天気の良い土曜日の午後二時、部屋で気持ち良くうたた寝をしていると、突然ドアベルが鳴った。僕はまだ半分夢の世界にいながら、その音を聞いていた。それは最初遠い汽笛のように聞こえたが、やがて耳障りな女の叫び声になり、最後にはまるで雷鳴のような轟音になった。それは穏やかに眠っていた僕の意識をずたずたに引き裂き、そのまま世界の割れ目の奥へと消えていった。あとには無残な残骸だけが残った。
その無残な残骸となった僕は、ぶつぶつ文句を言いながらドアを開けた。どうせセールスか、でなければ宗教の勧誘だろう。でもそこにいたのは予想外にも死だった。あまりにも驚いたので、僕はしばらく口を利くこともできなかった。この前死に会ったのはいつだったっけ? でもどれだけ考えてもそれがいつのことだったのか思い出すことはできなかった。あるいは――とこれはあとになってから思ったのだが――僕はそう思い込んでいただけで、実はそのときまで一度も死に会ったことはなかったのかもしれない。
死は礼儀正しく一礼すると、「失礼します」と言って僕の部屋に入って来た。僕は身を脇によけ、彼が部屋の奥に一人で歩いていく様子を見守っていた。おそらく死の入室を拒否することは、(少なくともこの世では)誰にも許されていないのだろう、と思いながら。僕はドアを半分開けっぱなしにしながら、なお言葉を失っていたのだが、やがてふと我に返り、慌ててドアを閉めた。こんな風に茫然としていたのでは、いくらなんでも死に失礼だろう。
死はすでに僕の部屋にある唯一の椅子に座っていた。僕は彼に向かって訊いた。
「コーヒーがいいですか? それともお茶?」
彼は少し考えていたあとで言った。「豆はどこです?」
「豆?」と僕は驚いて言った。「豆は冷凍庫にあります」
「いや、そうじゃなくて」と死は言った。「どこ産の豆です?」
そうか、と思って僕は急いで冷凍庫を開け、その産地を確かめた。今ある豆はコロンビア産だ。
「コロンビアです」と僕は言った。
それを聞いて、死はじっと何かを考え込んでいた。目の前で死がそのように考え込んでいると、なんとなく落ち着かない気持ちになる。というのも次に彼が何を言い出すのか、まったく見当がつかなかったからだ。
やがて彼は言った。
「うん、まあ、それならお茶の方がいいですね。申し訳ありませんが」
僕は全然申し訳なくなんかない、と言ってお茶の用意をした。急須にお茶の葉を入れ、ポットからお湯を入れる。葉が開くのをじっと待ちながら、僕はこう思っていた。一体どこの豆だったらよかったんだろうな、と。でもそんな考えも彼の言葉によってすぐに中断された。
「洋書をお読みになるんですね」と彼は言っていた。
見ると彼は僕の本棚に並んだいくつかの本の背表紙を眺めていた。
「ええ、まあ」と僕は言った。「といってもすらすら読める、というわけではありませんが」
でも彼はそれには何も答えず、ただじっとその背表紙だけを見つめていた。
やがて僕らは一緒にお茶を飲んだ。お茶菓子がないのは残念だったが、まあないものは仕方ない。死だってそれくらいのことは分かってくれているはずだ。
僕は座る椅子がなかったので、隣にあるベッドの上に腰掛けていた。そしてマグカップで緑茶を飲みながら、すぐそこにいる死の顔を眺めていた。僕はたしかにいつか彼を見たような気がする。でもそれがいつだったのか、どこだったのかも思い出せない。あるいはそれは生まれる以前のことだったのだろうか?
