言葉について

 言葉について考えるとき、僕はいつも不思議な気持ちになる。というのもそれは(本来は)単なるコミュニケーションのツールであるはずだからだ。しかし、にもかかわらず、そこには独自の面白さがある。AイコールB、CイコールDというだけでは言い切れない、不思議な余白のようなものがそこには存在している。

 たとえば僕がある一枚の写真を見て、そこに映っているものを説明するとする。木があり、その奥に灰色の建物がある。何台かの車も見える・・・。しかしその時点ですでに一種の選別はおこなわれている。僕はどうして最初に「木」について説明したのか。それはどうして画像の大部分を占める青空ではなかったのか。あるいは背後にある建物は見方によってはクリーム色に見えなくもない。それをどうして「灰色」と表現したのか。手前にはバイクだって停まっている・・・。

 このように一つの客観的に同じ光景(と思われるもの)を見たとしても、人によって表現方法はさまざまである。つまり筆跡と同じように、言葉にもまた――良くも悪くも――個性が表れてくるのだ。

 しかしこの歳になって僕がひしひしと実感しているのは、そこには紛れもなく「壁」のようなものが存在している、という事実だ。それはもちろん比喩的な壁ではあるのだけれど、それ以外の有効な表現を僕は知らない。人にはそれぞれ個性がある。うん。たしかにそのとおりだ。それは顔を見れば明らかだろう。美しい人もいれば、それほど美しくない人もいる(僕もその一人だ)。あるいは多少いびつな形の顔をしている人もいる。しかしそこにむしろ魅力がある、という場合も少なくない。

 しかし僕が言いたいのはのことだ。言葉とは意識の有効なツールである。おそらく――というのも正確にはほかの人が何を思って生きているのか僕には理解できないから――ほとんどの人は言語的に外的世界を規定している。これはテーブル。これは椅子。これはパソコン。これは太陽・・・。

 言葉にはそれぞれ明確な区分があり、それがの物との境界を成している。ここからここまでが空。ここからここまでが海・・・。

 もちろんそれも物理的な名詞に限られている、とはいえるかもしれない。もっと抽象的な(たとえば「正義」とか、「真実」とか)言葉には、そうはなかなかいえないかもしれない。でもあくまで基本的には、そうやって僕らは自らの世界を規定している。

 その規定の仕方の中に僕は壁を感じてしまうのだ。それはおそらく自らを守る壁である。しかし同時に精神の自由を阻害する。一種の諸刃もろはつるぎである。もちろん僕自身も例外ではない。僕は僕の壁の中で生き、自分が選んだ言語によって世界を――世界を――規定している。

 さて、ここで小説というものの役割について考えてみたいと思う。果たして小説とは何なのか? それは言葉の羅列られつである。そう、まさにそうだ。それは言葉の羅列によって、読む人に一つのイメージを喚起させる。その中で一種の共感――あるいは共感――を生み出すわけだ。それはおそらくこの世に生きている一人の人間としてのシンパシーのようなものなのだと思う。僕は外国の作家の本を読むのが好きだったのだけれど、本来言葉も人種も文化も違うはずの人々の中にこんなにも分かり合えることがあるなんて、と思うと不思議な気持ちになる。あるいはそれは時代を超えることもできる。ドストエフスキーが小説を書いていたのは十九世紀のことである。しかし僕らは――少なくとも僕は――ラスコーリニコフの中に自らに似た部分を見いだしたり、あるいはすぐ近くにいる人の中にスメルジャコフの要素を発見したりする。

 おそらく小説は個人的な世界観を一時的に離れるための装置なのではないか、と最近僕は思っている。もちろん単なる暇つぶし、という重要な役目もあるのだが、僕が書きたいのはたぶんそういうものではないと思う。もう少しポジティブな役割を持ったもの。

 結局のところ人間は簡単に言葉で定義できない柔らかい部分と、言葉で定義できる固い部分との狭間で生きているのではないかと思う。壁がなければたぶん我々はこの世で生きることはできないだろう。それはある意味では裸で人中ひとなかを歩き回っているようなものだ。人々はあなたのを見通すことができる。立派な部分から、そうでない部分まで全部。それはもしかしたら気持ちの良い状態なのかもしれない。なにしろ何かの振りをする必要がないのだから。

 でもそれはもちろん危険なことではある。というのも世界は――こんなこと今さら僕が言うようなことでもないのだが――良い人だけで成り立っているわけではないからである(あなたの弱点を、彼らはピンポイントで突いてくるだろう)。それにもう一つ考えたいことが「レスポンシビリティー」ということだ。要するに責任、という意味だが、我々は自らが生きていることの責任を可能な限り一人で負わなければならないのではないか、と思うのだ。

 もちろんそんなことをしなくても生き延びることはできる(周囲を見てもらいたい)。というかまあ、むしろその方が――短期的に見れば――楽に生きられるように思えるだろう。しかしそれは罠である。さっきも言ったように、我々は壁であると同時に柔らかい「何者か」でもある。責任を放棄するということは、壁にすべてを委ねてしまうことを意味する。そうするとあなたはもはやあなたではなくなってしまうだろう。

