少年と蛇

彼は孤児だった。誰も彼を助けてはくれないし、彼の方も誰かを助けようとは思わなかった。彼はもう十二歳にはなっていたはずだが、栄養が足りなかったせいで見た目には九歳くらいにしか見えなかった。彼は市場の売り物を盗んだり、ゴミをあさったりして生きていた。それでも自分が不幸だとは思わなかった。これが当たり前なのだと思っていた。

 

ある日彼は立派な家の玄関先に置いてあった牛乳を盗んだ。こんなところに置いておくなんて「盗んでくれ」って言っているようなもんだ、と彼は思った。良心の呵責かしゃくなんて微塵みじんも感じなかった。そんなものは腹が膨れてから考えればいい。

 

次の日もその家の前には牛乳が置いてあった。彼はまた躊躇ちゅうちょなく盗んだ。まったく、頭が悪いんじゃないのか?なんども同じことをするなんて。

 

でも三日目にも同じ所に牛乳が置かれているのを見た時、彼は不審に思った。これはいくらなんでも不用心過ぎる。もしかすると罠かもしれない。彼は用心深く辺りを見回した。しかし周りには誰もいなかった。そこで彼はまた牛乳を盗んだ。

 

なんだか不気味な気がしたので、次の日はその家の前を通らなかった。これはあんまり簡単すぎる、と思ったのだ。その次の日に通りかかった時、また同じ所に牛乳が置かれているのを見て彼は仰天してしまった。不審に思った彼は物影に隠れてその家の様子を窺うことにした。

 

じっと見ていると一人の女性がドアを開けた。まだ若い女性だ。彼女は戸口に置いてある牛乳を見て、なんだかがっかりしたように見えた。顔を上げて辺りを見回し、何かを探しているみたいだった。でもその何かは見つからなかったようだ。彼女は牛乳の瓶を掴むと、家の中に戻って行った。

 

きっとわざとあそこに置いていたんだ、と彼は思った。おれか、あるいはほかの誰かに盗んでもらうために。でも彼は大して感謝したいとも思わなかった。それなら最初から堂々と恵んでくれればいいじゃないか。なんでそんな手の込んだことをする必要があるんだ。

 

彼は気になってその後もその家の前をよく通るようになった。牛乳はいつもそこに置いてあったが、もう盗む気にはなれなかった。腹は減っていたし、牛乳は喉から手が出るほど欲しかったのだが、それはあまりに簡単すぎた。そこで彼はもっと難しいところからものを盗むことにした。

 

一度だけその家の女性と目があった。彼女は玄関先に置いてあった牛乳を回収しに来たのだが、その時彼は道端からその光景を眺めていた。彼女は素早く辺りを見回し、そこで彼の姿を発見した。彼は落ち着かない気分になった。そわそわして早く逃げ出したいと思った。それでも彼女は、彼の目をじっと見つめていた。彼も一瞬だけだが彼女の目を見つめた。それはとても澄んだ瞳だった。そんな目を見たのは彼にとっては初めてだった。彼女は彼に声をかけた。「ねえ、ちょっと」。でも彼は一目散に逃げ出していた。彼女に見つめられると、自分がひどく汚らわしい生き物になったような気がした。

 

そのうち彼は別の窃盗で捕まった。いつもならもっと注意深くやるのだが、その時は彼女の視線が頭の中に残っていて、そのせいでなんだか動きが鈍った。ものを盗むということに――ほんの一瞬だけだが――躊躇が入り込んだ。これはまずい、と思ったときには遅かった。次の瞬間目を上げると、恐い顔をした商店の主人が彼を見下ろすように立ち、その細い腕をこれでもかというくらい力強く握っていた。
街の人々はこそ泥の浮浪児に対して容赦がなかった。その時は何回かの鞭打ち刑だけで済んだが、その後彼は警戒されて、盗みを働くことができなくなった。

 

あるときあまりに腹が減って、彼は道影に寝転んでいた。もう動く気も起きなかった。彼はそこに寝転んで、ただ道行く人々を眺めていた。人々は彼になんか目もくれず、忙しそうに道を横切って行った。彼はしばらくの間そうやってぼんやりしていたのだが、やがて視線の先に一匹の蛇が見えた。それは大きな黒い蛇だった。彼はとっさに逃げようとしたのだが、もう立ちあがる体力も気力もなかった。蛇はにゅるにゅると彼に近づき、耳元まで来ると、そこで何かを話しかけた。
「なあ、おい、坊主」

