空白 2

空白 1」の続き

 ポトリ、ポトリ、とその音は鳴っていた。どこから聞こえるのだろう、と僕は思う。それはこことは違う、どこかずっと遠くの場所で鳴っているように聞こえる。それはただの水なのだろうか? あるいは何かまったく別の液体なのだろうか?

 僕は今とても暗い場所にいる。ここがどこなのか、自分が誰なのかも分からない。ただ一つ明らかなのは、かつて自分がいた場所からは遥か遠く離れている、ということだ。それは物理的な距離、というだけでなく、もっと遠く離れている、ということを意味する。

 どうしてこんな場所に来てしまったんだろう、と思う。僕の見る限り、ここはとても荒涼として、何の温かみもない。人々との触れ合いもなければ、自然の美しさもない。なんにもないのだ。

 でもよく考えると、まったく何もない、というわけではない。そのポトリ、ポトリ、という音だけはずっと続いているからだ。僕はその音に耳を澄まし、考える。これは一体何を意味しているんだろう?

 そのとき突然一つのイメージが浮かび上がってきた。それは今まさに死んでいこうとする一人の男の姿だった。まだ若い男だ。髪の毛は短く、目が細い。アジア人であることはたしかなのだが、あるいは日本人ではないかもしれない。なんとなく雰囲気でそれが分かった。タイとか、ベトナムとか、たぶんそのあたりだろう。

 今彼はまっすぐ目の前の空間を見つめ、死んでいこうとしていた。両手を後ろに回し、一切何の抵抗もせずに、ただ何かを見つめているのだ。なぜ「彼が死のうとしている」と分かったかというと、それはそのひたいに穴が空いていたからだ。それは明らかに銃弾によって開けられた穴だった。空虚な穴だ。風がそこを通り抜ける音さえ聞こえそうだった。ポトリ、とまたどこかであの音が鳴った。

 彼はここで何を考えているのだろう、と僕は思った。あるいは家族のことかもしれない。恋人のことかもしれない。はたまた全然別のことかもしれない。でもそれも全部あとかたもなく消えていくのだろう、と僕は思った。おそらくその穴の中に。誰かが銃弾で空けたその穴の中に。

 そのときふと気付くと、彼の目の前にもう一人別の人間が立っていることに気付いた。それもまた若い男で、手に銃を握っていた。古い型の六連発式リボルバーだ。それは暗闇の中、キラリと銀色の光を放った。ついさっき彼がそのアジア人の男を撃ったのは明らかだった。硝煙しょうえんの匂いさえ嗅ぎ取れそうだ。

 僕は一目見て気付いたのだが、その男とはだった。なぜこんなところに僕が出て来るのかは分からなかったが、たしかに僕自身だったのだ。彼は一切表情を変えることなく、その男に銃弾を撃ち込んでいた。彼が確信を込めてその殺人を犯したことは明らかだった。あるいはその死んでいこうとする男は犯罪者だったのかもしれない。何か殺されても仕方のないようなことをしでかしたのかもしれない。

 しかし僕にはそれでもやはり何かがおかしいと思えた。そこには明らかに歪んだものがあったのだ。本当のところをいえば、と僕は思った。この立場は逆転しているべきだったのだ。本当に死んでいるべきなのは、むしろ銃を持っている僕の方だったのだ。

 しかし事実が変わることはない。決して変わることはない。それはすでに起こってしまったことだったし、それはもう僕にはどうすることもできない。そのタイ人だか、ベトナム人だかの彼は、ゆっくりと地面にくずおれていった。ひたいの穴からは赤い血が噴き出してきた。ひどい苦痛を伴ったに違いないが、彼の表情は一切変化を見せなかった。その穴を通る風の音がたしかに僕には聞こえた。ヒューとそれは鳴っていた。

 男が完全に倒れる前に、また別の場所からポトリ、という音が聞こえてきた。どこかで何かが垂れている音だ。これは一体何なんだろう、と僕は思う。どこでこんな音が鳴っているのだろう? どうやら今そこにいる僕自身もまた、そのことを疑問に思ったようだった。

 やがてアジア人の男は死んだ。彼はさっきまでは死のうとしている男だった。しかし今ではすでに死んでしまった死体に過ぎない。彼はもはや彼ではない。恋人がいたにせよ、家族がいたにせよ、そんなことはもう何の意味も持たない。彼自身の本質は、すでにどこかに消えてしまったのだ。

 しかしまたあのヒューという音が聞こえてきた。彼の額の穴を風が通り抜ける音だ。そしてその音の裏に、再び何かがしたたる音。ポトリ、ポトリ、とそれは鳴っていた。ヒュー、ポトリ。ヒュー、ポトリ。意味があるようでいて、何の意味もない。僕にはそれが分かった。

 と、そのとき、その銃を持った僕自身がこちらを見ていることに気付いた。彼はまさにこの僕を見つめている。そしてその銃をこちらに向けて構えている。一瞬背筋が凍りつくような気分を味わった。彼は僕を殺そうとしているのだろうか、と僕は思う。だとしたら、それは間違っている。なぜなら彼はまさに僕自身なのだから。

