最近ドーナッツ泥棒が出現しているらしい。地元の新聞でその記事を読んだ。それはこういう記事だ。
『ドーナッツ泥棒現る!』
ここ数日、東京都H市において、ドーナッツ泥棒が出現している。その男は暗闇に潜み――目撃情報から推測しておそらく男だと思われる――通りを歩く人々から、彼らの持つドーナッツだけを奪うのだ。奇妙なのは、彼が「ミスタードーナッツ」から出て来た客しか狙わない、という事実だ。今のところ別の店のドーナッツが奪われたという報告はない。これは彼が「ミスド」に特別な恨みを抱いているか、あるいは特別な愛着を持っているかのどちらかだ。もしかするとそのどちらも正しいのかもしれない(ちなみに筆者は大学で心理学の講義を取ったから、人間の心理についてはすこぶる詳しい)。
これは被害者Mさん(女性、三十代)のケース。
「私はあの日仕事帰りにミスタードーナッツでドーナッツを八個買いました。家に帰ってゆっくり食べるつもりだったんです。でも駅に向かって歩いているときに、誰かが右手に持っていたドーナッツの袋をひったくって行きました。『泥棒、ドーナッツ泥棒!』と叫んだんですが、あまりにも足が速くて追いつくことはできませんでした。彼はまるで風のようにやって来て、風のように去って行きました。おかげでその日はドーナッツを食べることができませんでした」
――(筆者)お一人で夜にドーナッツを八個も食べる予定だったんですか
「そうです。なにか悪いですか」
――いや、悪くないです。でも少しカロリーのことも気にされた方がいいのではないかと・・・。良く見るとおなかの辺りに肉が付き始めているみたいですし・・・。
「余計なお世話です」
ドーナッツ泥棒はこのほかにも全部で十人以上の人々からドーナッツを奪っている。しかもそれは全て「ミスド」のドーナッツなのである。これは近年まれに見る悪質な犯罪であり、一刻も早く犯人を捕まえる必要がある。筆者の見る所、彼の精神はほとんど崩壊寸前であり、ドーナッツの甘さにほとんど衝動的に飛びついているようである。警視庁は近々特別対策本部を設置する予定であると発表した。ドーナッツ好きの皆さんはくれぐれも注意して欲しい。ちなみに筆者の好きなドーナッツは「ポン・デ・黒糖」である。
これが記事の全文だ。この記事を書いた記者にも多少興味を惹かれたが、やはりドーナッツ泥棒そのもののインパクトには敵わない。それにしてもなぜドーナッツだけを奪うのだろう。ドーナッツというのはそれほど高いものではない。お店に行ってドーナッツを買えばいいのだ。ただそれだけのことではないか。
私はこの事件にあまりに興味を惹かれたため、記事で紹介されていた駅前のミスタードーナッツに行って、そこで十個入りのドーナッツを買った。そして夜の人気のない通りをぶらぶらと歩いてみた。当初私はそこで長時間粘るつもりでいたのだが、犯人は意外なほどすぐに姿を現した。それが見え透いた罠であるとは考えもしなかったみたいだった。彼は後ろからそっと近づくと、私が右手に持っていた十個入りのドーナッツの袋をひったくろうとした。しかし私は素早くその腕を掴んだ。
「おい、ちょっと待て」と私はどすを効かせて言った。
その何者かは必死に手を振りほどこうとしていた。
「警察には知らせない」と私は言った。「もし話を聞かせてもらえたら、このドーナッツを全部あげよう。だからおとなしくしてくれないか」
それを聞くと、その男は少しだけ力を抜いた。彼は「本当に警察に突き出したりしませんか」と怯えたような、小さな声で聞いた。
「それは保障する」と私は言った。
男はマスクを付け、キャップを被っていたからその表情は読み取れなかった。彼は言った。
「どんな話が聞きたいんです」
「なぜドーナッツを盗むのか、ということだ」と私は言った。
「そんなこと私にも分からないんです」と男は言った。「誰かがドーナッツを持っているのを見ると、もうむずむずして、我慢ができなくなってしまうんです」
「自分で買えばいいじゃないか」
「自分で買ったら意味がないんです。他人から奪ってこそのドーナッツなんです」
「君は働いていないのか」
「証券会社で働いています。正直に言って、お金は使い切れないくらいあります。でも最近心がひどく空虚なんです。まるで真ん中にぽっかり穴が開いたみたいな」
「ドーナッツみたいに」と私は言った。
「そう。まるでドーナッツみたいなんです」
「でもドーナッツを盗んだところで心の穴を埋めることはできまい」
「それは分かってはいるのですが・・・」
私は彼の手を離した。もう逃げ出す心配はないと思ったからだ。案の定彼は観念したようにその場に立ちつくし、逃げ出そうという素振りを一切見せなかった。
