さて、このように九月になり、このように僕はまだ生き延びています。それが正しいことなのかどうかは分からないけれど、とにかく生き延びている。それは発展の可能性を自分の中に残しておける、ということでもあります(もちろん堕落の可能性も・・・)。いずれにせよ、肉体をこの世に維持しておかなければ僕らはどこにも進めません。少なくともこの世の人生においては、ということですが・・・。
暑い夏が来て、ようやく去っていこうとしています。その間いろんなことがありましたね・・・。安倍首相が殺害されたり(僕はその日に中古の冷蔵庫を買ったのでした。Rest in peace, Abe…)、エリザベス女王が亡くなったり、ヤクルトの村上がホームランを打ちまくったり(神懸っていますね・・・)、今日はジャン・リュック=ゴダールが亡くなったとニュースで観ました。いろんなことが起こります。そして起こってしまったことは、もう二度と元には戻らない。安倍さんが亡くなった日に、そのことを実感したような気がします。そんなのは当たり前のことなのかもしれないけれど、いざ目の前に、正常な(というか正常だと思い込んでいる)日常生活が揺さぶられるような事件と共に突きつけられると、結構動揺します。あれ? こんなだったっけ? と思います。昨日まであった秩序が、今は無秩序になっている。でもその無秩序も、やがてまた人々の中では新たな秩序に変えられていくわけですが・・・(そのような自己安定化は、おそらくは人間の意識に不可欠の能力である)。
年齢を重ねるごとに、どうも一日一日の意味するところが変わってきているみたいです。少なくとも個人的な実感としてはそうです。「三十歳の若造が何を言っておる。ケッ」とか言われそうだけど・・・(そしてまあ実際にそうなのだろうけれど)、それでもなお、たしかに時間の価値が自分の中で変わりつつあるのです。きっともっと歳を重ねるにつれてこの感覚はさらに変わっていくのだろうな、と思っています。いずれにせよ、何歳になったところで、肉体という容器に注がれた我々精神という「流れ」は、今を生きるしかないみたいです。もしそうだとしたら(僕は98%くらいのところでそうに違いないと信じているのですが)、過ぎ去った時間は、実は何よりも貴重なものだった、ということになりそうです。うん。たとえば八十歳になったときに、「ああ、あのときもっと一生懸命生きていればよかったな」と感じる可能性もある、ということです。「今は関節もギシギシ軋むし、ストレートも時速32キロくらいしか出ない。それも一球投げたら肩がすっ飛んでいってしまうような状況じゃ。本を読もうにも字が小さくて見にくいし・・・」。そうなったらきっと八十歳になった僕は若い頃の自分自身を恨むでしょう。もちろん歳を取ることは避けることができないし、八十歳になったら八十歳の僕にできることを考えるべきなのですが・・・(そういえばNHKのサイトに95歳になってから詩を書き始めた方の記事がありました。ほかにも九十代の女性のスポーツインストラクターの方もいました。そういう記事を読むと・・・すごく勇気づけられますね。ちなみにウィリー・ネルソンは89歳の今も新作のアルバムを出し続けています。だからこれは僕が「こうなりたくない」と思っている一つのイメージだと捉えてもらえるといいと思います)。
とにかく、後々になって後悔しないように、今をきちんと生きたいよね、ということです。まあ当たり前のことなのですが・・・言葉で言うのと、実際に行動に移すのとでは、なかなか重みが違ってくるみたいです。もちろんそのためには訓練が必要になります。絶え間のない努力・・・。
とは言いつつも、やっていることは相変わらず一緒です。バイトに行って(週六・・・)、走り(また増えてきました。一度に走る距離を減らしてはいますが・・・。どうもこの方が精神的に安定するみたいです。走らないと・・・すぐにくよくよし出す。僕はそういう性格にできているみたいです)、野菜を食べ(キャベツにもやし、キュウリにカボチャ・・・)、適度な筋トレをし、そして文章を書きます。八月からつい昨日まで、二つほどまとまった大きなものを書いていました(とはいっても原稿用紙130枚と、230枚。文庫本にしたら・・・めっちゃ薄いと思う)。文学賞に出すためのものですが・・・これだけ落ち続けていると、だんだん悔しいという思いもなくなってきます。もちろん実力不足だということは自分でも承知しているのですが・・・正直なところ審査員との相性もあるし(というか僕の場合ほとんど最終選考までも行かない。ということは・・・文芸誌の社員の人との相性ということか・・・)、まあ運が左右する領域がかなり大きいだろうということです。そのまま作品の価値が賞として現れてくるわけではない、と僕は信じている。
