僕の隣では怠け者が酒を飲んでいた。怠け者は一日中怠けていて、両親の仕送りで生活をしていた。シャツの襟はだらしなくよじれていて、第一ボタンが第二ボタンの穴に入れられていた。彼はなぜかハイボールしか飲まなかった。
「ったく・・・。もうなにもかも面倒くさいよ」と彼はカウンター越しにバーテンダーの青年に向かってつぶやいた。青年は礼儀正しく頷いた。
僕の反対側の隣では頑張り屋が酒を飲んでいた。頑張り屋は朝から晩まで一日中頑張って仕事をしていた。早いうちに両親を亡くし、長く自力で生きてこなければならなかったのだ。今彼は青い作業着を着て、せわしなくビールを飲んでいた。
「何事も全力投球あるのみです」と彼は言った。バーテンダーの青年は彼にもう一杯ビールを出した。
奥のスツールには保安官が座っていた。保安官は頭の禿げかけた中年の男で、今渋い顔をしてウィスキーを飲んでいた。彼は最近町にやって来た殺し屋のことで頭を悩ませていた。
「どうしても証拠がつかめない・・・」と言って、彼は鼻から煙草の煙を吐いた。バーテンダーの青年は彼の前に灰皿を置いた。
と、そこで店のドアが開き、当の殺し屋が中に入ってきた。意外にも殺し屋は三十歳くらいの、細身でおどおどした一見おとなしそうな男だった。彼は店内を一度きょろきょろと見回し、さんざん悩んだ末結局頑張り屋の隣に座った。
「ウーロン茶をください」と彼は言った。
バーテンダーの青年がウーロン茶を出すと、彼はそれを一気に飲み干した。そしてそのあとひどく充血した目でじっとテーブルを睨んでいたのだが、やがて青年に話し出した。
「僕だってなにも殺し屋になりたかったわけではないのです」と彼は言った。「でもなぜか僕にその役割が割り振られてしまったのです。一体誰がそんなことを決めたのでしょう? だって僕ほど殺し屋に不適任な人間もいないじゃないですか。生まれてから今まで虫を殺したことすらありません。ベジタリアンで、犬を二匹飼っています。毎月歳老いた両親に仕送りをしています。なぜ僕が殺し屋なんです?」
そこで隣にいた頑張り屋が答えた。
「あなた。そこにはきっと何かわけがあるはずなのです」。そして鶏の唐揚げを差し出した。「まあこれでも食べて」
殺し屋は首を振った。「いや、結構ですよ・・・。僕はベジタリアンなんで・・・」
「ああ、これは失礼」と言って、結局頑張り屋は一人で残り全部を平らげた。
そのとき話を聞いていた怠け者が突然声を出した。
「なあ、あんた『殺し屋』っていうくらいなら、これまでに誰かを殺したのかね?」
それを聞くと殺し屋は身震いした。「ええ、一人・・・」
奥のスツールで保安官の目が光った。
「一体誰を殺したんだね」と怠け者が訊いた。
「『酔っ払い』です」と殺し屋は言った。
そこで僕はつい声を出してしまった。「『酔っ払い』って、いつもここで飲んだくれていたあのおやじですか?」
「そうです。その酔っ払いです」
彼は仕事もせず、いつも朝から飲んだくれているおやじだった。よく怠け者とけんかをしたが、二人とも威勢が良いのは口だけで(実際に手を出すのは面倒だったので)、結局だらだらと罵り合いが続き、最終的には意気投合して二人で飲みまくっていた(「すべては政府が悪い」ということになった)。その酔っ払いが今死んでしまったのだ。
「一体どうやって殺したんです?」と僕は訊いた。
「本当を言うと『殺した』、というわけでもないんです」と殺し屋は言った。「今朝この通りを歩いていると、『酔っ払い』がこの店の前に座り込んでいました。手には安酒の瓶が握られています。彼は僕に言いました。『おい、殺し屋! あんた一杯やっていかないかね』。でも僕は下戸ですので、丁重にお断りしました。『いや、申し訳ないけど、僕は酒が飲めないんです』。
『酒が飲めない奴なんているものか』と酔っ払いは言いました。『そんなのはただの言いわけだね』
『本当に飲めないんです。身体が一切受け付けないんですよ』
『いいから、一杯飲んでみなって』と彼は言いました。『何事も訓練だ』
僕は訓練した結果彼のようになってしまうのは嫌だったのですが、まあそれでも何事も挑戦だ、と思って彼の酒を飲んでみることにしました。一口飲むと、口の中に安酒の嫌な味が広がりました。僕はよっぽど吐き出そうかと思ったのですが、酔っ払いが『飲み込め!』と叫んだので、僕はとっさにそれを飲み込んでしまいました。
『どうだ、うまいだろ』と酔っ払いは言いました。
『いや、別においしいというわけでは・・・』と僕は言ったのですが、すかさず彼は僕に二口目を飲むよう言いました。僕はこれも訓練だと思って仕方なく飲み込んだのです」
「それでどうなったんだね」と怠け者が腹を掻きながら訊いた。
「それで」と殺し屋は言った。「僕はその後何口も飲まされて、それでついに酔っぱらってしまって、そして気付いたときには隣で『酔っ払い』が死んでいたのです。これは僕が殺したのかもしれない、ととっさに思い、すぐにその場を逃げ出しました」