「これは明らかに一種の病だ。それは分かっているのかな」と私は言った。
「おそらくそうなんだろうと思います。でも頭でいけないと分かっていても、身体が言うことを聞かないんです」
確かに彼はあまり犯罪傾向のある人間には見えなかった。彼を見ていると、憤りを感じると言うよりは、なんだか気の毒になってきた。そこで私はある提案をした。
「なあ、それじゃあ私におまじないをさせてくれないか」と私は言った。
「おまじない?」
「実を言えば私はシャーマンなんだ」
「シャーマン?」
「つまり呪術師ってことだ。もしかしたら君の中の空虚さを埋められるかもしれない」
彼は少しの間何かを考えていた。そして言った。「いいですよ。僕もずっとこの苦しみから抜け出したかったんです」
私は彼に、マスクと帽子を取るよう言った。彼は大人しく私の言葉に従った。変装を解くと、彼はなかなかの美青年だった。私は彼の頭に両手を置き、意識を一点に集中すると、呪文を唱えた。「オールドファッション、チョコファッション、ポン・デ・リングにフレンチクルーラー!」
「ほんとにそんな呪文なんですか?」と彼が聞いた。
「いや、ほんとうは違う。これはただの冗談だよ」と私は言い、本当の呪文を唱えた。ちなみに本当の呪文の方は真似をする人が出て来ると困るので、ここでは割愛させて頂く。
私が呪文を唱えると、彼の目つきが一変した。目がぎらぎらと光り、口調が荒くなった。彼の中にいた悪いドーナッツの神が姿を現したのだ。
「おい、あんた、無理矢理呼び出しやがって、一体俺に何の用だ」と彼は言った。
「彼の空虚さを埋めてやりたかったんです」と私は言った。
「ふん、空虚さを埋められるのは本人だけさ。そんなこと常識だと思っていたがね」
「でもいささかの助けが必要な場合もあります」
「俺っちには関係ないね」
「あなたが彼にドーナッツを盗ませていたんでしょう」と私は言った。
「そう言えなくもないね」
「そんなことをして楽しいですか」
「そう言えなくもないね」
「あなたもかつては良いドーナッツの神だったはずだ」と私は言った。「どうしてこうなってしまったんです?」
「良いも悪いも相対的なものさ」と彼は言った。「彼が心に空洞を作ったんだ。心に空洞があれば何かがそれを埋める。良いか悪いかなんて関係ないさ」
「どうすれば空洞を埋められるんでしょう」と私は聞いた。
「だからそれは本人次第さ。おれは思うんだが、謙虚になることが大事なんじゃないかな」
「謙虚になる」と私は言った。
「そうだ。でも同時に自信を持っていなくてはならない」
「謙虚でありながら自信を持つ」
「まあな。それは言うほど簡単ではないが」
「でもあなたの中にも空洞がありますね」と私は言った。
「そうだ」と彼は認めた。「空洞を埋めた俺にも空洞がある。その空洞を今度は別なドーナッツが埋める。でもそいつにも空洞がある。そこにまた別なドーナッツがやって来るのさ」
「それじゃあ切りが無いじゃないですか」と私は驚いて言った。
「そうだよ。そんなことも知らなかったのか」
「だとしたら一体どこに救いがあるんです」と私は聞いた。
「だから謙虚になるべきだって言ってるじゃないか。謙虚でありながら自信を持つんだ」
「でもあなたはあまり謙虚じゃありませんね」と私は言った。
彼は少し困ったみたいだった。「それは、ほら、俺は神様だから」
「ふうん」
「なんだよ、そのふうんっていうのは。まあいいさ。俺は俺の好きに生きるから」
「本当はあなたも寂しいんじゃないですか?」
「寂しい?」
「あなたもかつては皆に愛されたドーナッツだったはずだ。あるいはその時には謙虚だったのかもしれない。でも何かがきっかけで今のようになってしまった。強がっているように見えるが、あなたの心もまた空虚なはずだ」
「あんたに説教されたくないね」と彼は言った。
「まあいいです。結局はあなたの人生なんだから。でもね、誰かに助けを求めることだって大事なことですよ」
彼は少し黙りこんでいた。そして言った。「別に強がっているわけじゃないさ。何だか知らないけど、いつの間にかこうなっちまったんだ。でもシャーマンごときにどうこう言われたくないね。こう見えても俺は神様なんだから」
私は彼の話など聞かず、もう一度呪文を唱えた。
「なんだよ、おい。不意打ちかよ」と彼は言い、あっという間に闇の奥に消えて行った。すると彼の空洞に巣食っていた二番目の悪いドーナッツの神が現れた。
「おい、あんた、無理矢理呼び出しやがって、何の用だ」
これじゃあいつまで経っても切りが無いな。まったく。