やがて彼はカップを置き、口を開いた。「美味しいお茶でした。どうもありがとう」
いえいえ、それほどでも、と僕は言った。
「まあそれはともかく」と彼は言った。「そろそろ私がやって来た本題を話さなければなりません。それが私の仕事なのですから」
僕はごくりと唾を呑み込んだ。ついにそのときが来たのだろうか、と思いながら。
「実は」と彼は僕の方を見ずに、ただ目の前のテーブルに向かって言った。「一つお願いがあってやって来たのです」
「お願い?」と僕は言った。
「ええ」と彼は言った。「お願いです。実は私は、もうかつてのように強くはないのです。かつて私はこの世で強大な力を誇っていました。それがどんどん弱くなり、今ではその辺にいる毛虫を殺すこともできません」
僕はただ黙ってそれを聞いていた。彼は続けた。
「それで、私が弱ると、相対的に世界のバランスが崩れることになります。そのせいで今このようにひどい事態が持ち上がっているのです」
彼はそう言うと、一度ぐるりと僕の狭い部屋を見回した。まるでこんなにひどい光景はこれまで見たことがない、とでもいうように。僕はキョロキョロとあたりを見回したが、一体この部屋のどこがいけないのかよく分からなかった。こんなのはどこにでもある単身者用のワンルームのマンションじゃないか。
「それで私のお願いとは」と彼は僕のことには一切構わずに先を続けた。「ある男を殺してほしい、ということなのです」
「殺す?」と僕はまた驚いて言った。「それはどういうことです?」
「つまりですね」と彼は辛抱強く説明してくれた。「私が元気であれば、今日死ぬことになっていた男です。現在四十八歳で、四六時中酔っぱらっています。今この瞬間だって酔っぱらっています。私にはそれが分かるのです。彼ははっきり言って、この世の害のような男です。早く死んだ方が本人のためにもなるような男なのです。でも今日死ぬことになっている、というのはそれとは何の関係もありません。ただ運命がそう定めていた、というだけで」
僕はただ続きを待っていた。彼はそんな僕の目を見て一度だけ頷き、先を話し始めた。
「彼は今日心臓発作で亡くなるはすでした。今朝の九時頃にはすでに死んでいるはずだったのです。でもそうはなっていない。それもこれも、全部私が弱ってしまったからです。あなた。彼は今日あるスーパーに行きます。そこにはトイレがあるのですが、それが一階と二階の間にあるのです。彼はそこで用を足し、ふらふらと出てきます。そしてゆっくりと階段を下りようとします。あなたはその瞬間を捉えて、ちょっと彼の背中を押しさえすればいい。そうすれば彼は転げ落ち、頭を打って、無事息絶えることでしょう」
でも僕は実のところ、それを聞きながらこう思っていた。そこまで分かっているのなら、どうして自分の手でそれをやらないのだろう、と。
「いいですか」と彼は僕の心を読んだかのように言った。「私は今本当に虫の息なのです。今平然として見えるのは、ただそういう振りをしている、というだけなのです。あなた。これはとても重要なことです。なによりも重要なことです。あなたは今日の午後四時半にその階段にいてください。そして機会を捉えるんです。怯えてはいけません。『これは殺人ではないのか』とか、そういうことを考えてもいけません。ただ機会を捉えるんです。いいですか。それこそが最も重要なことです。それにですよ、その男はこれ以上生きていても仕方がないような人間なのです」
彼はそこまで言うと、すっと立ち上がった。さっきは気付かなかったが、こうして見ると死は結構背が高かった。彼はお茶をありがとう、と言って、そのまま部屋を出ようとした。僕は慌ててそのあとを追った。でも彼は最後にふと思いついた、という風に後ろを振り返って言った。
「そういえばガルシア=マルケスはコロンビアの作家でしたね」
その通りだ、と僕は言った。そして彼を見送った。
その日の午後四時二十分に、僕は例のスーパーに行った。そこはちょっと特殊な形をしたスーパーで、売り場が一階と二階に分かれていた。おそらく駅の近くで、十分な土地が確保できなかったのだろう。僕はそのトイレに行って用を足した。あと数分もすればその例の酔っぱらいが姿を見せるはずだ。僕は本当に死の指示をやり遂げられるのだろうか?
