さて、五月になり暖かい日が続いていますが(少なくとも東京都郊外では、ですが)、みなさまはいかがお過ごしでしょうか? 世間ではコロナウィルスの話題で持ちきりです。世界もコロナウィルスの話題で持ちきりです。数カ月前まではまさかこんなことになるとは誰も予想していなかったでしょう(なにしろオリンピックイヤーだったのですから)。
さて、とはいいつつも、僕はこれまでとさほど変わらない生活をしています。幸いまだアルバイトは今まで通り仕事ができているので(もっともマスクとアルコール消毒は必須ですが)、収入という面でも――良くも悪くも――今のところはほとんど変化はありません。もっともそれだっていつまで続くか分からないのですが。
それはそれとして――と、簡単に言い切ってしまえない人が多くいることも分かってはいるのですが、とりあえず――この間ビル・ウィザーズ(Bill Withers)が亡くなりました。81歳だったそうです(コロナではなく、心臓疾患のため)。1938年7月4日、ウェストバージニア州スラブフォーク(Slab Fork)の生まれ。炭鉱業を主産業とする、小さな町だそうです。13歳で父親を亡くし(3歳の頃に両親は離婚していたそうですが)、17歳で海軍に入隊し、結局そこに9年間従軍しました。1965年に除隊すると、67年にはミュージシャンになることを目指してロサンゼルスに移住します。歌うことと作曲には、軍隊にいる頃に興味を持ったそうです。
ロサンゼルスではいくつかの会社で組立工(assembler)として働きます(そのうちの一つが航空機の部品工場だったそうです)。そこでなんとか生計を立てながら、質屋でギターを買い、シフトの合間にレコード契約を夢見ながら曲を作った、ということです(ちなみに昼休みにはランニングをしていたらしい)。結局彼がサセックスレコードと契約して最初のアルバム “Just As I Am” を出したのは、1971年、33歳のときのことでした(そのジャケットにはLunch pale〈弁当箱〉を持った彼の写真が使われています。どうやらデビューした当初は音楽業界は浮気な――つまり安定しない――業界だから、ということで、まだ仕事に就いたままだったらしい)。
彼の曲の特徴はその素朴さにあります。もっとも素朴とはいっても、単にシンプルであるだけではない。シンプルであるにもかかわらず、雄弁に歌い手の心情が伝わってきます。僕はそこまで多く彼の曲を聴いているわけではないのですが、それでも一度聴いたら忘れられないようなメロディーラインが、随所に登場します。歌詞もまた、弱者に寄り添った、一般の人が自然に親しみを持てるものだったようです(僕は正直あんまり歌詞を気にせずに聴いているのですが、それでもやはり良いです)。それはそれとして、なんか “Grandma’s Hands” (「おばあちゃんの手」)とか、”I Can’t Write Left – Handed” (「僕は左手で字が書けない」。これはベトナム戦争で右手を失った兵士の歌)とか、聞いただけでパッと頭に情景が浮かんできますね。シンパシーを感じることができる、というか。
彼の歌声の中には、たとえば技術で他人を凌駕してやろう、というようなつもりは微塵もないように――少なくとも僕には――見受けられます。あくまで自分の歌いたいことを、自分の歌いたいように歌っている。なにも熱唱系の、すごい歌唱力を持った歌手が悪い、ということではありません。あくまでそういう――つまり飾らない――スタイルがビル・ウィザーズには合っていた、ということなのでしょう。そしてそれは間違いなく彼の生き方そのものにも当てはまったはずです。
彼の作った曲の多くが後に数多くのミュージシャンたちにカバーされています。たしかにとても取り上げ甲斐のある曲が多い。たとえば “Lean On Me” なんかは、最近コロナウィルスと闘う人たちの間で、「連帯」を訴えるメッセージソングのようになっています。You Tubeで多くの人たち(そこには一般の人たちも含まれている)がそれぞれのカバーをアップしているみたいです。たしかにそういうポジティブな力を持った曲ではあると思う。
彼自身は1985年に音楽活動からは引退してしまうのですが――すごくもったいないような気もするのですが、そこにはいろいろな事情があったみたいです。たとえば音楽業界への不信感とか――彼が作った曲はさまざまな映画で使われたり、カバーされたり、サンプリングされたりして、いまだにアクチュアルな影響力を持ち続けています。今回の彼の死に際しても、数多くのミュージシャンたちが追悼のメッセージを寄せています。
ASCAP(米国作曲家作詞家出版社協会)会長のPaul Williams(ポール・ウィリアムズ)の言葉。
「我々は現代における偉大な作曲家の一人を失った。ビル・ウィザーズの曲はアメリカで生み出された数多くの歌の中でも、最も貴重で、深遠な類のものだと言っていい。特にそれらが世界中の人々の心を――ジャンルも世代も超越して――普遍的に動かす、という意味合いにおいて。彼は見事なユーモアのセンスと、真実を見る才能を備えた、素晴らしい男だった」
個人的にはStingが2010年のドキュメンタリー(”Still Bill”)で語ったとされる言葉が、ビル・ウィザーズの作曲の本質を突いていると思います。
