どうもこんにちは。3月も終盤に差し掛かり、外では暖かい風が吹き渡っています。今日は春分の日です。昼と夜がちょうど同じ長さになる日です。こんなめでたい日には上着を脱いで、一丁踊らなければなりません・・・というのは冗談で、とりあえずいつものように小説を書いています。
春の風が吹くと、否応なく最初に東京にやって来たときのことを思い出します。たしか3月の31日くらいに来て――2016年です――引っ越しを終えたのでした。川沿いの桜の木が満開に咲いていたのを覚えています。
僕は正直なところこの季節があまり好きではありませんでした。もともとひねくれている、というのもあるのだけれど、なんかみんなが浮かれている(らしい)様子を見ていると、反対の精神状態になってくるみたいです。花見だとかなんとか言ってるけどな――と僕は思っていました――あなた方の人生はそんなものでいいのか、と。
まあ要するに僕にはほかにやるべきことがあった、ということなのでしょう。自ら卒業→就職、という既定路線を外れて作家を目指している、というわけですから、ほかの人と同じように浮かれ騒いでいるわけにはいきません。もっとも当時はまさかこんなに長くアルバイト生活が続くとは思っていなかったわけですが、まあそれも経験ですね。だんだん慣れてきた自分がいます。
さて、目下僕のアパート――というかマンション、というか、何なのか・・・――は外壁工事中で、仮設の足場が組まれ、その周囲をぐるりと薄い布のようなもので覆われています。作業員のおじさんやお兄さんたちが日中はいつも行き来しています。さあアルバイトが終わって、小説を書くぞ、と思った矢先に、ガンガンガンガン、というハンマーの音が鳴り響くのもしばしばです。でもまあ、これもあと一月の辛抱です。彼らが仕事をやり遂げた暁には、きっとこの建物も綺麗な外観を手に入れるのでしょう。正直僕にはあまり興味はないのですが・・・。
いずれにせよ、春です。春にもかかわらず、コロナウィルスが蔓延し始めています。僕も仕事中はマスクを付けるように、というお達しがあったので、しぶしぶそれに従っています。子どもたちは休校になり、あるいは『コーラン』を読み耽っているのかもしれません(そんなわけないか)。そんな中僕はいつものごとくほぼ毎日走り、多少ながら筋トレもやっています。自分の身体に意識的になる、というのは、これはこれでなかなか楽しいことです。
このウィルス問題が一体どういう形で、いつ終息するのかは分からないのですが(当然ですね)、やはり一種の異常事態だといっていいと思います。ついこの間まではごく普通に暮らしていたのにな・・・。そう思うと、自分たちの生活というのが、いかに微妙な均衡のもとで成り立っていたのかが身に染みます。以前こんな風にいろんなことが通常の枠組みを離れた、というのは東日本大震災のときくらいでしょうか。もっとも僕は当時宮城県(の内陸)にいたので、東京がどうなっていたのかは分からないのですが。しかしまあ、災害であれば、無事な地域と被害の大きかった地域とで、感じ方の差はかなりあるはずです。そして当然のことながら、支援なども行うことができる。しかしウィルスとなると、全世界で似たような状況が生じ、なかなか支援の手を差し伸べることもできません。僕はスポーツ愛好者なので、いろんなイベントが中止、または延期になってしまうこともとても残念ではあるのですが・・・。
まあその中で僕にできるのは自分の文章を書くことくらいです。あるいは社会の役には立たないかもしれないけれど、少なくとも書かずにはいられないのだから仕方がない。たしかにこういうときに小説は何の役に立つのか、と問われたら、僕は言葉に詰まると思います。いやあ、たしかにそうですよね・・・とか言うしかない。しかし昔から人間は文章を書いてきたし、考えてみればその頃から伝染病の蔓延というのはあったわけです。そうなるとこういう状況はさほど異常というわけでもないのかもしれない・・・。
このウィルス騒動が始まったあたりに、なんかカミュの『ペスト』みたいだな、と思ったことを覚えています。どうやら似たようなことを考えている人が結構多くいるらしく、新潮社はその本を増刷したらしいです。細かい内容を全然覚えていないのが残念ですが・・・。