しかしまあ、人間として成長しないことには、文章の説得力も付いてこないだろう、ということは、この数年間ずっと感じていたわけであります(そしてそれは真実だと思う)。だからこそ、時に人生に嫌気が差しながらも、なんとかかろうじて生きてきたのだろうな・・・と思う。実人生で身を動かして生活費を稼ぐ。おかしい人におかしい目に(つまり理不尽な目に)遭わされる。それによって当然傷つく。あるいは思いもよらず人を傷つける。ただ単に退屈だ。ここから逃げ出したい・・・。胃が悪い。腰が痛い。暑過ぎる。誰かがゴミを収集日の数日前に出すせいで、カラスが漁っている。夜中に近くで若者が騒いでいる・・・。
まあとにかく、そういった雑多な――正直あまり意味もないように見える――経験が僕を作ってきたのだと思います。もちろんまだまだ完成形には程遠いのですが(まともな人間になるのも遥か先のような気がする・・・)、少なくとも事実として、これがなかったらどこにも行けなかっただろうな、と思うのです。バイト先で十歳くらい年下の大学生たちとしゃべっていたりすると・・・なんだかんだ言って、僕は彼らよりも十年分経験を積んでいるんだな、とふと感じたりします。だから立派だ、というわけではないにしろ(ただ歳を取ることは誰にでもできます。そこから何かを学び取ることは難しい・・・)。いずれにせよ良くも悪くもこうやって生き延びてくるしかできなかったんだぜ、と僕は自分に言い聞かせています。これが正しかった、というわけじゃなくて、結局はこうなるしなかった、というか・・・。いろんな矛盾はあるにせよ、まあこうして三十を越えた今も生き続けているわけです。だとしたらまあ、過去のことをくよくよ振り返るよりは、先のことを考えようじゃないか、と思っていることは事実です。未来。どうなるのか分からない、未来。
この世にかろうじて安定した足場を築き(つまり精神的に、ですが)、その中で魂を自由にさせること、というのが大まかに言って僕の目標でした。それが「小説」という形式の中で表現できるのならば・・・きっと賞はあとから付いてくるだろう、と(付いてきていませんが、とりあえず今は)。そしてそのような考えは、まあ真っ当だったと今でも思う。この数年間で悟った一番重要な事実は、結局のところ「どこかに行ったところで救われるわけではないのだ」ということだったような気がします。それよりもむしろ、自分自身に集中して、なんとか自らを鍛えていくこと。透明なグルーヴを感じ取ること・・・。そのことの方がずっと重要なのではないか、と。他人に与えられる楽しみには限界があります。簡単に金で買えるものは、簡単に消えていきます。地上のものは有限です。しかし精神の動きに関しては・・・。
音楽を聴いたり、小説を読んだりするときに僕らが感じ取る「喜び」というものは、要するにそういうものなのだと思います。僕らは実は固体ではない。実は動き続ける液体のようなものだ。そういった事実を(僕は事実だと信じているのですが)、良き音楽、良き小説は教えてくれます。ちなみに良き絵画にはいつだって「動き」があると僕は感じています。一瞬の光景を切り取ったものに過ぎないかもしれないけれど、まさにその事実によって、「動き」が封印されているのです。もしそれが精神の深い場所から汲み取られた、芸術作品だったら(つまり「芸術」を模したものでなかったら)、ということですが・・・。
いろんな本を読みたい、特に古いものをきちんと読みたい、という欲求は日増しに高まっていきます。音楽好きな人とか、映画好きな人とか(そのどちらも僕は好きですが)いろいろといますが・・・僕はどうも古典文学により興味を惹かれるみたいです。同じような傾向を持っていたアルゼンチンの詩人に、ボルヘスという人がいます。50歳を過ぎてから病気で盲目になりました。しかしその頃に、たしか国立図書館の館長に任命されたはずです。彼はさまざまな言語に通じ(スペイン語だけでなく、英語やフランス語、ドイツ語など)、実に多種多様な古典文学を読み漁っていました。彼の講演録を読むとすごく楽しいです。そこには「読書」という行為がもたらした幸福が――そう、それは幸福をもたらす行為なのです――彼にいかに作用したのかが、詳しく語られています。彼は自らも詩を書き、小説を書きました。時間に関する奇妙な考えを持っていました。彼の文章を読んでいて思ったのは・・・「人間はみんな一緒だ」ということかもしれません。一緒じゃないんだけど(正確には)、一人で生まれて、一人で死んでいかざるを得ない、という点においては一緒です。そういう状況、という点については。