「なんであなたが殺したなんて思ったんです?」と頑張り屋は訊いた。「だって勝手に死んだだけかもしれないでしょう?」
「ええ、そうなんですが・・・」と殺し屋は言って顔をしかめた。「実は酔っ払っているときにひどく嫌な夢を見たんです。その夢の中で僕は正真正銘の殺し屋になっています。倫理もなく、道徳もなく、金のために人を殺す人間です。僕はその夢の中でたくさんの人を殺しました。銃や、ナイフを使って。女や子供も殺しました。自分の家族も殺しました。失礼ですが、怠け者さんや頑張り屋さんまで殺しました。あなたも殺しました(と言って彼は僕の方を見た)。最後に私は保安官の喉を掻き切って殺し、そして自分自身のこめかみに銃弾を撃ち込みました。そうです、僕は僕自身をも殺そうとしたのです。しかしこの町のほぼすべての人が死んだにもかかわらず、僕は死ぬことができませんでした。誰かが銃を持つ僕の手を掴み、こめかみから銃口をそむけたのです。目を上げるとそれは、その、今そこにいるバーテンダーさんでした」
そこでみんなは一斉にバーテンダーの青年を見た。でも彼は何も聞いてはいなかったかのように――あるいはそういう振りをしていただけかもしれないが――ただ黙々とグラスを拭いていた。
殺し屋は続けた。「バーテンダーさんは僕から銃を取り上げると、それを遠くに投げ捨てました。僕は全身の力が抜けたようになり、ただ茫然として彼の顔を見つめていました。僕はもう何も考えることができませんでした。だってついさっきまで死のうとしていたのですから。でもやがて彼は僕に近づき、そのほっそりとした手で僕の頬を撫でました。そして次の瞬間、躊躇なく僕に口づけをしたのです。ええ、そうです。口づけをしたのです。それはとても優しい口づけでした。そこには(まあいうまでもないことですが)同性愛的な感情は一切ありませんでした。そのときの彼は、何か別のものに見えました。何か人間を超えたものです。
彼が顔を離したとき、僕はぼろぼろと涙を流していました。ただひたすら涙を流していたんです。自分が殺してしまった人たちのために、そして何よりも自分自身のためにです。僕は自分が、これから彼らの死を背負って生きていかなければならないと感じていました。そうです。彼らすべての死を、です。僕は涙を流しながら悪酔いから目を覚ましました。そしてはっと悟ったのです。やはり『殺し屋』というのは僕に適任の役割だったのだろう、と。なぜなら僕は実際には人を殺さなかったとしても、やはり心の奥深くで数多くの殺人を繰り返していたからです。それは血の呪いとなって僕にのしかかっていました。僕は、そのような心の闇を実際に――つまりこの世で――背負って生きていかなくてはならないと思ったのです」
「それで、目を覚ましたとき隣では酔っ払いが死んでいた」と僕は言った。
「ええ」と殺し屋は言った。「僕が殺した、という証拠はどこにもありません。でもそのときの僕は、自分が彼を殺したとしても何もおかしくはないんだ、と思っていました。そしてそれは真実だと今でも思っています。彼がほかの原因で死に得るのと同じくらい、僕が殺した可能性もあるのだと」
そのとき保安官がゆっくりと立ち上がり、殺し屋の方に近寄った。彼は言った。「さあ、一緒に署まで来てもらおうか」
殺し屋はまるであきらめたように顔色ひとつ変えず、静かに立ち上がった。
そのとき店のドアが開いて、そこから酔っ払いが入ってきた。そうだ。あの死んだはずの「酔っ払い」だ。それを見て殺し屋はさすがに驚いたようだった。「だってあなたは死んでいたでしょう」と彼は言った。
「いや、死んじゃいねえよ」と酔っ払いは酒臭い息を吐きながら言った。「あれはただセーブモードに入っていただけなんだ。全身の機能を一旦停止させるんだよ。そうしないとさすがに肝臓がもたないんでね。おい、兄ちゃん、『二階堂』だ」
バーテンダーの青年は小さく頷き、彼にその大分産の麦焼酎を注いだ。酔っ払いは美味そうにそれを飲むと、あっけに取られている我々に向かって言った。「まあ、何事も訓練ってことだな」
結局その夜保安官は殺し屋を逮捕することができず(夢の中の殺人では誰も捕まえられない)、我々は夜通し酒を飲み続けることになった。怠け者はまた酔っぱらいとけんかをしたが、二人とも手を出すほどの度胸も元気もなかったので、やがて酒を飲んで仲直りをした(結局「すべて政府が悪い」ということになった)。頑張り屋は頑張って飲み過ぎて、今ではカウンターでいびきをかいていた。保安官は一人しかめつらを続けていた。最後に殺し屋は言った。
「僕は巡礼の旅に出ようと思うんです」
「そうですか」と僕は言った。
「まず四国を回って、そのあとサンティアゴ・デ・コンポステーラに行きます。エルサレムとメッカにも行きたいですね」
結局僕らはその夜みんな「酔っ払い」になった。もちろんバーテンダーの青年を除いて、ということだが。