夜の爪切り

 昨日の夜(つめ)を切っていたら、蛇が出てきた。

 それは夜十一時くらいのことで、僕はふと手の爪が伸びていることに気付き、パチパチと切り始めた。床に胡坐(あぐら)をかいて、下にティッシュペーパーを敷き、その上にかつて僕の一部であった爪の亡骸(なきがら)たちを集めていく・・・。

 と、そのとき、視界の端に蛇がいることに気付いた。緑色の、黒い斑点を持った、比較的大きな蛇だ。その目はじっとこちらを見つめている。赤い舌を突き出し、何かを言いたそうにしている。でも何も言わない。僕はそんな彼(あるいは彼女)を見つめながら爪を切り続けていた。パチン。パチン。

 すべて切り終えてしまうと、部屋には奇妙な沈黙が下りた。何の音もしない。あたかもすべての雑音を蛇の目が吸い取ってしまったみたいに。

 なんだか気まずかったので、僕は声をかけてみることにした。

「どうも、蛇さん。こんばんは」

 すると彼は――声から男であると分かったのだが――返事を返した。「こんばんは」

 僕は一瞬驚いたが、なぜかその驚きもすぐに消えてしまった。どうしてだろう? あるいはこの状況が異常であるのと同時に、結構自然であったからなのかもしれない。僕と彼との間にはなんだか不思議なシンパシーのようなものが生まれていた。原始的共感。

「ええと」と僕は言った。「なんか飲みますか? お茶でも。なんなら牛乳とかありますけど」

「いや、いい」と彼は言った。その声は結構ダンディーだった。声だけでも女の子にもてそうな声だ。「私はそんなものは飲まない」

「じゃあ何を飲むんですか?」と僕は訊いた。というのもいささか興味があったからだ。蛇は一体何を飲むのか。

「哺乳類の血液だ」と彼は言った。そして一度シュルシュルという音を出した。赤い舌が蛍光灯の光を受けてキラリと光った。「決まってるじゃないか」

「それで、もしかして僕の血を飲みにきたんですか?」

「まさか」と彼は言って、ハッハッハと笑った。もっともその顔はまったく笑っていなかったら、僕はなんだか不思議な気分になった。こいつは一体何なんだろう?

「それじゃあなんで・・・」と僕は言った。

「それは君が夜に爪を切ったからだ。昔じいちゃんに教わらなかったか? 夜に爪を切ると蛇が出る、と」

「でもそんなのは田舎の非科学的な迷信でしょう? あれ? いや、待てよ。蛇が出るのは夜に口笛を吹いたときじゃなかったっけ? 爪を切ると・・・親の死に目に会えないとか、そういうんじゃなかったっけ?」

「そんなのはどちらでもいい」と蛇さんは言った。有無を言わせぬ口調だった。僕は思わず居住まいを正し、まっすぐ彼の目を見た。「大事なのは私が今ここにいるという事実だ。そして話はそこから始まるんだ。分かったか?」

「分かりました」と僕は言った。

「それで」と彼は言った。「君はこうして夜に一人で爪を切っている」

「ええ」

「彼女、いないのか?」

「いたけどずいぶん前に別れました」

「どうして?」

「どうしてって・・・たぶんお互いに飽きちゃったんじゃないですかね。なんというか、その、関係性のようなものに」

「ふうん」

「まあ、そんな感じで」

「今いくつだ?」

「二十九です」

「それで、サラリーマンをしている」

「そういうことになりますね」

「将来の夢はないのか?」

「夢? そうですね・・・」。そこで僕は自分の中のどこかに夢がなかったどうか考えてみたのだが、それは忙しい毎日を送っているうちに擦り減って消えてしまったようだった。名残なごりのようなものさえ残ってはいない。あるのは砂漠みたいに乾いた僕の憐れな心だけだった。

「どうもどこかに消えちゃったみたいです」と僕は言った。

「なあ」とそこで彼は言って、ゆっくりとこちらに近づいてきた。本当にゆっくりと、身をくねらせてこちらにやって来る。僕は身動き一つしなかった。

 彼の肌は冷たかった。僕はハーフパンツをはいていたので、ふくらはぎや(すね)のあたりで、じかにその肌触りを感じ取ることができた。彼はやがて僕の(もも)の上あたりにやって来て、顔をまっすぐこちらに向けた。不思議なことに、僕は何の感情も抱いてはいなかった。透明な心持だけが、今僕の全身を満たしていた。

「ためしに口笛を吹いてごらん」と彼は言った。そして服の下から、僕の上半身を胸の方に向けて這い上がってきた。僕は自分が自分なのか、それとも彼なのか、もはやそれさえも分からなくなっていた。心臓が一度ドクン、という音を立てたのが分かった。

「口笛を吹いてごらん」と彼はもう一度言った。「君は子どもの頃は吹けたのに、今では口笛を吹くことができなくなっている。でも試してみる価値はある。あの頃のことを思い出して。あのとき見ていた青空を思い出して。ほら、白い雲が横切っていった。君は草の匂いを嗅いでいる。クローバーの茂みに仰向けになって、じっと空を見つめている。そこに一匹の蛇がやって来る。さあ、口笛を吹いてみて」

 僕はなんとか口笛を吹こうと努力した。唇をすぼめて、息を吐く。こんな感じだったかな・・・。でも何の音も出ない。変だな、と僕は思う。口笛くらい昔は簡単に吹けたのに・・・。

 そのとき蛇が僕の心臓のあたりを舐めた。その感触は僕の魂を凍らせた。すべての価値あるものが遠のいていくような感じがした。僕は知らぬ間に涙を流していた。そして涙を流しながらもなお、過去のことを思い出そうとしていた。しかしそれもうまくはいかなかった。過去はかつてあった場所から姿を消していた。僕は自分が便宜的な人間になったことを知った。誰かと交換しても、支障のない人間に。そんなはずじゃなかったのにな、と僕は思った。そんな人間になるために僕は生まれてきたわけじゃなかったはずだ、と。

 やがて涙も枯れてしまった。僕は相変わらず口笛を吹けずに、ただその場でじっとしていた。蛇がするすると床に下りていくのが分かった。彼は今どこかに消えようとしていた。空っぽになった僕を残して。

「行かないでください」と僕は言おうとした。でも言葉は出なかった。出たのは長い間の疲れがこもった、吐息のようなものに過ぎなかった。

damesophieによるPixabayからの画像
村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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