僕はおそらく、基本的には平時の人間の心境のようなものを書きたいと思っている・・・気がするのですが、たしかにこういう(いわば)異常事態においては、普段は現れない人間の心理のようなものがあらためて浮き彫りになる、ということは往々にしてあり得ると思います。そこをどう捉えるのか、というところが作家の腕の見せ所になるわけですが・・・残念ながら僕にはまだそこまでの腕はありません。もっともぶれない視点を持つことが大事だろう、という気はしています。平時にせよ、異常時にせよ、一体何にプライオリティー(最優先権)を置いて生きていくのか。本質的には外部の状況はあまり変わらないのかもしれません。自らの内側を見つめようと試みる人間にとっては。
最近はほんの少しだけ自分に自信が持てるようになってきました。歳を重ねた、ということもあると思うのだけれど、それだけでなく、今まで頭で考えていたことに実質的な重みが付与された、ということが大きいと思います。まったく特殊な経験をしたわけではないのですが、その中でいろんな人のことを観察することによって、かえって一つの道筋が示されてきた、という気がしているのです。僕は正直、一種の批判精神を持ってまわりを眺めていました。俺は絶対にこういう人間にはならないぞ、と思いながら生きてきました(ものすごく生意気ですね)。そこには単なる若気の至り、という部分もあるし、一方で結構正当な感覚だったんじゃないか、と思える部分もあります。というのも人々は――少なくとも僕が観察した人々は――あまり意識的に生きているようには見えなかったからです。にもかかわらず、誰一人としてまともではない。つまり異常なのです。その自分の異常性を、どう生きるのか、ということが問題になってきます。
抽象的な話はこれくらいにして、具体的なことです。結局僕は文章を書いていくしかないのだろう、という気はしています。まあもしかしてどこかで気が変わるかもしれませんが、とりあえず今のところは。というのも文章というのは、僕にとって自分の異常性を表現する有効な手段だからです。シンプルでありながら、うまくできれば、共感を生む可能性を持っています。僕はできることなら自分の枠組みを広げていきたいのです。そこには大きな可能性があります。自分が明日何を生み出すのか分からない、というのは、考えようによってはとてもわくわくする状況なのではないかと思います。なにしろみんながみんなそうやって生きられるわけではないのですから。
そう、僕が気付いたのは(今さらですが)、結局は今の自分と未来の自分との間に断絶はない、ということなのです。もっと詳しくいうと、僕は文学賞を取って、金持ちになったら(なれないかもしれませんが、とりあえず)、アルバイトを辞めて、今とは正反対の生活を送れるんだ、と信じていた節があります。意識的にそうは思わないように努めていたのですが(そうしないと生きていられない)、それでもやはりしがみつくようにそう考えていたのだと思います。しかし最近身に染みて理解してきたのは、そんなのは外部の出来事に過ぎない、ということです。あくまで自分自身の内部のライン、ということでいえば、僕はずっと一貫して僕だったわけです。もちろん変わったところはたくさんあります。好みも変われば、何に優先権を置くのか、という順位も変わってきます。しゃべる言葉だってずいぶん違っているはずです。しかしにもかかわらず、生まれてからずっと僕は僕だったのです。そしてそれはこれからもずっと変わらないでしょう。なんというのかな、そんなのは当たり前のことなのに、つい最近まで気付かなかったのです。まったく。要するに自分が伸ばし、きちんと生きるべき領域は、同じ場所に埋もれているのだ、ということなのでしょう。ということは僕は、遥か先の未来に思いを馳せるのではなく、今ここをきちんと生きなければならない、ということになります。なぜならほかの人間になることはできないし、もしできた――と思った――としても、それは本来間違ったことだからです。あきらめてそこにあるものを受け入れるしかない。そしてそれを意識的に生きるしかないわけです。
意識、ということを考えるとなかなか不思議な気持ちになります。自分が「自分」だと思っている領域は、一体どこまでの部分なのか。たとえばあなたは意図的に心臓を動かしたり止めたりすることはできないはずです。ウィルスがやって来たときに抵抗するのは白血球です(たしか)。でもそれだってあなたが意図的に指令を出しているわけではない。夢のコントロールは誰か別の人間が握っています(誰なんだろう?)。意図しない癖や、とっさの反射的行動、あるいは呼吸。その全部が無意識的な行いです。だとしたらあなたとは誰なんだろう? あなたがあなたである意味とは一体どこにあるんだろう?