トイレから出て、その階段を見下ろした。それは高いといえば高かったが、といっても人が死ぬほど高いともいえないような気がした。酔っぱらっていて、打ちどころが悪ければ死ぬ可能性だってあるだろう。でも本当にそんなにうまくいくのだろうか?
僕は携帯電話を出して時刻を確認した。今は午後四時二十七分だ。彼の話によればそろそろその酔っぱらいがトイレに入っていなければならない、ということになる。でもそんな気配はなかった。さっき僕が用を足していたときは、中にはたしかに誰もいなかった。僕はそのままそれらしき人が上ってこないか見張っていた。てっきりその人物は一階から上がってくるものとばかり思い込んでいたのだ。
しかし彼はどうやら二階から下りてきたようだった。おっと、という声がしたかと思うと、次の瞬間にはもう、僕はまっさかさまに下に落ちていた。ちょうど彼の肩が僕の背中にぶつかったらしかった。僕は、人間はこんなに派手に転がれるのか、というくらい勢いよく落ちていった。下の通路を通りかかった人が驚いてこちらを見ているのが分かった。僕は激しく回転している最中にそれを見たのだったが、なぜかすごくはっきりとそれらの顔を視認できたのだった。そのとき階段の上の方に例の酔っぱらいの姿も見た。彼は僕のことになんか構わずに、便所に行く途中だった。その汚らしい背中が、やがてドアの奥に消えていった。それと同時に僕の意識もまた、闇の中に消えた。
ふと目を覚ますと、誰かが顔をぴしゃぴしゃ叩いているのが分かった。それは顔のない女だった。若いのかも年を取っているのかも分からない。彼女は僕が目を覚ましたのを見ると、すかさず眼球の下にマイナスドライバーのようなものを突っ込んで、てこの原理でそれをえぐり出した。不思議と痛みは感じなかった。次に彼女はその空いた眼下の部分に、何か別の球状のものを入れた。それが何なのか、もちろん僕の反対側の目では見ることができない。しかしとにかくそれは生温かい何かだった。人肌の温もりが直に伝わってくるのが分かった。彼女はそこにとくとくと何かを注いだ。その音と匂いからして、なんとなくウィスキーのような気もしたが、本当のところは分からない。どうして人の目にウィスキーを注いだりしなくちゃならないんだ?
でもそんな疑問もやがてすぐに消えた。というのも反対側の目もまた、同じようにえぐり出されたからだ。あとにはまた例の球状のものがやってきて空洞を埋めた。そして彼女はまたとくとくとその液体を注いだ。
僕の目には今は暗闇しか見えなかった。それでも特に不安だった、というわけではない。なぜならもう見るべきものは見た、という感覚がなぜかあったからだ。僕の鼻はその酒の匂いをくんくんと嗅いでいた。やがて女はこれで終わり、とでもいうように、最後にもう一度強く僕の顔を叩いた。ピシャリ、と。それによってどこかで世界の幕が下ろされ、僕は深い眠りに落ちた。
すぐ隣を誰かが転がり落ちてくる音で目が覚めた。僕は例のスーパーの階段の下にいて、そこに座っていた。僕のすぐ脇にはあの汚らしい酔っぱらいが仰向けに横たわっていた。ズボンのチャックが半分だけ開いている。とっさに携帯電話の時刻表示を見ると、今はちょうど午後四時半だった。あたりにいた人たちが驚いて彼のもとに集まってきたが、その命の炎がすでに消えてしまっていることは明らかだった。僕は立ち上がり、外の空気を吸いにその店を出た。
素晴らしい文体と純文学的内容でした。
少しだけわかりやすいといいなと思いました。
コメント失礼しました。
分かりやすさに関しては…本当にあなたの言う通りかもしれません。これはそのへんがちょっと弱い。
いずれにせよ、現実離れしたときに、それをどのように説得力を持ったものにするか、というのが目下の僕の課題です。
コメントありがとうございます。