もちろん生まれたときは母親がいます。父親もいます(いない人もいるかもしれないけれど、とりあえず)。でも僕が言っているのはそういった意味ではなくて、意識のことです。意識の起源について考える人はそんなにいないのではないか、と思います。古代においてはそれは外界の起源とほとんど同じ意味を持っていたのではなかったか、と僕は考えています。今になって、自然科学が発達して、内界と外界は分かれてしまいました。そのせいで僕らは自分たちのことを「知っている」と勘違いしています。身体の構造とか、脳の働きとか、そういったものは客観的に分析できるかもしれない。でも精神については、たとえば僕の世界の(僕の主観的な世界の)起源については、僕が個人的に探るしかありません。おそらくは記憶の海をかき分けて、ですが・・・。
どうしてそんなことをする必要がある? 毎日家族と一緒に楽しくニコニコと過ごせればそれでいいじゃないか? お前のことなんか知ったことか。一人でモロヘイヤでも食ってろ、という人は・・・もちろんそのままでいいのだと思います。肉体的生存。たぶんそれだって大事なことです。でもその目的は・・・僕にはよく分からない。目的を求めるのは精神の役目です。おそらくはそうだと僕は考えています。あるいは精神は「理解すること」を目指して作られたのかもしれない、と最近考え始めています。きっとギリシアの哲学者たちも(プラトンとかアリストテレスとかヘラクレイトスとかその他諸々・・・)何かを理解したい、という熱意に駆られていたのではないでしょうか? 僕らはスマートフォンを持って、パソコンを操っているがゆえに、彼らよりも優れていると思い込んでいる・・・ような気が、僕はしています。でもそれは幻想です。あくまで外界を生き易くなった、というだけのことで、「目的」の問題は、棚に上げられたままです。やり終えていない宿題のようなものです。誰かが代わりにやってくれるわけではない。
そういう観点で言ったときに・・・少なくとも僕にとっては、古典文学を真剣に読むことが、心の支えになるような気がしたのです。二千年以上前に生きていた人にとっても、自分が生まれて、やがて死んでいくことは一種の謎だったのだな、と。そこには哀しみがあり、おそらくは喜びがあります。しかし僕の心を惹くのは、たぶん何かを理解しようと努めた人の「姿勢」のようなものです。その理解には論理的な理解(哲学者たち。あるいは神学者・・・)のほかに、小説的な理解とか、音楽的な理解とか、身体的な理解とか、絵画的な理解とか・・・いろんなものが含まれているように、僕は感じます。この移ろいゆく社会において――そしてやがては死んでいく肉体に閉じ込められて――精神は何を把握することができるのだろう? 我々はどこに、真の喜びを求めたらいいのだろう・・・?
いずれにせよ、自分の、自分に対する偏見をちょっとずつ突き崩していくことにヒントが込められていそうです。自明性。その安定を揺さぶること・・・。破壊と再生・・・。昨日の僕と今日の僕とでは微妙に違っています。そして今日の僕と明日の僕も・・・。きっとそのようにしてちょっとずつちょっとずつ進んでくしかないのでしょうね。そこにどのような意味があるのか、というのが僕のずっと考えていたことですが・・・(「どうせ死ぬんじゃないか」と僕の中の何かが言っている。それはひどく皮肉な部分だ。「みんな自分が生きていることに価値があると思い込んでいる」と。「でもそれは嘘だ。だって社会が何の役に立つ? 地球が何の役に立つ? 宇宙が何の役に立つ?」)。
あるいは「役に立つ」ことをやめるべきなのかもしれない、とか思いつつもあります。自分のために生きることはかなり勇気の要ることですが(基本的に傲慢だと思われる)、そういった姿勢がやはり必要なのかもしれない。精神的な不毛さから(つまりグルグルから)逃れるためには・・・。その際の「自分」は一般的な「自分」とはちょっと違っています。動き続ける自分。自分でも誰なのか分からない自分・・・。