 あるいは最も危険なのは自分自身なのではないか、と思うことも多々ある。結局どこに行ったところで自分から逃れることはできないし、文字通り一生付き合わなければならない相手がまさにこの自分なのだ(溜息)。いろいろな不備はあるにせよ(再び溜息)、ほかに替えはないのだから仕方がない。

 一方でその事実をむしろ積極的に利用してやればいいのではないか、と思っていることも事実だ。こんな風に考えられるようになったのはつい最近のことなのだけれど、それはまあたぶん年齢的なことも大きいのかもしれない。20代の始めの頃僕は自分に自信を持つということができなかった。自分に何かが生み出せるなんて、考えたこともなかった。しかし周囲の人間と同じようにスーツを着て、就活をして、(めでたく)就職をして、そして人生を終える、ということだけは避けたかった。

 もちろん今では就職をしたことで「負け」になるわけではないことはよく分かっている。結局のところ今だって週に何日もアルバイトをしているわけで、これならいっそ正社員になった方が待遇も給料もいいのにな、と思うこともたまにある。それに働きながらだって何か創造的な仕事をしている人もちゃんといるだろう。だからそれはまあそれとして、僕が言いたいのはオーソドックスな流れに対抗するだけの個人的な「何か」をまだ持っていなかった、ということだ。それは「自信」なのだろうか? うん。まあもしかしたらそうかもしれない。しかし何一つできない二十歳はたちの若者に、どうして自信を持つことができるというのか?

 たぶんポイントは「実際に身を持って生きる」ということなのだと思う。21か2くらいのとき、僕は自分を信じることができなかった。自分の未来さえ信じることはできなかった。しかしそれでもなんとか生き延びて――家族に心から感謝しなくてはならない――今に至る。もちろん今だってスタート地点に立っているだけに過ぎないのだけれど(正確には文学賞すら取っていないから、そこまでも行っていないことになる)、しかし少しずつ何かが分かり始めてきたような気がする。

 もっともそれは難しいことではない。ものすごく単純なことだ。なんというか、以前の方がずっと難しいことを考え続けていたような気がする。哲学的なことというかね。僕がこの数年のアルバイト生活の中で得た教訓はこれだ。

「自由は無料ただではない」

 え? そんなこと知っているって? 参ったな。だとしたらもう一つ。最初に言葉のことを話題に出した。結局僕がそれについて言いたいのは、「言葉は本当は言葉ではない」ということなのかもしれない。もっときちんと言うと、「内容よりも、むしろトーンやリズムの方が大事なのだ」ということになるかもしれない。あるいは「出所でどころ」と言ったほうがいいか。重要なのはむしろ言葉がどこから発せられているか、というまさにそのことである。動物は言葉を使わない。そんなものは必要ないからだ。しかし人間だけが言葉を使う。それによってある程度まではコミュニケーションが可能になる。二人の人間が、ある程度までは正確な一つのイメージを共有することができる。でもそれは「ある程度」までで留まっている。決してあるポイントから先には進むことがない。あるいはそれは、結局は我々の世界が他とは隔絶されたものであるからなのかもしれない。たとえば僕が「赤」という言葉を使ったときにあなたが連想する「赤色」は、たぶん僕のものとは微妙に違っているだろう。それがほかの言葉においても適用されるのだ。だとしたらどうして本当の意味で人と人が理解し合えたりするだろう?

 だからこそ小説というものが人間の心にとって大事な役割を果たす――ときがある――のではないか、と僕は思う。最近では本も売れなくなってきたし、そんなものを必要とする人はどんどん減ってきているのかもしれない。しかしこのテクノロジーの時代において、最も原始的なツールとしての小説がむしろ本当の意味では最も必要とされているのではないか、と思うこともある。僕は僕の言葉を語り、それによってあなたの中の何かを動かす。分からない程度に、ちょっとだけ。

 意識を持って生きる、ということはおそらくそれだけで一種の病気である。我々は肥大化した脳を抱え、税金を払い、カロリーの計算をし、犬の散歩をして、日々を生きている(これは一つの例ではあるが)。しかし結局のところ向かう先は例外なく暗黒の死である。そんなことわざわざ言われるまでもなく分かってるよ、とあなたは言うかもしれない。言わないかもしれない。でもまあ、僕は架空の読者に向かって語っているのであって、好きなように(ペラペラと)しゃべらせていただく。僕らは死に向かいながらもなお生きなければならない。もちろん生きなくたっていいのだけれど、生きなければならないような気が――少なくとも僕は――している。その根底にあるのは一種の原始的なエネルギーである。僕に言葉を語らせ、歌を歌わせ、絵を描かせる。毎日(最近少し休みを取っているけれど)、河原を走らせる。それは何なのか? おそらくはリズムであり、トーンである。僕に言わせれば。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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