散歩をしている途中で眼鏡を拾った。何ということはないごく普通の眼鏡だ。特におしゃれというわけではないし、かといって時代遅れというわけでもない。いつもだったらそんなもの気にも留めなかったろう。でもその時僕はひどく疲れていて、なんでもいいから蹴飛ばしたいような気分だった。狭い部屋の中にいるのに耐えられなくて、外の空気を吸いに散歩に出たところだった。
外に出たところでさほど気分が良くなるわけでもない。でも風に揺られるカーテンを眺めているうち、何かに誘われるように僕は外に出ていた。
空は灰色に曇っていた。日曜日の午後三時の都会は、気分を爽やかにしてくれた、とは言い難かったが、それでも歩くことは僕にいくらかの落ち着きを与えてくれた。僕はすこし前に起こったあるごたごたを思い出していた。つまらないことが原因で起こったつまらない事件だった。僕はそんなもののことなんか考えたくもなかったのだが、意識がどうしてもそこに向いてしまう。僕は深い溜息をつき、下を向いた。
すると排水溝の辺りで何かが光っているのに気付いた。一度は通り過ぎたのだが、その光り方は僕の意識の中の何かを刺激していた。僕は道を引き返し、それが何なのかを確認しに戻った。良く見ると、それは排水溝に引っ掛かった眼鏡だった。
僕はその眼鏡を部屋に持って帰った。いつもならすぐに届け出ただろう。でもそのときだけは、その眼鏡がまさに僕に気付かれるべくしてそこに落ちていたような気がしたのだ。
僕は眼鏡を机の上に置き、じっくりと眺めた。左側のレンズに少しだけ傷が付いていたが、実用に供せないというほどではない。机に置かれた眼鏡には不思議な空虚感があった。そもそも眼鏡とは人間の視力を補正するものに過ぎない。眼鏡だけでは完全ではない。そしてその不完全さが――なぜか――僕の意識を惹きつけていた。
僕は飽きずに眼鏡を眺め続け、その持ち主について想像をめぐらしていた。これをかけていたのは男だろうか、それとも女だろうか。おそらく男だ。いかにも実用的というフォルムは堅い所に勤める役人を思い起こさせた。彼は何歳くらいだろう。きっと歳を取っているわけでもなく、若いわけでもない。ちょうど僕と同じくらいだ。彼に恋人はいるのだろうか。いないかもしれない。それはなんとなく雰囲気で分かった。でも心の中に大事な人の場所をちゃんと取ってあるのだ。
僕はそのようにして想像をめぐらしていたが、眼鏡を実際にかけはしなかった。そこまでいくと何かが損なわれてしまうような気がした。礼儀の問題もある。でもそれだけではない。
気付くと眠気がやって来ていた。時刻はまだ午後九時過ぎだ。こんな時間に眠くなるのは久しぶりだ。眠気は圧倒的な潮流のように押し寄せて来た。僕は風呂にも入らず、歯も磨かず、ふらふらする足取りでベッドに倒れ込んだ。
それは奇妙な夢だった。僕は誰もいない草原を歩いていた。見渡す限り青々とした芝生が広がり、澄んだ青空が上空を覆っていた。僕は久しぶりに清々しい気分になっていた。空気は新鮮で、心には曇り一つなかった。僕はあおむけに寝転がった。大の字になって青い空を眺めていると、なんだか自分もその一部になったような気がした。すると突然誰かに話しかけられた。
「失礼ですが、郵便局はどこですか」
僕は声のした方に目を向けた。しかしそこには誰もいない。
「ここです。あなたの真上です」
真上?そう言えば真上に何かがあるような気がする。ちょうど太陽の光が重なって見えにくくなっているところだ。僕は寝ころんだまま腕で太陽の光を遮った。すると宙に浮かんだ眼鏡が見えた。
「そうです。ここです」
眼鏡は喋るたびに少しだけ前後に揺れた。
「眼鏡さんが郵便局に何の用です?」
「そんなの決まっているじゃないですか。ゆうぱっくを出すんです。岡山にいる従兄のサングラスに贈り物をするんですよ」
眼鏡が一体サングラスに何を送るというのだ?
「私にもプライバシーというものがあります」と僕の考えを読んだように眼鏡は言った。
「実は僕にも郵便局の場所は分からないんです」と僕は答えた。
「そうですか。それではしかたない」と眼鏡は言った。彼のレンズは、なんだか暗い影を帯びているように見えた。彼は続けた。「その代わり、あなたの眼球を貰います」
そしてその眼鏡は、急に僕の顔に迫って来た。僕は眼鏡を掴むと急いで起き上がり、レンズのつなぎ目のところからポキンと二つにへし折った。そして足で何度も踏みつけ、そのレンズを粉々にした。
「そんなことをしても無駄ですよ」と粉々になった眼鏡は言った。「私はいつもあなたを見ています。いつだって見ているんです。だって私の持ち主はあなた自身なんですから」