 

少年は自分の耳が信じられなかった。彼は辺りを見回した。でも周りには蛇のほか誰もいない。
「俺だよ。俺がしゃべってるんだ」と蛇は言った。その声には、影のような濃密な余韻が付き従っている。少年はただ目を丸くして蛇を眺めていた。
「お前は見たところ腹ペコで死にかけている」と蛇はその不吉な声で言った。「このままでは間違いなく死ぬだろう。だってもう誰もあんたのことを助けようなんて思わないものな。そこで良い話があるんだ」
「良い話?」と少年は聞き返した。
「そうだ」と蛇は言った。「実を言うと俺も腹ペコなんだ。それでだ、もしおれの頼みを聞いてくれたら、あんたの身体を一生腹が減らない身体にしてやる」

 

「頼みって?」と少年は小さな声で聞いた。
「俺にあんたを食わせて欲しいのさ」と蛇は言った。
「そしたら死んじゃうじゃないか」と少年は言った。
「大丈夫だ。俺が食べるのはあんたの心だ。だから死んだりはしない」

 

少年は少し考えた。その蛇は明らかに怪しい雰囲気を持っていたが、少年には心というものがそれほど大事なものだとは思えなかった。そもそも心とは何なのだ?それは一体、どんな形をしているんだ?
「いいよ」とやがて少年は言った。「おれを食ってもいいよ」
「じゃあ契約成立ってわけだ」と蛇は言った。

 

蛇はするすると少年の口の中に入り込み、そこから彼の心の中に侵入した。彼の心はほかの人に比べてあまりにも乱雑で、取りとめのないものだった。温かい記憶というものはほとんどない。貧困と孤独がいたるところに暗い影を落としていた。でも蛇はそんなことは気にしなかった。蛇はそれら雑多な記憶をろくに確かめもせず、ひとつひとつ丸飲みにしていった。でもその中でただ一つだけ奇妙な光を放っている記憶があった。それは牛乳の記憶だった。

 

牛乳の記憶?なんでそんなものが光を放っているんだ。蛇は少し疑問に思ったが、結局その記憶も丸飲みにした。彼もまたずいぶん腹が減っていたのだ。蛇は腹いっぱい記憶を飲みこむと、ひとつ大きなげっぷをして、満足して少年の口から外に出た。蛇が外に出ると、少年はすぐさま立ち上がった。

 

「どうだ、気分は」と蛇は聞いた。
「何も感じない」と少年は言った。
「腹も減らないだろう」
「何も感じない」と少年はもう一度言った。

 

蛇はどこかに去って行った。少年はひとりぽつんと突っ立って、目の前に広がる新しい世界を眺めていた。しかしそこにある何ものも彼の心に訴えかけてはこなかった。なにひとつ意味があるとは思えなかった。少年は町を歩き、無気力な目で人々を見渡した。なにもかもが下らない徒労のように思えた。彼の姿を見ると、何人かの人々が悪態をついてきたが、彼はそれに対しても何も感じなかった。彼はそのまままっすぐ橋へ行き、躊躇ちゅうちょなくそこから身を投げた。

 

一方の蛇は元いたやぶの中に帰ったのだが、そこで気分が悪くなってきた。まったく。なにか悪いものでも食ったかな。蛇の腹の中で何かがうごめいていた。彼はたまらなくなり、それを吐きだした。それはあの牛乳の記憶だった。
「まずいな」と蛇は言ったが、その記憶は前の持ち主のところに飛ぶように帰って行った。

 

少年はあの女性の家に運び込まれた。彼は下流にいた人に助け出されたのだが、落ちたのが薄汚い浮浪児だと知ると、誰も彼を引き受けたがらなかった。そこに彼女が現れ、自分の家に引き取ると言ったのだ。
彼女は医者を呼び、手を尽くして彼を介抱した。医者は少年が生きられる可能性は低い、と言った。それでも彼女はあきらめなかった。運び込まれて二日経った頃、少年は少しだけ目を覚ました。そして「牛乳」と言った。彼女はそのとき疲れて果てて、近くの寝椅子で眠りこんでいたのだが、少年の声で目を覚ました。「牛乳が飲みたいのね」と彼女は言い、急いでそれを持ってきた。彼女はそれを何とか飲ませようとしたのだが、彼は全然飲み込もうとしなかった。ただ「牛乳、牛乳」と言ってうめいているだけだった。

 

 

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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