まあそんな面倒くさいことをいちいち考えている暇のある人もいないとは思いますが(ここに一名いますが)、それでもまったく意味のない思考というわけでもなかろう、と僕は思っています。というのも人間にとって――少なくとも僕の考える人間にとって――自由に使える部分というのは非常に重要だからです。まあ考えてみれば当たり前の話ですが、自由があって、初めてそこに善悪の判断が関わってきます。動物は神を持ちません。それはおそらく、そこまでの精神的自由が与えられていないからでしょう。彼らは良くも悪くも本能の世界に生きています。僕らはそこに憧憬の目を向ける(ときどき、ですが)。しかしそこに戻ることはもはやできないのです。なぜなら私たちは否応なく物事に判断を下さなくてはならないからです。
『時計仕掛けのオレンジ』という映画の中で、主人公は善悪の判断ができなくなります。というのも悪いこと――一般的に「悪い」とされていること――をしようとすると、自動的に苦痛を感じるようにインプットされたからです。そこには倫理的葛藤というものはありません。ただ単純に、痛みを避けるためにその行動を取ったに過ぎない。
文学がやろうとしてきたのは、そういう人間の葛藤を可能な限り克明に描く、ということなのではないか、と思うことがあります。もちろんそれだけではない。ほかにもきっといろんな役割があります。でも基本的には、与えられた自由をどのように使うのか、というところにフォーカスが与えられているような気がするのです。僕らが感じるのは、ああみんな一緒なんだ、という安心感。あるいは自分はこんな行動は取らない、という反発・・・。まあ一概にはいえないですね。でもまあ、そこには明らかに感情を喚起するものがあるわけです。そういう経験そのものが結構大事なんじゃないか、と僕は思い始めてきました。なぜなら正しい道なんかどこにも存在しないからです。もちろんずっと頭では分かっていたことだったのですが、今になってやはり同じことを強く思います。正しい道なんかどこにも存在しないのです。
僕が考える良い小説というのはドグマの反対側に位置するものです。カフカの言う「凍った海を割る」小説です。もっとも世の中では「凍った海をより凍らせる」本がベストセラーになったりもするのですが(その気持ちは分からなくもない)。いずれにせよ僕には匂いで分かるのですが(どんな匂いか、と訊かれても困る・・・)そういう本は長い目で見れば消えていきます。というのも一つの意見だけを信奉するには、世界は複雑過ぎるからです。いろんな意見や、考え方や、哲学が組み合わさって世の中はできています。何を重視するのかによって、取るべき行動もまったく変わってきます。サッカーの試合と一緒です。パスするべき場面もあれば、ドリブルするべき場面もある。多少強引なプレーが局面を打開することもある・・・。でも結局は要するにゴールを取れればいいんだろう、という話になります。その過程がなんであれ。いずれにせよ、そこまでの道筋は無数にあります。なぜならディフェンダーは常に動いているからです。
ちょっと話が横道に逸れました。小説に話を戻すと、問題はそこに明確なゴールがない、ということなのです。得点もなければ失点もない。ファウルもないし、レッドカードもない(熱狂的なサポーター、というのはうまくすれば作れるかもしれませんが・・・)。文章というフィールドの中で、僕が目指しているのは流れを掴むことです。もちろんこれから成長していけば、もっともっといろんなことができるのだろう、と思います。しかし基本的には似たようなことを目指すのだと思う。僕は僕であります。そのことを意図的に感じ始めたのは最近のことではあるのだけれど、結局はずっと昔から僕は僕だったわけです。それはある意味では病んでいるのと同じことです。なぜなら誰とも同じ道を取ることができないわけだから。僕にできるのは自分に使える意識領域(そして肉体の領域)をフルに使って、なんとか進むべき方向に進んでいくだけです。