意識の起源にもし神がいるのだとしたら・・・僕らはその声を聞き取るべきなのでしょう。でも不思議に思うのは、こうして文章を長々と(ごく当たり前のように)書いてはいるのだけれど、じゃあ、僕の中の誰がこの言葉を選び出しているのか、というと・・・だんだんわけが分からなくなってくる。僕の「表層意識だ」という気もするし・・・もっと深い別の場所から浮かんできたものを、ただ取り上げているだけだ、という気もする。もちろん僕が日本以外で生まれ育ったら、その言語は別のものだったはずです(たとえばアラビア語とか)。そしたら見える景色も、分化のされ方も違っていたはずです。それが意味するのは・・・何も自明ではない、という事実です。外国語を学ぶ、ということの利点はその辺にあるのだろうな、と僕は感じています。たとえ一時的であるにせよ、自らの慣れ親しんだ世界観から抜け出すこと・・・。そのあとに戻ってきた世界は、ちょっとだけ違っているはずです。あるいは小説を書くことによってやろうとしていることもまた、似たようなことなのかもしれませんが。
P.S. 結局じゃあ神は(そんなものがいるのかどうかは分からないけれど)我々に何を求めているのだろう、とか、僕は真剣に考え込んじゃいます。この世は虚妄だ、とか、あるいは地上の楽しみなんて一時的なものに過ぎないとか、物質的なものよりも精神的なものの方が大事だとか・・・いろんな宗教やなんかで似たようなことが言われています。そしてきっとその通りなのだろうな、と僕も思う(身を持って思い知らされてきた。たぶんこれからもまた・・・)。でもじゃあ、どうしてこの有限の世界に我々の「意識」なるものが産み落とされたのかというと・・・よく分からない。そこには何かの可能性が――そして必然性が――あったのだろう、と推測する方が僕にとってはしっくりきます。そんなのはたまたまだよ。自然現象だよ。我々には意味なんてない。ただ猿から成長してさ、発展してさ、でかい脳を獲得するに至っただけなんだよ。肉体の生存理由? そんなのは種の保存に決まっているじゃないか? 馬鹿だな君も。DNAがだね、本能に従って、自らの子孫を残そうとするのさ。ほかの動物を見てみなよ。みんななんにも考えずに生きているじゃないか? それでいいんだよ。人間もさ、という方は・・・正直正論を述べていると思う。でも、にもかかわらず、意識の起源は謎です。そして魂の不毛さに喘いでいるのは、何も僕一人だけではない、と信じているのですが、どうでしょう? みんな真の問題から目を逸らしているだけなのだ、と僕は感じています。僕がどうにかしてあげよう、とかは思いませんが(それは余計なお節介というものである)、少なくとも幻想を見続けるよりは――そしてその中で貴重な時間を擦り減らすよりは――真実の光景を見て(見ようと努力して)、そこにある「何か」を理解しようと努めることが、心の幸福のためには必要なのではないか、と生意気にも感じております。まあ自分でやらなければ何も始まらないわけですが。とにかく。
さらなる追記:まったく関係ないのですが(そして前にもどこかで書いたような気がするのですが)、僕は野球を観るのが好きです。特に三十歳前後で、アメリカで成功できずにやってきた、外国人助っ人たちを観るのが趣味のようになっています。前評判が高くて、年俸もそれなりにもらっていたりすると(阪神のロハスJr.のように・・・)成績が悪いとかなり叩かれます。でもロハスにしろケラー(阪神のピッチャーです)にしろ、すごくすごく頑張っているのです。この奇妙な異国の地において。ケラーはシーズン始めにめちゃめちゃ打たれて、二軍に落ちたのですが・・・そこからスプリットを覚えて、また復活してきました。ストレートの質も良いです。自信さえ持てれば、なかなか打たれないような気がするのですが・・・(ロハスJr.は八月後半からかなり打ち出した。僕はとても嬉しい)。あとは巨人のウォーカー選手も守備が(ほとんど誰にもきちんと教わらなかったらしい)プロとは思えないくらいなかなか・・・独特なのですが(特にスローイングが)、でも亀井コーチと練習して、かなり上達してきています。最初から上手いよりもこっちの方がファン冥利に尽きるというか(僕は巨人ファンではないが、ウォーカーファンである)、観察し甲斐があるというか・・・。いつだったかの中日戦で、レフトからランナーを刺したときには、感動してしまいました(亀井コーチがたぶん一番喜んでいた)。刺されたのはお隣の市の(岩手県一関市)出身の「マスター」こと阿部選手でした。顔がバーのマスターみたいだからこのあだ名が付いたみたいです。みんな頑張っているんだ。僕も頑張らなきゃ・・・。