「作曲という行為の中で最も難しいのは、シンプルになりつつ深遠になることだ。そしてビルはそのやり方を――本質的に、および本能的に――理解していたみたいだ」
「私はヴィルトゥオーゾ〈音楽的巨匠。華麗な演奏を得意とする人〉ではない。ただ人々が自然に共感できるような曲を作ることはできた。ウェストバージニア州スラブフォーク出身の男にしちゃあ、まあ良くやった方じゃないかな」
(本人の言葉。2015年、ローリングストーン誌のインタビューにて)
実のところ僕が(勝手に)シンパシーを感じているのは、彼が三十も過ぎてからデビューし、成功していったという事実です。それも単なる経済的成功、というだけではなく、彼が彼自身のスタイルを築き上げていった、という意味合いにおいてです。それになんというのかな、なぜかすごく遠くにいる人、という感じがしないのです。普通の声で歌った、普通の人です。でも、だからこそ、普通の人の心に響くものを作ることができる。そういう意味では文学におけるレイモンド・カーヴァーとちょっと似たところはあるかもしれない。彼は黒人で、カーヴァーは白人であるわけですが。
アメリカという(いまだ人種差別の残る)国家において、黒人のワーキングクラスである、という事実が具体的にどんなことを意味するのか、僕にはよく分かりません。もちろん場所によっても、環境によっても意味合いは異なってくるでしょう。しかしあくまで一人の人間として見れば、みんな一緒なのだ、という気が――なぜか――彼の曲を聴いているとしてきます。それはなかなか悪くない気分です。「我々には寄りかかれる誰かが必要なんだ」と彼は歌っています(”Lean On Me”)。そこには人種なんか飛び越えた、人間としての自然な共感が窺えます。困っている人に――何一つ見返りを求めずに――さっと手を差し出す、というような。もちろん現実の世界がそううまくできているわけではないことは分かってはいます。しかしもしそういう心持がなかったとしたら、社会はかなり生きづらいものになってしまうでしょう。一生懸命働いて、収入を得る。ときには他人と競争して、勝たなければならない。そういう側面はたしかにあります。でもそれだけではない。ちょっとした親切心とか、ちょっとした一言とか、そういったものでもいいから、たとえわずかでも生活に加えられるだけで、世界の色彩を(ほんの少し)変えてくれるような気がします。そしてそういう感覚は我々の心――と身体――をじわりと温めてくれます。
「我々には寄りかかれる誰かが必要なんだ」。その通りだ、と思いながら、こうして僕は一人で文章を書いています。一人でありながら、なおかつ誰かとつながること。それは可能なのか? 少なくとも可能だと信じて僕はこうしてキーボードを叩き続けています。
結局一人の人間がこうして作品を作る、という行為は――音楽であれ、小説であれ――結果的に聴き手や読み手がそれを追体験し、あくまで自らのポジティブな側面に気付く、というところに本当の意味があるのかもしれません。そのためには僕は徹底的に僕自身にならなければならない。ビル・ウィザーズが飾らない歌声で、自らの自然なメロディーラインを辿っていったのと同じように。それは言うほど簡単なことではありません。ふと気付くと、つい格好付けていたり、外目を気にしたり、言い訳を言ったり・・・。その中でもたぶん少しでも自分を信じられるように訓練していくしかないのでしょう。それは一朝一夕にできることではありません。ずっと――おそらくは死ぬまで――続く過程なのだと思います。もっともそれだって辛いだけではない。僕が僕の中に見いだした何かを、うまくすれば読者のみなさんにも届けられるかもしれないからです。「かわりに何かをしてあげることはできないけれど、少なくともその実例を見せることはできる」ということかもしれません。あくまで生きるのは一人一人の個人です。僕はできることならその中心にあるものを――あるはずのものを――揺さぶりたい。そう思ってこれからもがんばっていきます。
P.S. 最近料理なんかをしながらBBCのPodcastを聴いています。(もちろん英語だから)何言ってるのか正直半分も分かっていない気がするのですが、なんか一瞬でも日本を離れられたような気になって、結構楽しいです。もっともニュースの内容はほぼ全部コロナウィルス関係ですが。中には実際に父親(七十代くらいの退役軍人)を亡くした女性の方とか、仕事を失った方とか、祖父を失った十二歳の少女とか(これはNew York Timesの”The Daily” という番組でした)、そういう普段は声を耳にすることのない人の肉声が聴けて――みんな涙ぐんでいましたが――それはなかなか貴重な経験です。ああそうか、顔も、言葉も、環境も違っているけれど、生きているのはそれほど変わらない生身の人間なんだな、ということがひしひしと伝わってきます。「死者何万人」というだけでは分からない、それぞれの物語というものが垣間見えてきます。もっとも数をカウントするのが悪いわけではない。それはあくまで事実だから。そしてそれらの一つ一つを自分と同等の重みを持った個人なのだ、と捉えていたら、たしかに身も心も持ちません。でもたまにはそういう視点を持つことも必要かもしれない、と思う今日この頃です。