今年もまた十一月がやって来てしまった・・・

 さて、皆様、ご無沙汰しておりました。十一月になりましたが、いかがお過ごしでしょうか?

 前回の文章を上げてから一カ月以上が経過してしまいました。その間何をしていたかというと・・・また小説を書いていました。10月31日締め切りの文学賞に、原稿用紙230枚ほどのもの。あとは地方文学賞に原稿用紙40枚ほどのもの。いやいや、まったく疲れましたよ。それにプラスしてバイトとランニングと筋トレと・・・あとは料理ですかね。もっと時間がほしいというのが正直な気持ちです。

 結局前回の記事で述べていた250枚ほどの作品を書いたあとで、やっぱりこれではいかん、と思い、また新たに別の作品を書き上げたわけです。じゃあそれでもっと良くなったのか、と問われると、なかなかそう自信も持てないわけですが・・・少なくともほんの少しは前進したのではないか、と思っています。これが受賞する可能性が少ないことは自分でもよく分かってはいるのですが、いかんせん、その都度その都度、その時点でのベストを尽くすこと。これ以外できることはありません。そうやって少しでも成長していくこと。

 そんなことをやっているうちに、十月末の誕生日が来て、29歳になりました。いやいや。月日が経つのは早いものです。こっち(東京の外れ)に来たときは、ええと、まだ24歳だったのですね。僕もまだまだ若かったんだ・・・。まあきっと29なんて歳は、もっと年上の人に言わせれば「いやいやまだ十分に若いよ」ということになるのでしょうが、それでもあと一年で30歳だと思うと、俺ももっと人間として成長しないとな、という気持ちがふつふつと湧いてくることになります。結局まあ、なんとかアルバイトをして、身体を動かして、文章を書いて、そうやって非カラフルな日常を生き延びているだけなのですが――特別な経験なんて何一つしていない――それでもそういった日々を一日一日積み重ねることによって、ちょっとずつ自分というものを構築してきたのだなあ、という感慨のようなものが、ほんの少しだけ湧いてくる今日この頃であります。

 さて、とはいっても、自分の書いているものにも、あるいは自分という人間そのものにも、まったく満足しているわけではありません。というか書き続ければ書き続けるほど、もっとうまくやれたはずだ、という思いが強くなっているようなところさえあります。これまではほとんど何も分からないままに、本能だけを頼りに文章を書いてきた、という感覚があります。その結果どうしても合理性、構築性よりは、感性みたいなものの方が――まあ良く言えば、ということですが――前面に出てきていた。それをこれからは、もっと攻めていくような、書きながらシステムを構築していくような、そういう書き方に移行していきたいという気持ちもあります。それはいう程簡単ではありませんが。

 いずれにせよ、少しずつ成長するしかない、というのが僕の感じていることです。前々からきっとそうなんだろうとは思っていましたが、この歳になって、ますますそう思うようになりました。あるいは29とか30というのは、そういう分岐点のような歳なのかもしれない。別に就職して、堅い仕事に就いているのが悪いというわけではないのですが、もし成長を止めようと思えば、人間はいくらでも成長を止めることができます。自分に対する好奇心を失えばいいのです。そして繰り返しの日常の中で、ただ生き延びることだけにプライオリティーを与えればいい。きちんと働いていれば食いっぱぐれることはないはずです。正直なところ、それはそれでひとつのまっとうな生き方だと言ってもいい。

 それでも自分を、自分の努力次第でバージョンアップさせていくことができるかもしれない、というのは考えてみればとても素晴らしいことです。その行為が客観的な意味で価値を持ち――たとえば小説という形にするとか――お金を稼ぐことができればそれに越したことはないのですが、まあそこまで行かずとも、あくまで精神的な意味において、そういう姿を保ち続けることは、きっと退屈な日常を生きる上での大きなエネルギーとなるはずです。僕はあるいは、最初からそういうところを目指していたのではなかったか。

 文章にせよ、音楽にせよ、やはりそれだけで食っていくというのは大変なことみたいです。きっとごく一部の人にしかできないのでしょう。それでも成長し続けようという姿勢を持つことなら誰にでもできます。もし本人が強くそうしたいと願うのなら、です。僕はそういった心持を信じたいし、まさに信じてこの数年を生き延びてきました。これからどうなるのかは分かりませんが、とりあえず生きている限りは前進したい。そして自分の可能性を広げていきたいと願っています。誕生日を迎えてより強くそう感じるようになりました。

 もっとも小説を書いているときに時折「方向喪失」のような感覚に陥ることもまた事実です。まわりを見回してみても空白しかない。あれ? 俺は今どこにいるんだっけ? どこに進めばいいんだっけ? まあきっとそれが小説を書くということの醍醐だいごなのでしょう。誰も進むべき道筋を教えてはくれない。それは自分が自分の責任で選び取らなければならないことなのです。そしてその責任というものの中にこそ、オリジナリティーの種が潜んでいるのではないか。僕はそう感じています。