 しかし僕は彼に声をかけることができない。そこでは言葉は失われているのだ。さらにいえば、僕は今自分がどんな姿をしているのかも分からない。あるいは異形いぎょうのものに変わり果てているのかもしれない。「生かしておいてはおけない」と、そこにいるもう一人の僕が一目見て思うような。

 しかし彼の視線から、どうもそうではなさそうだ、ということが分かった。その目には、恐れや憎しみといったものは一切見受けられなかったからだ。そこにはあわれみの色すらなかった。彼が見ているのは、ただの真実だった。何の脚色もない真実。

 そのときまたあの音が鳴った。ポトリ、と。それはこれまでにも増してすぐ近くで鳴っているように聞こえた。まるで僕自身の内部で鳴っているかのような。ポトリ、ポトリ、とそれは鳴った。そしてそのときようやく気付いたのだ。これは僕自身の内なる声なのだと。

 僕はそれをすぐそこにいるもう一人の自分に伝えようとした。なあ、君はこの音をしっかりと聞かなければならないんだ、と。そしてその要求にこたえるんだ、と。そうすることによって初めて、君は十全に君自身になることができるんだ、と。

 でも僕の声が空気を震わせることはない。ここは言葉が意味を持たない場所なのだ。そして彼はいまだ僕に銃を向け続けている。その目は何も語っていない。希望も、失望も、その中には見えない。

 と、そのときあのヒューという風の音がさらに強まった。それは死んだ男の額を通り抜け、その暗い空間全体を覆い尽くしていった。甲高い音は、やがて女の声のようになった。それは美しくもなければ醜くもない、ただの自然の歌だった。しかし明らかに何か歪んだ部分がある。自然のものなのに、歪んでいるのだ。それは一体どういうことなのだろう、と僕は思う。

 やがてアジア人の額の穴から空白が噴き出してきた。さっきの風の音はこの予兆に過ぎなかったのだ。それはなにもかもを包み込む空白だった。原初の混沌ですら、そこに存在することはできない。空白とは何もないことを意味する。絶望もなければ、希望もない。生も、死もない。恋人も、家族もない。空白には友人はいない。

 ヒューという風の音は、一瞬だけむせび泣くような音に変わった。でもそれも僕の気のせいかもしれない。そうであってほしいと、僕が勝手に思っていただけなのかもしれない。空白はなにもかもを包み込もうとしていた。銃を持ったもう一人の僕も、そして今ここにいる僕自身も。

 でも彼がそれに終止符を打った。自ら先手を打ったのだ。彼はこちらに構えていた銃を突然自分に向けると、躊躇ちゅうちょなくこめかみを撃ち抜いた。パン、という乾いた音が鳴った(不毛な音だ)。そして銃弾が貫通し、反対側のこめかみから勢いよく飛び出てきた。そこに今、別の新たな通路ができたというわけだ。

 風はすかさずそこに入り込み、今度は別の音をかなで始めた。それはさっきのアジア人の歌とは全然違ったものだった。もっと低く、哀しみに満ちている。しかしそれは自然の歌ではなかった。明らかに人為的なものがそこには込められていた。そして――これが一番重要なのだが――そこに歪めれらたものは一切なかった。

 その歌はさっきの甲高い声に執拗に対抗していた。もう一人の僕の死体からは別の種類の空白が飛び出てきた。それは透明な空白だった。それはさっきのアジア人から出た白い空白とついをなし、真ん中で激しくぶつかり合った。僕は――もはや自分が何なのかも分からない僕は――ただじっとそれを見つめていた。歌と歌とがぶつかり合っていた。空白と空白とがぶつかり合っていた。二人の死んだ男が、微動だにせず頭から血を流していた。地面に転がった銀色のリボルバーが、キラリと光を反射した。ポトリ、という音がまたどこかから聞こえた。温度が上昇するのが分かった。空白と空白の境目に、何かが生じ始めているのが分かった。何か、今まではまったく存在しなかったものだ。僕にはそれが分かった。ポトリ、という音がまた聞こえた。何かが、どこかにしたたっている音だ。何が、どこにしたたっているのだろう?

 僕は今燃え尽きようとしていた。二つの死によって、僕は生かされていたのだ。歌と歌の境目。空白と空白の境目。生と死の境目。ポトリ、という音がまたどこかで聞こえた。ここは一体どこなのだろう、と僕は思う。でもそんな考えもすぐにどこかに消えてしまう。二人の頭の穴からは、いまだに空白が飛び出し続けている。白い空白と、透明な空白。ヒューという風の音が鳴った。、と僕は思った。

村山亮
1991年宮城県生まれ。好きな都市はボストン。好きな惑星は海王星。好きな海はインド洋です。嫌いなイノシシはイボイノシシで、好きなクジラはシロナガスクジラです。好きな版画家は棟方志功です。どうかよろしくお願いします。

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