どこに進んでいくのかは、本能的に察知するしかありません。しかしまったく道標がない、というわけでもない。というのもずっと観察してきた外部の世界が、明らかに僕にそれを示してくれているからです。僕が行かなければならないのは、人々が最も避けているところです。正直なところこの目でそういった生き方をしている人を一度も見たことがない。だからこそ好きな作家や音楽家の作品に触れることが大事なのでしょう。この人たちもきっと似たように感じていたんだな、と実感することができるからです。
もう一度いいますが、僕らは例外なく異常です。この異常事態にあって、さらに異常な精神を持っているわけです。その異常性を生かすか殺すかは、あなた次第です。僕はできることなら「生かす」方向に進んでいきたいのですが、これから先どうなるのかはちょっと分かりません。アル中になってその辺で寝転がっているかもしれないし・・・。
まあ先のことはいいとして、使える部分を可能な限り有効に使っていくことがなによりも大事になってきます。僕は何一つ結果を出していない作家志望ではあるのだけれど、そういう姿勢を持つことだけはできると信じています。そしてそれは、そう心がけさえすれば、今すぐにも始められることなのです。
2020がどんな年になるのかは分かりませんが――前途多難ですね・・・――少なくとも僕は頑張って成長していきたいと思います。ときどき状況にうんざりもしますが、そんなときは腕立て伏せをして自分を奮い立たせます。今日のこの生活はきちんと未来につながっているのだ、というのが僕の感じたことです。そしてそう思うと、それなりに良い気分になることができます。なぜなら目を向けるべき対象が他人ではなく自分自身である、ということに、あらためて気付かされるからです。
以上。お体に気を付けて。
P.S.いつも録画していたドイツのサッカーが軒並み延期になったせいで、最近はずっと前に観たアメフトの試合を(音を消して)観返しています。なんにせよ49ersのオフェンスラインは有能ですね。RB(ランニングバック)たちがすいすいと走り抜けていく・・・。ディフェンスも素晴らしい。あらためてそれを破ったチーフスのマホームズはすごいですね。
さらなる追記(2020年3月22日、日曜日)
上記のアメフトは、2020年1月20日、月曜日放送(NHKBS1)のパッカーズ vs 49ersの試合だったのですが、ハーフタイムのBSニュースで、コロナウィルスについて放送していました。その頃はまだ死者三人だけだったらしい(それでも痛々しいですが)。感染者も中国国内に留まっていました(主に武漢)。まさか二カ月後にこんなことになるとは、アナウンサーも視聴者もほとんど分からなかったはずです。そう思うとなんだか怖いですね・・・。あと二カ月後には状況はどうなっているのだろう? 誰か教えてくれませんか・・・。
コメント失礼します。
読んでいて意識的に生きていない人というのが印象に残りました。
私は趣味で座禅会にいくのですが、座禅をしても効果がない人がいて、彼らは意識的には生きていないが、ある意味では安心して生活できるので、座禅もまた彼らには必要ないのかなと、カミュの不条理のようなことを考えたことがあります。
また悟りを開いたお釈迦様やこれまでに悟りという状態を味わった人というのはどこか認識が変わりやすく、普通の人より意識的で思考的に生きていたのかなと思います。
僕は座禅に関しては門外漢ですが、「意識的になる」というのはつまり自分の不分明なところに目を凝らす、ということだと考えています。僕の場合その具体的な方法が文章を書く、ということなのです。もちろん人によってやり方は違っていますし、瞑想や座禅が自分に合っている、という方もいるでしょう。僕はなぜかアクティブなものに心を惹かれるのですが・・・これは年齢のせいなのかもしれませんね。