cleary(ジョン・クリアリー)だろう。この人はソロとトリオで二日間出演する。もちろん僕はピーターさんのラジオを聴くまではこの人の存在すら知らなかった。ニューオーリンズを拠点に活動するイギリス出身のミュージシャン、ということだった。渋い声で、シンプルなリズムに乗って、グルーヴィなサウンドを生み出す(でも言葉だけで表現するのはやはり難しい)。それ以外にももちろんたくさんの出演者がいる。たとえばンビラ(親指ピアノ)奏者のGarikayi Tirikoti(ガリカイ・ティリコティ)。彼はジンバブエ出身。ピーターさんの番組に出たときの独特な英語が印象に残っている。素朴な(と言ったら失礼になるだろうか?)人柄がよく現れていた。そして実のところ一番気になっているのが、アメリカ人の天才ギタリスト、Brandon “Taz” Niederauer(ブランドン・タズ・ニードラウアー)だ。彼は若干15歳である。歌も歌う。今回はZydefunk(ザイドファンク)というバンドにゲストとして参加する。少し前の音源を聴いたときにはまだ声が高かったのだけれど、そろそろ声変わりしちゃうんじゃないだろうか、と勝手な心配をしている。いずれにせよ、もしかしたら後年このライブで観られたことを誰かに自慢できるかもしれない。
中村まりの歌も魅力的だ。ラジオで聴いたボブディランの”Blowin’ in the wind” は衝撃的だった。どう考えても日本人が歌っているとは思えない。発音もそうなのだけれど、曲に込められたある種の心持が、彼女にしかできないやり方で再現されている。今回は一体何の曲をやるのだろうか。
ということで明日出発します。そもそも帰ってきたあとで感想を書くつもりだったのだけれど、気がはやって前日にこんな文章を書いてしまった。でもまあそれも悪くはあるまい、と思う。これだって一種の文体のトレーニングなのだから。
僕も同学年です。
mac millerのself careを聴いてます。
きっと救われない人なのかもしれません。
僕は怖いと思ってしまいました。
コメント失礼します。
Self Careのミュージックビデオはちょっと暗示的ですね。まさかあのときすでに死を予感していたわけではないだろうとは思うのですが…
彼はある種のエッジで生きていた人だと思います。そこから落ちる原因となったのが自らの薬物中毒であるというのは、まさに悲劇です。