 だからどれだけ表現方法が優れていたとしても――たとえば流麗な文章を書けたり、ものすごく歌が上手かったり、ということですが――その中身に十分なだけのが詰まっていなければ、往々にして退屈になり、かえって表現方法の巧みさが鼻についてくることになります。俺は(私は)こんなに上手に文章が書ける(歌が歌える)。どうだ。参ったか、という感じですね。でもその根元に目を向けてみれば、本当の意味での責任が取られていないことは明らかです。注意深く見れば――あるいは耳を澄ませれば――その辺のことは分かるようになるのではないかと思います。そう思うと人間というのはシンプルなものを求めているのかもしれない。これだけテクノロジーが進歩した時代にあって、少なくとも僕は、そういった感覚を抱かざるを得ないのです。音楽にしろ、小説にしろ――小説なんて一番シンプルな表現形態ですよね――それが表そうとしているのは人間の心の奥にある何かです。一種の心持のようなものです。僕らはそれを追体験することによって――もしそれが良い作品であれば、ということですが――よりポジティブな何かを、自分の中に発見することになる。

 まあ僕は多少範囲を広げ過ぎたのかもしれない。「人間とは・・・」とか偉そうなことは言えないのかもしれない。それでも少なくとも個人的な実感としては、みんなは心のどこかではシンプルな何かを求めているような気がするのです。一種の素朴さ、とでもいえばいいのか。

 もっとも大人になるにつれ――僕はまださほど大人でもありませんが――成長し続けていくことはなかなか難しくなっていくみたいです。まわりを見ているとなんとなくその辺のことが分かります。それでもなお、成長し続けようという姿勢を維持することは、人間にとってとても大事な気がするのです。

 たぶん若い頃の純朴さ(のようなもの)をそのままの形で保ち続けることは不可能なことなのでしょう。もし可能だったとしても、それはあまり正しいことではないような気がする。人間の意識は発達を求めるものだし――というかまあ僕はそう感じている、ということですが――だとすると、その純朴さを別の形に昇華する必要があるのではないかと僕は思います。子どもでありつつ大人になること、というのがなんとなく大事であるように感じています。それはなかなか簡単なことではなさそうですが。

 でもそう思うと人間というのは不思議な生き物だよな、とあらためて感じます。あくまで肉体だけを見れば、そこに実体というものが存在しているように見える。でもものを考えたり、言葉を選び取ったりする主体としての意識は、透明なものでるように僕には思える。そこにはいろんな要素が混ざり込んでいます。自分が自分であると思っているもの以外もきっと混ざり込んでいます。綺麗な部分もあり、汚い部分もあります。あくまで便宜的に必要だから、外見を見て、あああの人はああいう人だ、と決めつけてしまっているところは多々あると思います。それでも精神は動き続けているし、本来把握し(がた)いものです。僕自身についてもそうだし、ほかの多くの人についてもそうです。まあそう考えてみれば、若いうちに多少精神的に不安定である、というのはむしろ当たり前のことですよね。なにしろ毎日世界が揺れ動いているようなものなのだから。だからこそ一種の守りのようなものが必要とされるのでしょう。大人たちの保護によって、彼らは彼らの純粋な世界観を保つことができる。理想の未来。希望に満ちた生活。純愛。正義。エトセトラ、エトセトラ・・・。

 でもいつかはそこを出なければなりません。僕らはある一定の歳になったら、現実と直面しなければならない。そこには荒々しいものや、汚いものが多く潜んでいます。そしてそれは往々にして自分の中のそういった面の投影であったりもする。世界をきちんと眺めることは、自分自身をきちんと捉えることでもある、となぜか前々から僕は思っています。可能な限り価値判断を排除し、ニュートラルな目で物事を見つめること。そうすることで自分に関しても重要な何かが見えてくるのではないか。なんとなくそう感じています。

 おそらく重要なのは、その透明な精神をいかに固まらせないか、ということのような気がします。歳を取るにつれ、多くの人がシステムを硬直化させてしまいます。彼らは何が善で、何が悪なのかを知っているのです。でも僕にはそんなことは分からない。なぜなら善というものは――もちろん悪も一緒ですが――本来固定されたものではないからです。その基準はおそらくいつも動いています。テーブルテニス(ゲーム)のボールみたいに、あっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返しているのです。そう思うと小説家の役目というのは、そういった精神の様相を少しでも正確に描写することのような気がします。なんだか何度も何度も同じことを言っているみたいですが。

 結局そういった、「動くシステム」の在りようを提示することに、なぜだか僕はすごく興味を惹かれるのです。今まではもっと分かったような気になっていたけれど、書けば書くほど分からなくなってくる。何が不毛なのか、何が間違っているのか、ということを説明するのは比較的簡単だけれど、、ということに関しては、おそらくどこにも正解はないみたいです。ダイナミズムを捉えること、というのが大事だとは思うのですが、その先となると・・・なかなか分かりません。あるいは一生分からないのかもしれない。

