私は今日ここで
ウィリアム・ブレイクの詩を読んでいたのですが
いささか
悲しい気分になりまして
こうして
あなたに手紙を書いているというわけなのです
はい
ウィリアム・ブレイクの詩は
もちろんそのイラストもですが
素晴らしいのですが
いかんせん僕の精神状態が不安定でして
このように
涙を流していたのであります
はい
あなたは
このように遠くの街にいて
きっと
素敵な日々を送っているのだと思いますが(都合の良い思い込み)
私は
このようにこの陰鬱な街にいまして
一人
夜を過ごしているのであります
はい
そういえば
二年前のこと
あなたは私にこう言いましたね
覚えていますよ
ちゃんと
「私たちは
ある意味では
愛の奴隷なのだ」と
はい
いずれにせよ
時は流れていくのであります
はい
滔々と
いつまでも
どこまでも
ずっと
本当はそのことは隠しておいた方がいいのかもしれませんね
たしかに
あのときあなたがいみじくも言ったように
「ほら、ちょうど
子供にサンタクロースの正体を隠しておくみたいに、ね」
あなたはにっこりと笑って
夜の日差しを遮ったのでした
ほら、私は変なことを言っている
「夜の日差し」だって
昼なのか夜なのか
覚えてもいない
でもね、時はいつだってごちゃ混ぜなのです
あなたが
私が
それに気付いていないだけでね
夜の日差し
明るい夜空
これからやって来る過去
二度と戻らない未来・・・
年老いた老人が
子供に帰る
子供が
年老いた老人のように見える
あなたは・・・誰?
私にはそれすらも分からないのです
私はついこの間まで純粋な若者だった
でも今では老人です
額には皺が寄り(シワシワです。まるで干柿みたいに)
関節は軋み(まるで古いドアみたいに、ね。キーと)
記憶力は減衰し(私には2足す2が何なのかも分からない。6だっけ・・・?)
愛を入れるための心の器にはヒビが入っています
それはドロドロと漏れ出て
私の皮膚の隙間から
空気中に散っていきます
私は為す術もなくそれを見ているんだ
そんな日々を
最近送っていたのです
ウィリアム・ブレイクは
何かを求めて
イノセンスの奥に
何かを求めて
いた
と
思うのです
が
しかし
私はこうしてこの陰鬱な街にいて
電車が通り過ぎる音を
ただ聞いているのです
ガタンゴトン
ガタンゴトン
ゴォー
ガァー
はい
それで私が言いたいのは(時の流れ)
私が話したかったのは(時の執拗な流れ)
あなたに本当に伝えたかったのは(時の残酷な流れ)
死ではなく(ガタンゴトン)
詩でもなく(カランピシャリ)
愛の歌(静寂)
愛の歌(執拗な静寂)
ときどきいろんなことは
ピタリと止まってしまうから
まるで生命を持たないように
ピタリと静止してしまうから
私は逆に
動き続けようと思うのです(ガタンゴトン)
まるで列車みたいにね(ゴトンガタン)
僕は子供の頃
風車みたいになりたいなと思った
だって素敵だもの
いつもくるくる回ってさ
風が来たら回ってさ
素敵じゃない
鳥が飛んでこなければいいけれど
だって僕は誰も殺したくはないから
本当に?(ガタンゴトン)
本当にそうなのだろうか?(カランピシャリ)
僕は本当に(痛い痛い)
誰も殺したくはなかったのだろうか?(ひどい苦しい)
夢が
現実の形を取るまでに
ずいぶん時間がかかったけれど(牛の時間。モー!)
僕の場合(ガタンゴトン)
三十年もかかったけれど(象の時間。パオーン!)
しかしながら
それでもなお
こうして直立している(まるで墓石みたいにね。ハハ)
地震が来てもなお
こうして直立している(なぜなら僕はここにはいないから。本当は)
本当は?
僕は誰なんだろう?
あなたは誰なんだろう?
ほら
何かが今横切った
視界の先を・・・
手を伸ばすけれど
決して届かない
何か・・・
時を細分化して
皿に盛って
ドレッシングをかけて
食べてしまおう
モグモグと
ムシャムシャと
食べてしまおう
何の躊躇もなく
後悔もなく
良心の呵責もなく・・・
ほら
最後に何が残った?
それが実は
あなたの本質
じゃあね
バイバイ
空白
空白
ハックション! と誰かがくしゃみをした
けれど
実は誰も聞いていなかったから
それは
存在しないも同じこと
ハックション! ってね
ハハ
それじゃあ
さようなら
いつかまた会おうじゃないか
この街の
どこかでね
楽しく読ませていただきました。すぐにわかるところもあれば想像するところもある詩だったと思います。私も小説を書くのと並行して、詩を書いています。最近は現代詩に挑戦しています。現代詩は難解なものが多いですが、どこか私が書いている純文学とも似ているところがあるなと最近感じています。
Hayakawaさん。コメントありがとうございます。
そうですか。現代詩ですか・・・。残念ながら僕は門外漢です・・・。
なにしろ最近シェイクスピアとか、ブレイクとか、そういったところの韻文を——ようやく——読み始めたところだったのですから。
僕はずっと散文を中心に読んできたのですが、なぜか最近韻文を読みたくなって、古いものを原文と翻訳を突き合わせて読んでいます。失われつつあるイノセンスというものが、やはり彼らの(つまりシェイクスピアとかブレイクの)頭の中心に据えられていたもののように感じます。そしてそこに書かれている物事は、今ここを生きている我々にとっても実は切実に必要なものなのではないか、と、三十になってようやく感じ始めているところです。「イノセンス」というものは失って——完全に失うということがあり得るのかどうかは分かりませんが、とにかく——その価値が分かるものなのかもしれない。しかしその領域を(つまり幼少期の穢〈けが〉されていないハッピーな世界観を)抜け出して初めて、何か重要なことを理解することができます。そう考えると人間というものは難しいですね。成長するということには、否応〈いやおう〉なく哀しみが伴ってくるのかもしれない。それを受け入れて初めて、本当の大人になれるのかも・・・。