 そう思うと小説という方法論はあながち理にかなっていると言えるのかもしれない。なぜならそれは、通常の意味での論理性とは離れたところに位置しているからです。少なくとも僕の考える優れた小説とはそうです。あらかじめ計算されたものではない(まあそういうものが世間ではもてはやされるのですが・・・)。いずれにせよ、通常の直線的な「こうなったらああなる」式な論理性とは別のところに、独自のシステムを持ってくる。そのシステムは生命を持っていなくてはならない。そしてそのシステムがもたらす物事のありようを、できるだけ正確に描写する。そうすることによって読者はあくまで体感的に、本来目に見えないはずの何かを、身体に通り抜けさせることになる。要するに自らの透明性を――流動性を――実感する、ということになります。

 まあそういった七面倒くさい説明はいいとして、結局は実物を提示できなければ意味がないわけです。そしてそのためには日々ちょっとずつ進歩していく必要がある。以前書けなかったことを、書けるようになっていく必要があるみたいです。もちろんこれは一般的な話ではなくて、僕個人に限った話ですが。

 たとえばレイモンド・カーヴァーは、小難しい哲学的な議論とかを一切持ち込むことなく、ワーキングクラスの人々の生活の在りようを提示する中で、結果的に何かを表現することに成功しました。それは精神にとってとても重要な何かです。シンパシーと言い換えることもできると思うけれど、それは単純な同情とか、そういったレベルのものではない。一見シンプルではあるのだけれど、彼の世界の切り取り方の中には、明らかに普通とは違ったものがあります。僕らはその視点を通して、何か大事なものを――あるいは大事なものの欠如を――感じ取ることになる。

 結局小説なんてものは、ただ紙に字が印刷してあるだけの、とてもシンプルな媒体です。最近の凝った音楽とか、コンピューターゲームとは比べ物にもならない。単純なエンターテイメントとして見れば、なかなか生き残っていくのは難しそうにも思えます。でもそのシンプルさゆえに、大きなポテンシャルを持っているとも僕は思うわけです。カーヴァーはその中でもさらにシンプルな言葉を使って、物語を作っていきました。それでも重要な何かを表現することは可能なわけです。それは彼の精神の深いところから発せられた言葉であり、それゆえに一種の特別な力を持つことができます。それはとてもポジティブな力です。熱い熱を持っているというよりは、じんわりと身体を芯の方から温めてくれるような、自然な熱です。言葉は意識の最も重要なツールであると僕は思っています。それをどのように使うのかは自分次第です。きちんとした場所から汲み取った言葉は、きちんとした力を持つのだ、というのが、僕がカーヴァーから学んだことのような気がします。僕はなんとか生き延びながら、言葉の出所を探り続けているのだ、という気さえします。その試みが実を結ぶのは、もう少し先になりそうですが。

P.S. 『従兄ポンス』読み終わりました。ポンスと親友シュムケの運命は・・・読んでいるとなかなか哀しくなるところがあります・・・。それでもバルザックの筆は、俗物を書くときに一番その真価を発揮すると思う。別の作品(『ウージェニー・グランデ』だったか)でも思ったことですが、この人はきっと常にいろんな人の良い部分も良くない部分も、執拗に観察していたんだろうなというのが伝わってきます。もちろん小説的に誇張している部分もあるとは思うのだけれど、その手法が巧みで、また人物が生き生きとしているので、一気に読み通すことができます。勧善懲悪でないところもまた、リアリティーを感じられるところです。そう思うとフランスというのはすごく変な国だよな、とつくづく感じることになります。いろんな変なことを経験して、いろんな変なことをやっている。それでも文化的には他国からすごく尊敬されている(少なくとも19世紀のころはそうでした)。綺麗なところはすごく綺麗だけれど、汚いところはすごく汚い。目に見えるところも、目に見えないところもそうです。いずれにせよ人間が本当に真剣になろうとするとき、考えることにはあまり時代によって変わりはないようです。それでも実際に生きるのはその時代です。その社会です。うーん。だとすると我々はここで何をするべきなんだろう? それはまあ僕がこれから生きながら考えていかなくてはならないことですが。

ミニトマトの列です。特に意味はありません・・・。
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

2件のコメント

  1. お誕生日おめでとうございます。
    いつも応援しています。
    お体に気をつけてがんばってくださいね。

    1. コンビニ人間さん。どうもありがとうごさいます。
      なんだか誕生日というものは、歳を取るにつれて疎〈うと〉ましくなってくるものみたいですね。昔はあんなに嬉しかったのにな・・・。
      まあいずれにせよ、僕はむしろこの機会を自分を捉え直すチャンスだと思うことにしています。現実は時に厳しいが、現実をきちんと見つめないと、正しい方向に進むことができなくなってしまいます。というかまあ、そう思ってなんとか自分を保っています。
      さて、僕は今どこにいるんだろう?

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